自衛隊明記で憲法9条は「防衛条項」にもなる

 憲法改正案のとりまとめに向け、自民党の議論にも拍車がかかってきたようだ。問題はむろん第九条だが、いずれ議論は収斂し、一項と二項を残した自衛隊明記(あるいは自衛権明記)でまとまるのではないか、と新聞などは報じている。そこで、今回はそれを前提に、最近筆者が考えていることを書かせていただく。

 この自衛隊明記については、それにより自衛隊の何が変わるのか、ということが賛否双方の側からこれまで問われてきた。公明党の賛同を得ることを前提とすれば、現在の政府解釈を変えるような条文はあり得ず、ならばこの単なる自衛隊明記に一体どんな意味があるのか、といった疑問が呈されてきたからだ。

 むろん、これには自衛隊が合憲化されるという意義がまず指摘されてきた。安倍首相もいうように、「違憲であるかも知れないが、いざというときには体を張ってほしい」というのは自衛隊員に対して余りにも失礼で、これほどいい加減な話もない。とすれば、憲法学者の六割にも上るとされるかかる違憲論に終止符を打つだけでも、大きな意味があろうとする議論だ。

 筆者はこの指摘に全く異論はないが、更にいえば第九条を根拠とする、いわゆる空想的平和論に与える影響をもまたこれに加えたらどうか、と最近考え始めている。というのも、軍事というものの役割を一切認めないこの平和論は、まさにこの第九条あるがゆえに影響力をもち、今日に至るまでわが国の安全保障論議に支配力を及ぼしてきたといってよいが、この軍事の役割を一見否定したとも見える第九条に自衛隊が明記されることとなれば、この平和論は逆に憲法上の論拠を失うからだ。つまり、自衛隊を否定したり、機会があればその活動をただ制限せんとする、いわば自衛隊へのあれこれ形を変えた否定論や制限論の口実とはならなくなるということだ。

 われわれもむろん、平和を求めることにかけては人後に落ちるものではない。しかし、あくまでもそれは、九条一項にもあるように「正義と秩序を基調とする国際平和」を求めるものであり、不法な力に一方的に屈服し、正義も秩序も否定された上で、ただ「形ばかりの平和」を求めるものではない。つまり、かかる不法な支配や圧迫を拒否するためには、一定の力の保持は不可欠だと考えるのだ。

 とはいえ、第九条にあるのは一見その力を否定したり、制限したとしか見えない文言で、積極的にこの力の役割を肯定し、それを位置づけんとする文言ではない。換言すれば、この日本の安全保障努力に対する「制限規範」ではあっても、その権限を正面から認める「授権規範」ではないということだ。この現実がわが国に空想的平和論を跋扈せしめる元凶となったのだ。

 これまで第九条に関わる改憲論といえば、自衛隊の権限に関わるものが専らだった。むろんそれは当然で、軍隊でない自衛隊に、ならば何ができるのか、ということがわが国の安全保障には喫緊の課題であったからだ。しかし、国民にはむしろそれ以前の自衛隊の存在そのものが、実はより緊要な問題だったのではないか。自衛隊は必要だとは思っても、憲法論も全く無視はできず、その間の関係をどう考えたらよいのかが、とりあえず疑問であったのだ。

 とすれば、自衛隊明記により、この疑問に解答を与えることは大きな意味をもつのではないか。憲法が考える平和とは実は自衛隊の存在を前提としたものだ、ということをまずハッキリさせるのだ。

 自衛隊明記となれば、第九条は「平和条項」であるとともに「防衛条項」としての位置づけを得る。ここに初めてわが国の安全保障論議は、この憲法の規定に立脚し、単純な軍事否認を脱した、現実的議論となるのだ。その意義を軽んずるべきではない。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成30年3月号〉