果たして沖縄は「切り捨て」られたのか

 政府が4月28日を「主権回復の日」とし、式典を開催することとなったことは遅きに失したとはいえ、大いに評価したい。

 たしかにこの日は「主権回復の日」であると同時に、奄美、小笠原、沖縄が復帰から取り残された日でもあり、その事実を抜きにした「主権回復」の意義確認はあり得ない。当然のことながら、式典ではこの事実もまた痛みの思いをもって確認されるべきだろう。

 とはいえ、その一方、この「主権回復」を「沖縄を切りすて、その犠牲の上に本土の繁栄が築かれた日でもある」とか、「沖縄などを『質草』にしての主権回復だった」とか(いずれも朝日記事)、一方的に決めつけるのは、果たして公平な議論だろうか。歪曲が過ぎるとともに、質の悪い「ためにする議論」といわざるを得ない。

 まず「沖縄を切りすて」というが、一体その主体は誰なのだろうか。当然、政府といいたいのだろうが、実は意外なことに、当時政府はむしろ沖縄の「潜在主権」を日本に残すことに全力を傾けていたのである。それを示すのがこの講和条約を締結した際、吉田茂首相が講和会議で行った以下のような受諾演説の一節だ。首相はその演説冒頭、「敢えて数点につき全権各位の注意を喚起せざるを得ないのはわが国民に対する私の責務と存ずるからであります」とし、次のように述べている。

 「第一、領土の処分の問題であります。奄美大島・琉球諸島・小笠原群島……の(潜在的な)主権が日本に残されるというアメリカ合衆国全権及びイギリス全権の前言を、わたくしは国民の名において多大な喜びをもって諒承するのであります。わたくしは世界、特にアジアの平和と安定が速やかに確立され、これらの諸島が一日も早く日本の行政のもとに戻ることを期待するものであります」

 今日の時代感覚では戸惑う方もおられようが、吉田首相はこれらの島々の返還どころか、むしろこれらの島々に、日本の主権が残ったことを「多大な喜び」としているということだ。それをすら強く拒否する勢力が当時米英には存在したからだ。それゆえ首相はこの講和条約を高く評価し、その上でこれらの島々が「一日も早く日本の行政のもとに戻ることを期待するものであります」と、これらの島々の施政権返還を更に国際社会に求めているのである。これをどう評価するかは自由だが、これが当時の日本が置かれた国際環境の率直な現実だったのである。

 吉田首相はそれとともに、千島南部の択捉・国後、北海道の一部たる色丹島及び歯舞諸島が、過去一度たりともソ連領となったことがない事実を指摘し、今日いう北方四島の領土権主張につながる注意喚起もしている。また、未だに本国に帰還できていない未引揚者の早期帰還、日本の国連加盟等々も訴えている。これを読むだけでも、当時の敗戦日本の厳しい状況が想起され、「主権回復」の意義が再認識されるともいえる。

 これは最近知ったことだが、それゆえ沖縄でも、当時の県民の思いは、今日のようには型にはまった反対ではなかったという。

 「…平和会議もここに和解と信頼の精神を基調として歴史上類例を見ない寛大な条約が締結された。…我等の祖国日本が完全に独立性を回復して新しい国家理念、平和的文化国家として新発足せんとして居ります。我々は祖国のために満腔の祝意を表したいと思いますが、一面我々の淋しさは如何ともし難いのであります」(後の初代知事・屋良朝苗氏の言葉)

 「淋しさ」はむろん痛切だが、同時に独立を回復して新たに出発しようとしている祖国への「満腔の祝意」もまた語られているということだ。ただ「屈辱の日」とだけいうのとは微妙に異なる、沖縄県民の心がここにはあろう。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成25年4月号〉