野党に欠落する「統治を担う意識」

 現在、国会では特別国会が開会中だが、野党は相変わらず安倍政権批判一辺倒を出ない。もっと積極的に自らの考えを示すなり、具体的提案をするなり、もう少しましな対応もあってよいではないか、と率直にいって思う。そんな中、明治期の自由民権運動に対する、次のような奈良岡聰智・京大教授の指摘に思わず膝を打った(毎日10・12)。

 「自由民権運動の論理だけでは、政党政治の発展は難しかった。藩閥政治が政党政治へと移行するには、政党は権力を批判するだけでなく、自らが統治を担い得る存在であることをアピールし、証明する必要があった」

 ただ藩閥批判を繰り返しているだけでは、自由民権運動は本当の政党政治へとは発展し得なかった、というのだ。むろん、奈良岡氏はそうした視点から、大隈重信が在野で展開した政党としての活動の役割の大きさを指摘するのだが、しかしその大隈と板垣退助が連立して実現した日本初の政党内閣(隈板内閣)はたったの四ヶ月で崩壊に至る。氏は更に指摘する。

 「問題は、政党政治家の多くが藩閥政府に対抗するのに性急な一方で、統治を担うという意識や行政知識を欠いていたことであった」

 筆者もまたこの隈板内閣については、かつて民主党政権の時代、一文を草したことがあったが、まさにこの「統治を担うという意識」の欠如の一点に、この二つの政権を重ね合わせ、その共通点を感じたことであった。

 さて、こう書いてくれば、筆者の意図は明らかだろう。日本の野党はどうしてかかる体質から今なお脱し得ないのか、ということだ。自由民権の時代から百年以上が経ったにもかかわらず、未だにこの日本にはまともな野党は育っていない。彼らは相変わらず口を開けば「モリ・カケ」のみ。一体、この日本にはこれ以外に論ずるに値する問題はないのか、とさえ嘆じたくなる。むろん、疑惑があれば解明を求めるのは当然だ。しかし、少なくとも首相がそれに関わったという証拠が出てこない以上、それでも「疑惑だ、疑惑だ」といつまでも騒ぎ立て続けるのは貴重な政治的時間の浪費以外のものではない。

 そこで、野党がかかる状況から脱し得ない理由となるのだが、これは先の奈良岡氏の指摘がその解答というべきで、要はこの日本の「統治を担うという意識」の欠如がそれだと筆者は指摘したい。確かにその「統治」を担うためには、目前の安倍政権を倒す必要がある。そのためには、ともかく安倍政権に傷を負わせることが至上命題であろう。しかし、その他者攻撃だけの「野党体質」が実は彼らをダメにしているのだ。

 「日本の野党は『護憲』と『自衛隊の役割拡大阻止』に多くのエネルギーを費やしてきた。国際情勢の変化をとらえ、政府と外交や安全保障で建設的に議論する気運は今も乏しい。……しかし有権者の多くが野党の政権担当能力に不安を覚えたのも事実だ。外交や安保、税と社会保障改革といった重要課題について、立憲民主党や希望の党は今後も明確な対案を示さないつもりだろうか」(日経11・19)

 日経の坂本英二記者はかく指摘する。氏もいうごとく、野党に安倍政権以上の政策が見えない以上、いくら安倍政権批判に効果はあろうとも、だからといって即政権期待にはならない、と氏はいうのだ。

 先の選挙では立憲民主党が躍進した。しかし、だからといってこの党に政権交代の可能性が生まれたかといえば、それは疑問だ。左派にとって今やこの党が希望といってよいが、しかしこの期待こそが実は拘束だともいえるからだ。政権交代可能な政党たることを阻むのは、まさにこれらの左派勢力の野党意識でもある。とすれば、いつになったら野党に「統治を担うという意識」は生まれるのか。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成29年12月号〉