皇位継承儀礼を問題視する朝日新聞の「偏狭」

 来年に行われる天皇の皇位継承に伴う儀式について、共産党が早速政府に対し「憲法の原則にふさわしい行事にすべき」との申し入れを行ったという(3月22日)。同党の日頃の主張からすれば別に驚くこともないと思っていたところ、数日後、今度は朝日がほぼ同様の趣旨に立つ見解を社説で表明し(4月3日)、これには少々驚かされた。既に国民の間にコンセンサスが成立していたと思われたこれら儀式への認識に、改めて異論が呈されることとなったからだ。

 朝日の疑問は、概略すれば神話に由来する儀式のあり方、及び神道儀式の色彩をもつ大嘗祭への公金支出が憲法の原則に触れるのではないか、というものだ。確かにこれは昭和から平成への皇位継承の際にも議論を呼んだ問題であったことは事実だが、実際には今回の政府決定とほぼ同じ考え方の下にこれらの儀式は挙行され、一部の反対はあったものの、結果として国民世論的にはほぼ好意的に受け入れられ、決着を見た問題であったともいえる。しかし、それを今回もまた改めて問題にしたいというのだ。

 まず「剣璽等承継の儀」である。朝日は「剣璽」は神話に起源をもつがゆえに問題があるとする。この見解にはまず筆者個人として疑問があるが、ここは政府見解がテーマであるのでひとまず措く。

 第一の観点は、政府によれば、この儀式は旧皇室典範下の「剣璽渡御の儀」とは明らかに違うという点だ。「神器」のみの継承ではなく、それとともに「御璽」「国璽」の継承もまた伴う形に修正されているからだ。まさに「剣璽」である。つまり、「神器」以外のそうしたものも含め、皇室経済法第七条にある「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」の「承継」として、この儀式は位置づけられているのである。姑息といえば確かに姑息だが、少なくともこれで前回は憲法上問題なし、となったのだ。かかる配慮を朝日はどう考えるのだろうか。

 即位の礼については、朝日は「高御座」などというものが使われ、天皇が首相を見下ろす一段高い位置から「お言葉」を述べられるのが憲法の国民主権の趣旨にもとる、と主張する。しかし、そんなことをいえば、ならば国会に今もある所謂「玉座」と、国会開会式のあの形体も同じではないか、との問題も出てくるのではないか。「玉座」は国会議員席より数段高い所にあるし、その位置から天皇陛下は今も「お言葉」を述べられている。ならば、そちらも国民主権の原則からいって問題だというのだろうか。

 大嘗祭への公金支出については、これを朝日は政教分離の原則に触れる疑いがあるとする。しかし、問題は大嘗祭という宗教的色彩を指摘される儀式そのものに公金を支出する話ではないということだ。つまり、大嘗祭の「祭儀」そのものではなく、「その挙行を可能とする手だて」という外枠部分に、国がこの儀式の伝統的皇位継承儀式という「公的性格面」に着目し、これに公金を支出するという問題なのである。これをもまた政教分離に反するとするのは、現にある宗教的文化財に対する国からの補助等の問題と比較しても、何とも狭すぎる解釈ではないか。

 いずれにしても、これが朝日が提起する疑問だが、筆者には余りにも理屈に偏した一面的思考としか思えない。政府見解の出来は別としても、ならば彼らのいう通り、伝統的なものを全て排除したらそれで満足なのか、とあえて問いたい気さえするからだ。こうした伝統的なものを全て否定することが、果たして国民が求めていることなのか。

 憲法は伝統的存在たる天皇を国民統合の象徴とした。とすれば、その本質でもある伝統を否定して天皇は象徴たり得ない。型にはまった思考を抜きに、ここはゆったりと伝統に眼を向けたらどうか。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成30年5月号〉