一体、何が問題なのか

森友学園問題は文書の書き換えが、加計問題では当時の首相秘書官との面会文書が、防衛省では自衛隊イラク派遣での日報問題が……という具合に毎週のように何かの文書やメールが「発見」され、答弁と違うではないかという野党やメディアの追及が続いている。多くの方から、もうテレビニュースも新聞も嫌気がさして見る気もしなくなっているとの声を聞く。

不祥事には機を逃さず厳正に対処しなければらないし、わが国の文書管理が不十分なことは事実なのだろう。しかし、何か事が起これば、事実の究明がまず先決のはずなのに、「疑惑」なるものが報道された瞬間から、責任追及がまず起こる。しかも、判で押したように安倍内閣の責任だと言う。北朝鮮の核とミサイルを巡って、東アジア情勢の今後を左右する重大な局面への対応など、どこ吹く風の国会にもメディアにも、あきれ果ててしまう。

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そもそも、こんなことをしていると、何が問題なのかという問題の本質への追及など出来なくなってしまうのではあるまいか。

例えば、森友学園問題での財務省の文書書き換え問題は、書き換えたことはむろん大問題だが、公表された文書を読めば(ものすごく長いもので、ほとんどの人は読んだことはないだろうが)、要は局長答弁に合わせて書き換えられたことは十分に推測できる。まだ事実関係はすべて明らかではないが、要は役人が役人を擁護した結果であり、問題の本質はそこにあるとしか思えない。安倍首相や夫人、政治家の名前が消されたと一面で報じた新聞があったが、文書を本当に読んだのだろうか。その部分は決済文書本文に参考として付属された文書のさらに注記のような一節に過ぎず、むしろ追及する側にとって「不都合な真実」と言えるのではないか。

防衛省の日報問題にしても、文書の管理や報告が甘かったのは問題だった。そもそも派遣部隊の日々の活動がすべて書かれているのが日報である。昨年の南スーダン派遣の日報問題ではそのなかに「戦闘」という言葉があったとして問題だとされた。しかし、現場からの状況報告と派遣法などに言う「法律上の戦闘」とを同じだと問題視するなら、日報を書く意味がなくなってしまう。

そもそも日報が行政文書として情報公開の対象となっていること自体が問題だと言えよう。進行中の部隊活動の詳細を公開することは部隊や隊員を危険にさらし、事後の作戦にも支障となろう。欧米では日報は保存されるが、開示されるのは三十年から五十年後だという。本当に問題にすべきは、日報の位置づけの方ではないのか。

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国会審議の詳報や政治家の発言を読みながら、様々なことを思い出し、また連想してしまう。追及する側は、国民の財産である文書管理のずさんさは民主主義の根幹を揺るがすと言う。ならば、東日本大震災の緊急災害対策本部で関連して設置された十五の会議のうち十の会議で議事録さえも作成しなかったことは、はるかに深刻な問題ではないのか。また憶測だけで「証人喚問だ」と主張して容疑者扱いしたり、証人喚問に応じた財務省の前理財局長が刑事訴追の恐れを理由に証言を回避すれば、今度は「隠蔽だ」「逃げるな」などと非難する。「自己に不利な供述を強要されない」という憲法規定(三十八条)は前局長には適用しなくてよいと言うのだろうか。

こんなことを主張する人たちが、「立憲」と「民主」を看板にする政党の議員なのだから、看板に偽りありと言わねばならない。問題の本質の追及など最初から眼中にないということなのだろう。(日本政策研究センター所長 岡田邦宏)

〈『明日への選択』平成30年5月号〉