残留兵士たちの大東亜戦争

 天皇皇后両陛下は、三月のベトナムご訪問の際、「ベトナム残留元日本兵家族」と面会された。一連の報道では、戦後もベトナムに残った日本兵が多数おり、その残留日本兵と結婚したベトナム女性とその子供などが現地で戦後大変な苦労をしたということが主として報じられた。

 しかし、元日本人兵士がなぜ残留し、また何をしたのかについてはほとんど報じられなかった。まとまった研究が少ないためとも言えるが、本誌読者にはいくつかの事実は知っていただきたいと思い、ベトナム独立戦争参加日本人の事跡に関する東京財団の研究報告書(井川一久他、二〇〇五年)に基づいて紹介させていただきたい。

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 終戦後、ベトナムではベトナム民主共和国(いわゆる北ベトナム、以下DRVと略。当初は共産党以外の勢力も参加していた)が成立したが、全土は無政府状態にあった。そうしたなかイギリス軍とともに上陸したフランス軍が再植民地化をもくろんで都市を占領するなどの軍事行動を起こし、それに抵抗するDRVとその軍事組織であったベトミンとの間で戦闘となる。

 いわゆる第一次インドシナ戦争(ベトナム独立戦争)で、復員を待っていた日本兵のなかから約八百名がこの独立戦争に加わった。武器もなく軍事教育を受けた人材もいなかったベトミン側は、戦争中もベトナム人と友好関係にあり、インドシナの仏軍を圧倒した日本軍将兵の協力を期待したのは自然のことでもあった。また日本軍の方も独立のために戦おうとするベトナム人に対して同情的であった。こうした事情が八百名もの日本人将兵の独立戦争参加につながったと言える。

 東京財団の報告書は、日本軍兵士個々の離隊・残留の理由を挙げているが、そこには「ベトナム独立闘争そのものへの共感があったことは確かである」と分析している。また、ベトミン民兵を訓練しながらメコンデルタを転戦し、仏軍との戦闘で重傷を負い、後にベトナム女性と結婚した兵士に対して、なぜベトミンに加わったのかと尋ねている。それに対して、この陸軍一等兵は「あれは大東亜戦争の続きだった。ベトナム人を見殺しにして、おめおめと帰国できるかと思った」と答えている。

 しかし、訓練の経験もなく個人用火器すら持たないゲリラとともに仏軍と戦ったのだから、犠牲も大きかった。八百名の日本兵士の約半数は戦病死したであろうと報告書は推定している。また、ホーチミン(旧サイゴン)市近郊の村で昭和二十一年二月に仏軍来襲に際し、まったく戦闘経験のないゲリラ部隊を逃すために日本兵二名が白兵戦に打って出て戦死した事例が、二人の墓が今でも村の守り神として大切にされている事実とともに紹介されている。

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 彼らは前線で戦っただけではない。この報告書はベトナム最初の士官学校(クァンガイ陸軍中学)が作られた際、教官と助教はすべて日本人将校と下士官であり、そのカリキュラムは陸軍『歩兵操典』の翻訳だったと記している。訓練は厳しかったが、四百名の生徒は率先垂範する日本人教官を畏敬し、その服装をまねた「ニャット・コン(日本人の弟子)」スタイルを誇りにしていたという。この学校出身者は、後のベトナム戦争時には前線の連隊長や師団長級の指揮官、作戦参謀となって米軍を苦しめた。例えば、一九七五年のサイゴン陥落の際に大統領官邸前に一番乗りした戦車部隊の指揮官はこの学校の出身者だという。

 一九九六年、この学校の日本人教官の一人にベトナム側から勲章が授与された。その際、ベトナム人民軍上級幹部はこう挨拶したという。「飢えたときの(米飯の)一口は、満腹時の(食べ物の)一包みに勝る。我々の最も苦しかった時代の彼ら(日本人)の貢献は何よりも貴い。わが軍の現役・退役将官・佐官と退役上級幹部は、おおむね日本人から何らかの教えを受けている」と。

 彼らが戦った独立戦争は最終的には共産国家につながったが、こうした日本人兵士への記憶は、今日の日越友好関係の理由の一つともなったと言えよう。

 残念ながら、現地で戦病死した日本人兵士のほとんどは本名も分かっていない。戦後も「大東亜戦争の続き」を戦い続けた「名もなき兵士たち」に改めて哀悼の意を表し、記憶にとどめたい。(日本政策研究センター所長 岡田邦宏)

〈『明日への選択』平成29年4月号〉