猪口大臣と参画会議に騙されるな

猪口大臣と参画会議に騙されるな

すべての公文書から「ジェンダー」の五文字を駆逐しよう。


 

◆「ジェンダー」という用語が最大の元凶

 男女共同参画のあり方に深刻な疑問や不安を抱く国民が増えている。男女の区別を否定する「ジェンダーフリー」教育や過激な性教育が行われる一方、男女の役割分担を否定し、専業主婦でいられなくするような施策が強力に推進されているからだ。

 こんな事態となった最大の元凶は「ジェンダー」という用語である。ジェンダーは人々の意識を性差解消へと向かわせる呪文だからである。この用語は「社会的・文化的に形成された性別」と定義されているが、その真意は「男らしさ・女らしさ」のようなジェンダーは人工的に作られたのだから意識的に崩していける、という点にある。こんな時限爆弾のような危険な概念が、フェミニストたちによって男女共同参画の「指導理念」たる地位を与えられてきたのである。

 むろん、心ある政治家や国民はジェンダーという用語を男女共同参画から排除すべきことを求めている。例えば自民党の「過激な性教育・ジェンダーフリー教育プロジェクトチーム」(PT)は、間もなく改定される国の「五カ年計画」(第二次男女共同参画基本計画)から現行計画にあるジェンダーという用語を使わぬよう強く求めてきた。

 ところが、最近の報道によると、原案に巧妙な文言の修正を行った上で、ジェンダーという魔法の呪文は残されることになったという。

 一体どうしてこんな結果となったのか。結論からいえば、フェミニストたちの悪巧みが功を奏したということだ。つまり、前記の自民党PTの要請を受け、男女共同参画会議の下部機関である専門調査会がジェンダー概念を検討することになったのだが、予想通りというべきか、様々な詭弁を弄して同調査会はジェンダーの正当化を図ってきたのである。

 それに加えて見逃せないのは、小泉改造内閣で少子化男女共同参画担当相となった猪口邦子氏の働きだ。基本計画改定をめぐり自民党PTと激しく応酬するなど、フェミニストたちの企みを強力に後押しした。例えば「ジェンダーの五文字は絶対に認められない」とする逢沢一郎幹事長代理に対し、「自民党がジェンダーを無理に削れば、手痛いしっぺ返しにあいますよ」と恫喝したとも報じられている(産経12月13日)。

 以上の事実を踏まえ、フェミニスト大臣の過去の所業を洗い出すとともに、フェミニストたちのジェンダー正当化の詭弁に批判を加えたい。

 

◆フェミニスト大臣の「過去の所業」

 ジェンダー概念に基づく男女共同参画の暴走を根底で支えているのが男女共同参画社会基本法であることは今更いうまでもない。が、それとともに無視できないのが内閣府に置かれた男女共同参画会議である。フェミニズムの「司令塔」の役割を果たしているからだ。猪口氏は、この参画会議や専門調査会の委員としてジェンダーフリーの旗振り役を務めてきた人物である。そればかりか、実はこの「司令塔」を政府内部に打ち立てた〝立役者〟でもある。

 基本法制定に向けた動きが本格化した平成九年、猪口氏は省庁再編を審議する行政改革会議の委員であった。猪口氏は男女共同参画審議会委員だった大澤真理氏らと連携し、新設される内閣府の中に「ジェンダー」の視点から省庁横断的に諸政策に介入できる「強力なナショナル・マシナリー」(国内本部機構)を置くことを強硬に主張した。当時の橋本首相の援護もあり、猪口氏の計略は成功し、平成十三年、内閣府に男女共同参画に関する総合調整機能を備えた男女共同参画会議が置かれることになったのだ。

 その後、猪口氏は同参画会議議員並びに基本問題専門調査会委員に就任した。そして、その頃沈静化していた夫婦別姓論議の再燃に深く関わった。同専門調査会の審議はさながら夫婦別姓導入の「戦略会議」の様相を呈していた。当時の議事録を見ると、猪口氏自身、「海外の事例は余り前面に出さない方がいい」とか「相手を説得するためだと逆効果になる可能性もある」等々、この謀議に積極的に加わっていたことが分かる。ともあれ同専門調査会は十三年十一月、「選択的夫婦別氏制度を導入する民法改正が進められることを心から期待する」という答申(中間報告)を出している。

 平成十四年から二年間、猪口氏はジュネーブ軍縮会議日本政府代表部大使に就任し日本を離れるが、十七年一月、男女共同参画会議議員に再任される。二年ぶりに出席した第十八回参画会議(十七年五月十七日)における猪口氏の第一声は、ジェンダー擁護論だった。すなわち、「ジェンダーという言葉について、何か雰囲気が変わってきまして、ちょっと困惑する」と述べた上で、得意の「国際社会」を持ち出してジェンダー擁護論をこう訴えた。

 「まずジェンダーという言葉は数多くの国際機関で一般的に非常に重要な概念として使われているのでありまして、それは軍縮会議でもそうでしたし、世界保健機構であるとか、ILOでありますとか、UNDPというような開発系のところでも多用しているわけです」

 「(国際機関の)文書の中でこのようなジェンダーの視点が記載されていることが多いわけですけれども、政府として支持した立場であり、重大な政策変更がない限り、我が国としては、こういうジェンダー・イクオリティー、それからジェンダーに敏感な視点を重視していくということは揺るぎもない大事な政策的立場であります」

 「国際社会では、ジェンダーというのは、まず民主主義を深めるために非常に重要な考え方、そして人間社会に希望やすばらしい可能性をもたらし啓発的な考え方、こういうイメージがあります……」

 長々と引用して恐縮だが、内容空疎な大演説というしかない。要するにジェンダーは国際文書で使われており、日本はそれらの文書にコミットしている以上、国内的にもジェンダー概念を堅持することが日本の当然の「政策的立場」だというのだ。「国際社会=正義」という余りにも独善的で危険な思い込みを感じるのは記者ばかりではなかろう。

 猪口氏は執念深く、次の第十九回参画会議(七月二十五日)でも再びダメ押しのように訴えた。「日本はこの用語を使う多くの国際文書の採択に参加しております。……是非、このジェンダーの概念は、政府の立場として堅持していただきますようお願い申し上げます」と。

 さらに猪口氏は、衆議院議員当選直後、日本外国特派員協会の記者会見に片山さつき、佐藤ゆかり両議員とともに出席し、「我々新議員三人が団結してジェンダー・バッシングを許しません!」と訴えてもいる(ロゼッタストーンHP・渡辺晴子「外国特派員クラブの窓から」)。

 以上のように、猪口氏は筋金入りのフェミニストなのだ。自民党よりもむしろ社民党がお似合いの思想の持ち主ともいえる。そうした人物が、事もあろうに、少子化男女共同参画担当相に就いてしまったのだ。基本計画にジェンダーが残存する結末となったのも当然だといえよう。

 

◆問題の本質を棚上げするための「詭弁」

 次に、体制内フェミニストたちの悪巧みについて見てみたい。猪口氏のジェンダー弁護論とまさに軌を一にするかのような文書が昨年十月三十一日、男女共同参画局のホームページに公表された。冒頭で触れたように、自民党の要請を受けて、ジェンダー概念を検討していた男女共同参画基本計画に関する専門調査会がまとめた文書だ。「『社会的・文化的に形成された性別』(ジェンダー)の表現等についての整理」(以下、「ジェンダーの整理」)という表題が付いている。決して読んで面白い文書ではないが、フェミニストたちがどうやってジェンダーの残存を図ったか、彼らの手口がよく分かる。

 この文書は、まず「『社会的・文化的に形成された性別』(ジェンダー)の考え方が男女共同参画を推進する上で重要」と決め付けた上で、「これが広く一般に理解されやすいものとなるよう、わかりやすい表現に言い換えたり、わかりやすく説明するなど、表現等について専門調査会として以下のとおり整理した」という。そして、「社会的・文化的に形成された性別」(ジェンダー)を、「社会的性別」(ジェンダー)とか「社会的に作られた性別」(ジェンダー)と短くして用いることを提案している。要は、肝腎の「ジェンダー」の中身の議論は棚上げして、あくまで表現の微修正で誤魔化そうという話である。問題の本質を回避した狡猾な詭弁というしかない。

 問題の本質とはもちろん、そもそも性別を「生物学的な性別」(セックス)と「社会的・文化的に形成された性別」(ジェンダー)とに機械的に二分することが妥当か否かという議論である。最新の脳科学は、男女は生まれつき「男らしさ・女らしさ」を持って生まれてくることを教えている(本誌平成十五年一月号参照)。それ故、こうした議論は絶対避けて通れないはずなのだ。

 ところが、「ジェンダーの整理」はこうした議論を避け、「社会的・文化的に形成された性別」(ジェンダー)の考え方は「男女共同参画を推進する上で重要」だと強弁する。

 だが、そもそも「社会的・文化的に形成された性別」(ジェンダー)という表現は基本法にはない。結局、同調査会がジェンダー擁護の最大の根拠としているのは、猪口氏同様、ジェンダーという用語は国際社会で使われているということに過ぎない。すなわち、「『社会的・文化的に形成された性別』(ジェンダー)は、主要な国際機関等におけるgenderという用語の定義ともほぼ一致しており、適切」だと「ジェンダーの整理」はいうのである。

 だが、果たしてそれは本当なのだろうか。この文書は「国際機関等によるジェンダーの定義」を七つ掲げている。大部分の定義(原文は英語)は例えば次のような内容なのだ。

・「男性あるいは女性であることに根ざす社会的態度、機会、及びあらゆる男女間、少年少女間の関わり方を指す」(国連ジェンダー問題特別顧問事務所)
・「男性または女性であることに関連する経済的・社会的・文化的属性や機会を指す」(国連人口基金)

 つまり、ジェンダーは「社会的・文化的に形成された〝性別〟」とは定義されていないのだ。むしろ、「生物学的な性別」に基づく男女の社会的・文化的な態度や役割の区別をジェンダーと呼んでいるとも理解できる。国際機関では、日本のようにジェンダーは生物学的性別とは無関係に作られるという極端な考え方は採用していないのではあるまいか。

 なお、ジェンダーを「社会的・文化的につくりあげられた性別」と、日本と類似の定義をしている例が一つだけある。出典は国連開発計画の人間開発報告書(一九九五年日本語版)である。念のため男女共同参画局に問い合わせてみると、この英語版には該当部分はなく、日本語版だけに存在する文言であることが判明した。これを「国際機関等による定義」として掲げるのは詐欺である。

 以上の事実を踏まえれば、「社会的・文化的に形成された性別」(ジェンダー)が主要国際機関のジェンダーの定義と「ほぼ一致しており、適切」という「ジェンダーの整理」の見解はデタラメというしかない。

 ともあれ、同調査会が掲げた国際機関等の事例は、少なくとも「社会的〝性別〟」と定義したジェンダー概念をわが国の基本計画に盛り込むための正当な論拠とは言い難い。

 

◆ジェンダーは「中立的概念」のウソ

 また、「ジェンダーの整理」はジェンダーについて、「それ自体に良い、悪いの価値を含むものではなく、中立的な概念である」ともいう。しかし、これも明らかに詭弁である。

 というのも、平成十年三月に開かれた男女共同参画審議会(第四回基本法検討小委)において、基本法にジェンダー概念を盛り込むべき方法について、以下のような「謀議」が交わされているからだ。

○委員長代理「そういう(引用者注・ジェンダーという)概念を認めるところから、ある意味ではフェミニズムは出発しているわけですよね。だから、それをこういういい方(引用者注・社会的・文化的に形成された性別)をすることを認めるということは、ある立場をとるということなわけで、そこをかぎつけてしまわれると……」
○委員「ジェンダーを使ってしまえば、単なる性別という言葉を意味しなくて、必ず差別とか、隔たりがあるという使い方なのですか」
○委員「かなりそちらの方が多くなってきてはおりますが、あえて縦関係になっているということは隠して社会的・文化的に形成された性別という意味でのジェンダーですというふうに平面的にいってしまって……」
○委員「更にフェミニストであれば、それは単に違っているけれども、対等だというたぐいの区別ではなくて、支配従属といいますか、資源の配分というのが不均等な縦の関係になっているというふうに理解するわけです……支配従属関係が既に織り込まれているという解釈については反対する人もいるでしょうから、前段のところだけとって使うことは構わないのではないかと思います」

 すなわち、ジェンダーには「社会的・文化的に形成された性別」という「表の顔」とともに、男女関係を「支配従属関係」として捉える「裏の顔」があるわけだ。彼らは「裏の顔」を隠して、ジェンダーを基本法に潜り込ませられないかと謀議しているわけだ。彼らがジェンダーが中立的概念などではないことを十分理解していることは疑いない。

 この小委の委員長は古橋源六郎氏、委員長代理は寺尾美子東京大学教授、委員の一人は大澤真理東京大学助教授(当時)、専門委員として住田裕子氏(弁護士)が入っている。ところが、驚くなかれ大澤氏以外の三名は、「ジェンダーは中立的な概念」という見解を打ち出した専門調査会の現役メンバーでもあるのだ。七年前の謀議にのっとり、国民を欺むこうとしているとしか思えない。

 

◆家族と国家の解消を志向するジェンダー

 さて、こうした詭弁と猪口担当相の執念が奏効(?)して、第二次基本計画にもジェンダーが残ることになった。ただし報道によれば、「社会的・文化的に形成された性別(ジェンダー)の視点を定着させる広報・啓発活動を展開する」という原案は、「社会的性別(ジェンダー)の視点の定義についての誤解の解消に努め、恣意的運用・解釈が行われないよう、広報・啓発活動を進める」に変えるという(産経12月16日)。

 これは一見、フェミニスト側の譲歩とも受けとれる。しかし、必ずしもそうではない。なぜなら、「恣意的運用・解釈」が行われないようにする広報・啓蒙活動とは、「学校での混合騎馬戦や男女同室着替え」など、誰が見ても非常識な実践の是正にとどまる見通しだからである。

 ここで改めて認識しなければならないのは、フェミニストたちがジェンダー概念を用いるようになったそもそもの意図である。大澤真理氏のジェンダー論に深い影響を及ぼしたと目される上野千鶴子氏はこう率直に吐露している。

 「『ジェンダー』はもともと性別を表す文法用語だが、七〇年代フェミニズムは、自然的とされ、したがって変えることのできないとされた性差を相対化するために、この用語をあえて持ちこんだ。……『ジェンダー』という用語は、性差を『生物学的宿命』から引き離すために、不可欠な概念装置としての働きをした。もし『性差』が、社会的、文化的、歴史的に作られるものであるなら、それは『宿命』とは違って、変えることができる。フェミニズムは『女らしさ』の宿命から女性を解放するために、性差を自然の領域から文化の領域に移行させた」(『差異の政治学』)。

 このようにジェンダー概念は、人間の性差を崩すためにフェミニズムが採用してきたきわめて戦略的な概念――つまりイデオロギーなのだ。だからこそ、体制内フェミニストたちはそれを隠そうとするわけだ。

 しかし、問題はそればかりではない。ジェンダー概念は性差ばかりか、母性や結婚制度など、家族の形成に不可欠な制度や文化を解体するイデオロギーとして大学などの教育現場では思う存分「活用」されている。また、ジェンダーを冠した著作には国家の解消すら志向していると見受けられるものもある(若桑みどり著『戦争とジェンダー』等)。

 政府が公文書にジェンダーという用語を使うということは結局、こうした家族解体・国家解体の主張に国家のお墨付きを与えることにもなりかねないのである。それは、国家の自殺行為にも等しい愚行である。そうした愚行を避けるためには、いかに時間がかかろうが、「ジェンダー」の五文字を何としても男女共同参画から駆逐しなければならない。(日本政策研究センター研究員 小坂実)

〈『明日への選択』平成18年1月号〉