家族の「絆」を断ち切る「夫婦別姓」に反対する

家族の「絆」を断ち切る「夫婦別姓」に反対する

 別姓論者がいう「対等の男女が取り結ぶ関係性に基づく新しい家族」など幻想である。個人主義を家庭で貫徹させれば、家族は崩壊するしかないことは、米国などの先例によって明らかだ。別姓実現は家族を解体する一種の文化革命に他ならない。同じ姓を名乗ることは、家族が「われわれ」という共同意識を持つ上で、当然のことではないか。われわれは、家族の「絆」を再評価し、それ断ち切る夫婦別姓に断固反対する。


 

 「これまで家庭は、外で闘い、傷ついた心を癒すショックの緩衝地帯としての役割を果たしてきた。しかし、やがて家庭こそショックの震源地となるであろう」

 一九七〇年、アメリカの未来学者アルヴィン・トフラーは、その著『未来の衝撃』の中でこのように述べた。今後、家族のあり方には、そのアイデンティティ自体をも危機にさらしかねない、革命的な変化が訪れるであろうと予言したのである。この予言から二十五年、いまわれわれの前にあるのは、時代の変化の波に激しく洗われ、翻弄される現代家族の姿である。

 かつて家族とは、十九世紀フランスの思想家アレクシス・ド・トクヴィルがいうように「個人主義に対する最大の防波堤」であった。そこには、夫婦や親子による「没我の愛」という、個人主義を超える「徳」が厳然として生きており、それこそが家族を意義づけ、特徴づけるものとされてきたのである。しかし、いまわれわれの前にあるのは、その家族に、まさに「個人主義」の側から疑問を投げかけ、かかる原理をもってその「再構成」をめざさんとする“新たな流れ”である。

 今年九月、法制審議会民法部会は「選択的夫婦別姓」の採用を方向性とした中間報告を発表した。「夫婦は婚姻の際、夫または妻の姓を称する」とのこれまでの民法のあり方を修正し、「①夫婦は婚姻の際、同姓か別姓かを選択できる。②別姓夫婦の子の姓は、婚姻の際、双方のいずれか一方に決める」との、新たな家族のあり方を今後の方向性として打ち出したのである。夫と妻が「別の姓」を称する家族が、今や「正統な家族」として、法の承認を得ようとしているわけだ。

 報道によれば、この中間報告の大枠は今後のとりまとめの段階でも維持され、審議会から法務大臣への正式な答申を経て、来年春には民法改正案として国会提出される見込みという。戦後の民法大改正にも匹敵すべき根本的変革が、まさに来年春にも断行されようとしているのである。

 とはいえ、こうした新たな変革が実際に家族にもたらすものは、果たして何なのだろうか。人々はこれを「家族の個人主義化」と呼び、「時代の流れ」という。しかし、別姓論者がいうように、家族がそれぞれ別の姓を名乗りつつ、なおその家族が従来通りの一体感を保ち続ける、などということは果たしてあり得ることなのだろうか。それはむしろ、形を変えた「家族解体」への道ではないのか――。

 夫婦別姓の主張は、同時にこうした深刻かつ素朴な疑問を、大多数の国民の間に喚起していることも否定できない事実といえるだろう。冒頭のトフラーの言葉にもあるように、わが国の家族は、いま新たな時代の変化の波の前で、そのあり方を根本的に問い直され始めようとしているのである。

 ここでは、この夫婦別姓の動きに焦点を絞りつつ、それが孕む問題点と、それがわが国の家族のあり方へもたらすであろう影響について、もう少し立ち入って考えてみたい。

 

◆夫婦別姓論者の狙いは何か

 まず、話の順序として、夫婦別姓論のポイントとなる主張を紹介することから始めたい。彼らの主張は、おおむね以下の三点に要約できるものと思われる(例えば、福島瑞穂『結婚と家族』等を参照)。

①夫婦同姓は、個人のアイデンティティを侵害する。
    氏名は、社会的にみれば、個人を他人から識別し特定する手段であるとともに、その個人から見れば、人が個人として尊重される基礎であり、その個人の人格の象徴であって、「人格権」の一部を構成する。だとすれば、結婚の際に夫婦の一方が姓を捨てることを強制されることは、人格権の一部である「氏名権」を侵害されることを意味し、結果的には憲法上の権利の侵害につながる。

②夫婦同姓は、改姓を強制される者に社会生活上の不利益をもたらす。
    結婚して姓を変えると、印鑑を変え、名刺を変え、自動車の免許証を変え、通帳の名前を変え……といった具合に、耐えがたい不便・不利益を強制されることになる。また、研究者やキャリア女性のように自分の名前で仕事をする者の場合、姓の変更は職業上の生命の断絶を意味する場合もある。これは社会生活上、耐えがたい不便・不利益であり、不合理という他ない。

③夫婦同姓は、男女不平等を助長し、「家制度」を温存することになる。
    現行法は「夫婦は、夫または妻の姓を称する」となっている。しかし、これはあくまでも建前上の話であり、実際は夫婦の九七・七%が、夫の姓を選ぶような不平等な選択を強いられている。また、同姓を強いられることによって、「女は結婚して姓を変え、男の家に入る」という戦前の考え方や意識が、未だにまかり通ることに手をかすことにもつながっている。「嫁にきた」「夫の家に入る」という発想は旧時代の遺物であり、根本的に否定されなければならない。

 憲法は第一三条において、「すべて国民は、個人として尊重される」といい、更には、結婚と家族について定めた第二四条において、「法律は個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」と規定している。つまり、こうした個人の尊重、男女平等という立場からいえば、夫婦同姓の制度は、まさにそうした原理の実現を阻む「悪しき障害」以外の何物でもないということなのである。

 戦後、新憲法の制定とそれを踏まえての民法大改正によって、戦前の「戸主」を中心とする「家制度」は全面的に廃止された。その結果、戦後は夫婦と未成熟の子供からなる「近代的小家族」(あるいは核家族)が基本単位となったが、夫婦別姓論者はこの「近代的小家族」のあり方にも、新たに問題を投げかけようとするのである。つまり、そこでは「家制度」は否定されているとはいうものの、未だに「個人の尊厳」と「男女平等」の実現は充分ではなく、今も「家制度」の観念が形をかえて残存しているというのだ。その代表的な例が夫婦同姓の制度であり、そこでは本来「個人の呼称」であるべき姓が、未だに「家族の呼称」として力を奮っていると彼らはいうわけだ。

 「氏(姓)を真に個人のものとして規定し直すことは、社会の根底を個人主義のレベルで把握し直すことにつながり、戦後の改正民法がめざした『家』の解体が、それによってはじめて貫徹されることになる」(「選択的夫婦別姓制」)

 民法学者の滝沢聿代氏はこのようにいうが、要は夫婦別姓の実現とは、この社会から「家」的なものを徹底的に払拭し尽くす「文化革命」でもある、ということなのだろう。

 

◆別姓の「自由」が生む子供の「不自由」

 さて、それではこうした主張に対して、われわれはどう考えたらよいのだろうか。

 いうまでもなく、「憲法の精神」なるものを前提とする限り、たしかに別姓論者の主張には一理あることは否定できない。しかし、ここでまず最初に考えてみたいと思うのは、家族というものは、果たしてそうした一面的な原理だけで割り切ることができるものなのか、ということである。

 別姓論者たちは、家族の「個人主義化」を要求する。しかし、かかる個人主義だけで、果たして家族というものは成り立つのだろうか。これは既にアメリカでも、いわゆる「フェミニズム」の主張をめぐって論じられてきたことだが、徹頭徹尾個人主義で貫徹された家族とは果たしてどういう家族か、それは実際に家族を幸せにしているのだろうか、そうした疑問が、実は学者の中からも提起されているのである。

 渋谷敦司氏は次のように述べている。

    「ジュディス・ステイシーは、八〇年代に入って登場してきた家族や『母性』の重要性を強調するフェミニズム理論を『保守主義的』と特徴づけながらも、これらの主張がこれまでのフェミニズム理論の弱点に対応するものであることを重視している。その弱点とは、フェミニズムはこれまで近代家族批判、核家族批判を展開してきたが、家族の否定面を強調するのに急なあまり、それに替わりうるものを提起しえていないという問題である。……核家族への対案を提起するという課題にフェミニズムは直面しているというのが、彼女の認識である。
    同様に、……フェイス・エリオットも、個人の自由、自己実現、非拘束的な関係性を選択する自由などを主張してきた『オルタナティブ・ライフスタイル』論では、子どものニーズよりも大人の性的、情緒的ニーズが重視されており、……その背後には『子どもの不自由』という問題があるということを指摘している」(『現代家族のルネサンス』)

 つまり、個人主義の主張はよいとしても、それが結果的にどのような理想的な家族の姿をもたらすのか、それが余りにも不明確ではなかったか、ということなのである。別姓論者たちは、あくまでも「個人であること」を強調し、「対等の男女が取り結ぶ関係性に基づく新しい家族」――などということをいう。しかし、果たしてそうした家族の実際の姿はどのようなものなのか。そうした肝心な問題が、これまで余りにも軽視され過ぎてきたのではないか、ということなのだ。

 とりわけ、ここで指摘されている子どもの問題は象徴的であろう。別姓論者たちは「自分の姓を名乗る自由」なるものを主張する。しかし、その結果、その子どもたちはどうなるのであろうか。少なくともその子どもたちは、両親の「異なる姓」の間で小さな心を分裂せしめられ、混乱せしめられることだけは確実であろう。

 彼らはいう。個人の自由、自己実現、非拘束的な関係性を選択する自由……。

 たしかにその主張はご立派で、申し分がない。しかし、それでは「子どもの不自由」の方はどうなるのか。残念ながら、個人主義を主張する論者には、これに対する解答がどう見ても欠落しているように思われてならないのだ。

 六〇年代から七〇年代、アメリカでは周知のごとく、個人主義の嵐が吹きまくった。フェミニズム、家父長的な権威の否定、性解放、個人の満足を家族の福祉に優先させる風潮……等々。しかしそうした中で、今大多数のアメリカ人たちはむしろ大きな喪失感にさいなまれているのが現状だという。あるアメリカ在住のジャーナリストは指摘する(ホーン川嶋瑶子『女たちが変えるアメリカ』)。

 「アメリカが経験した社会変革は、あらゆる制度、人々の意識、価値までを根底から揺さぶるものであり、まさに『革命』の名にふさわしいものであった。しかし、これらの変革が皆スムーズに進行していったのでは決してないし、すべてが望ましい変化であったとは単純に言い切れない。
 変化のテンポが緩んだ今、アメリカ人は自問している。一体全体、変化は個人により多くの幸福をもたらしたのだろうか? より住み良い社会を実現したのだろうか……と」

 

◆個人主義によって「家族」は解体する

 統計によれば、現在アメリカでは結婚したカップルのうち、半数は離婚するという。そして、その七割は三年以内に再婚し、更にその六割は再び離婚するという。つまり、三度目、四度目の結婚は、必ずしもハリウッドの話だけではないということなのだ。

 その最大の理由は、先程から述べてきたような「個人主義化」の風潮である。個人主義による自己主張、男女平等思想に基づく男女の役割・家庭像の混乱の過程にあって、むしろ家庭自体が「ストレスの場」になってしまっているのである。

 同時に、個人主義の強調は、個人の満足を家族という集団に先行させる価値観を植えつけてしまっているという問題もある。もはや子の存在は親にとって「全て」ではなくなっているのだ。彼らはそうした中で、いとも簡単に結婚し、そして離婚していく。

 しかし、その過程で、最大のしわよせを受けているのは、やはり子どもたちであろう。アメリカでは今、毎年二〇〇万人の子どもたちが自分の親の離婚に巻き込まれているという。その結果、子どもの六割が、一八歳になるまでに親の離婚を経験する。そして、その三人に一人は、親の再婚、二度目の離婚を経験するというのだ。「ステップ・ファミリー」(混合家族)という言葉すらあるように、三度四度と結婚を繰り返す度に生まれた親の異なる子どもたちが、新しい家庭で一つの家族として生活するという異様な形態は、今やアメリカでは全体の二割にも達する普通の現実だという。

 かくてここから、アメリカにおける最大の難問ともいわれる各種の社会問題が生起しているのは、あえて指摘するまでもないことだろう。少年非行の激増、麻薬汚染、一〇代の妊娠・出産……、あるいは継父、継母による子供の虐待、またその逆のケース。近年、政治家たちによって「家族の価値」の再考が叫ばれる所以である。

 むろん、問題は離婚だけではない。「個人主義化」の風潮によって、実は結婚という制度それ自体が大きく揺らぎ始めているという現実もある。今や「家制度」の拘束どころか、結婚という制度それ自体が拘束ではないか、と考える男女が出始めているのだ。彼らはそれゆえに、結婚という制度を拒否し、あえて「事実婚」という共同生活の形態をとるという。これはフランスの話だが、浅野素女氏は、次のようなかの国の現状を報告する(『フランス家族事情』)。

    「フランスでは、結婚による家庭だけを正統な社会の一単位とみなす時代は、完全に過去のものになったと言えるだろう。事実婚カップルが急増し、社会はむしろ、それらの人たちをどうやって取り込むかの方向に動いてきた」

 彼女によれば、今日、フランス人全体の一二パーセントが、年齢を一八~二四歳に限れば二〇パーセント以上の人々が、非婚のまま共同生活を送っているという。結ぶも離れるも完全に自由な、何の制約もない「軽やかな」関係を求めているわけだ。

 と同時に、この非婚カップルの中に、子どもを持ちながらも敢えて別居を選択するLATカップルという、新たな男女の形態も増え始めているという。いわば「連邦化」した最も拘束のない夫婦関係とでもいうべきか。浅野氏は次のように解説する。

  「結婚から結婚抜きの共同生活へ、結婚抜きの共同生活からさらにLATカップルへ、というカップルの在り方の変遷が示すものは、人々がパートナーと意識的に距離をとることで、相手への従属より、『個』の自立と自由の方に天秤を傾けさせようとしている姿なのだろう」

 その結果、今日のフランスでは、三人に一人の子どもが、結婚していない男女の間から生まれているという。米シカゴ学派の家族研究者モウラーは、個人主義は不可避的に「家族解体」をもたらす、とかつて指摘したが、まさにそれが見事なまでに実証されているという現実なのだ。

先のホーン川嶋氏はいう。

    「男女は伝統をかなぐり捨て、男女の理想的結合を模索し、シリーズ結婚、シングルペアレント、同棲等、様々な新しい関係を試みた。その結果は、家族の最後の形態であろうとも思われた核家族の崩壊であった。……どのような生き方をするかについて、各個人の選択の範囲が拡大したことは確かだ。しかしながら、これらの試みが、人々をより幸福にしたとは必ずしも言えない。伝統的家族をこわした後、それにとって代わる新しい家族のビジョンとは何かという基本問題にすら、回答が見出された訳でもない」

 

◆家族の連帯意識は夫婦「同姓」から

    「男性も女性も、自分たちがどんな状況に入り込んでいるのか少しもわかっていない。いやむしろ、彼らにはさらに最悪の事態を危惧する理由さえある。二つの対等な意志が存在する一方で、これらをつなぐ媒介原理もなければ、最終審の法廷もないからである。
    ……結婚の条件はすっかり変わっても、新しい条件は何もはっきりしていないのである」

 『アメリカン・マインドの終焉』の著者アラン・ブルームはこのように指摘する。個人の自立、自由、男女平等……、人々はこうしたスローガンを競って唱え、それに基づく理想の家族を求めつつ、ますますその理想から遠ざかってきたということなのだ。つまり、こうした原理を求めれば求めるほど、家族は壊れやすくなり、傷つき、そして実際に崩壊してきたのである。

 だとすれば、どうしたらこの悲劇的な悪循環から、脱出することができるのか。われわれが今考えるべきは、むしろこの問題なのではなかろうか。

 夫婦別姓反対派の弁護士・石原輝氏は、こうした個人主義の問題を踏まえ、次のように述べている。

    「本来夫婦というものは『われわれ』という連帯意識で最小単位の社会集団を構成し、相倚り相扶けあって世の荒波をくぐり抜けていくものである。
    ところが、夫婦別姓は、意識の上で『われ』と『われ』という個別的対立的なものであって、いわば他人意識といえるものである。……そこには男と女が共棲してはいるが、互に助け合い協力していこうという雰囲気はない。あるのは他人意識だけである。意識上既に離れ離れ現象を起こしているともいえる」(「夫婦の絆は同姓から」)

 つまり、「われ」の論理ではなく、「われわれ」という連帯意識――個人主義を超えた論理こそ、今見直されるべきテーマではないか、ということなのである。

 これまで「われ」、つまり個別意志の追求の中から「われわれ」、つまり一般意志は生まれる、と人々は考えてきた。しかし、それは結局はかない幻想でしかなかったということなのだ。これまでにも見てきたように、「われ」にこだわればこだわるほど、「われわれ」という意識は現実には崩壊していった。つまり、「われわれ」という意識がまず確保されなければ、「われわれ」という意識は最後まで確固たるものにはならないということなのだ。それが家族というものの本質であり、あるいは共同体というものの本質でもあるということだろう。

 だとすれば、結論はもはや明白だといわなければならない。夫婦同姓――つまり家族が姓を同じくする制度というものは、この「われわれ」という意識を担保する最良の形態なのではないか、ということなのである。

 もちろんそれは、夫婦と子どもという、単に核家族レベルでの「われわれ」意識を醸成することに留まるものではない。この場合における姓は、祖先から子孫へとつながる累代的な「われわれ」意識を担保するものでもある。われわれはこうした歴史的な姓を名乗ることによって、自らの存在が決して孤立した空虚なものではないことを確認することができるのだ。

    「過去を忘れないように、共同体は自らの物語を、自らの成り立ちを語る物語を伝承し、また共同体の意志を体現し例示するような男たち女たちの姿勢を教える。……家族もまた共同体として自分たちの過去を思い返し、両親や祖父母たちの人生の物語を子どもたちに語り、未来への希望を支えることができる」(『心の習慣』)

 アメリカの社会学者ロバート・ベラーはこのように述べる。家族が同じ姓を名乗るということは、このような物語を、家族が共有していくということもまた当然意味しよう。かくて、家族の「絆」は更に強まり、個々の人生は限りなく意味豊かなものになっていくのである。

 ともあれ、夫婦別姓はかかる家族の「絆」を断ち切ろうとする策動である。われわれとしては、強く反対せざるを得ない。

〈『明日への選択』平成7年12月号〉