千年の歴史を貫くもの

 大震災からまもなく五カ月となるが、この間、「千年に一度」という言葉を何度聞いたことか。それは、きわめて希な大震災という意味でも使われているが、千年前にも同様の大災害が東北を襲ったという意味でもある。

 よく知られているように、それは平安時代初期、貞観十一年に今の宮城、岩手で起きた大地震と大津波である。この年は西暦で言えば八六九年だから、千年というより正確には千百四十年ほど前ということになる。

 その様子は『三代実録』という正式な歴史書に記録されている。貞観十一年五月、陸奥の国で大地震が発生し、「建物の下敷きになって圧死したり、地割れに埋もれてしまった人もいた。数多くの倉庫や楼門や壁が崩れ落ち倒れた」。その後「海から轟音が聞こえ、大津波がやってきて、怒涛が渦巻き、たちまち城下に達した。原野も道も見渡す限り水没した。船に乗る間もなく、山に登ることもできず溺れて亡くなった人は約千人。財産や農作物はほとんど失われてしまった」というのである(カギ括弧内は大意)。

 貞観の津波でも今回と同様に、海沿いの町が壊滅的な被害を受けた。ここに登場する「城下」とは当時国府が置かれていた多賀城、今日の宮城県多賀城市であり、地域も今回の震災と重なる。今回の大震災は千年前の再現でもあったと言える。

 いまマスコミで紹介されるのはここまでなのだが、『三代実録』はその後、当時の朝廷が地震使を陸奥の国に派遣し、清和天皇が詔を発せられたことを記している。そこには大震災を経た今日だからこそ注目すべき点がある。

 清和天皇は詔のなかで「百姓何の辜ありてか、この禍毒に罹れる。憮然として愧ぢ懼る。責深く予に在り」、つまり被災した者には何の罪もない、地震・津波の責めはご自分にあると述べられておられるのだが、そこから連想させられるものがある。

 それは、貞観地震から六百七十年後、戦国時代に疫病が流行し多くの人々が死に瀕した際、後奈良天皇が「疫病の妙薬」となるよう願って写経された、その奥書である。そこに「朕、民の父母と為りて徳覆うこと能ず。甚だ自ら痛む」とお書きになられていたからである。

 さらに思いを馳せれば、この後奈良天皇の奥書を「伝統的に国民と苦楽をともにするという精神的な立場」が表現された、いわば模範として挙げられているのが今上陛下であり(昭和六十一年のお言葉)、それはさらに今年三月の今上陛下のビデオ映像による「お言葉」につながる。

 貞観の詔では、被災者に対して「朕が親しく観るがごとくせしめよ」と地震使にお命じらになられてもいる。近代以前は今日のように天皇陛下が被災地を訪問され親しく被災者を見舞われることはなかったが、この一節からは今上陛下が避難所で膝をつかれて被災者にお言葉を掛けられた場面が連想させられる。

 千百年前の貞観の震災においても今日の東日本大震災においても、時代の違いはあれ、「国民と苦楽をともにする」ご精神は変わってはいないことを痛感する。日本の歴史は地震と津波という悲劇が繰り返されてきたが、その悲劇のなかにあっても、日本の歴史には天皇というご存在が、地震で倒れない五重塔の心柱のように貫いていることを教えてくれる。(日本政策研究センター所長 岡田邦宏)

〈『明日への選択』平成23年8月号〉