「男女共同参画」に隠されたジェンダーフリーの企み

「男女共同参画」に隠されたジェンダーフリーの企み

「体制内フェミニスト」・大沢真理東大教授の「思想」と「戦略」

ジェンダーの「毒」が注入された「男女共同参画ビジョン」。大沢氏の解説を読んで、「ビジョン」の起草に深く関わった役人は「こういうことだったのか」と言ったという。


 

◆男女共同参画行政の「キーパーソン」

 昨年十一月十二日の参議院内閣委員会において、政府は「ジェンダーフリー」が公的に認められた概念ではなく、また男女共同参画社会は「ジェンダーフリー」をめざすものでもないことを明言した。しかし、その後も教育現場はもとより、自治体の男女共同参画行政に関する「行動計画」や「啓発パンフ」、あるいは「条例」にも「ジェンダーフリー」という言葉が堂々と使われ続けている。

 そもそも「ジェンダーフリー」という言葉は、日本の過激なフェミニストたちが、「男らしさ・女らしさ」という言葉に象徴される性差の解消をめざして作ったイデオロギー用語である。それゆえジェンダーフリー運動は、「性別秩序の破壊」という手段による、社会解体に向けた新たな「革命戦略」ともいえるのだ。

 それにしても、そんな危険な動きに、なぜ政府や自治体が関わるような事態になったのだろうか。すでに本誌(平成十四年十二月号)でも取りあげたように、とりわけ平成十一年に制定された男女共同参画社会基本法(以下、基本法)について一部で流布されてきた解釈が見逃せない。例えば基本法の究極の目標は「ジェンダーからの解放」(ジェンダーフリー)にあるとする大沢真理東大教授の解釈だ。その他、ジェンダーフリーが公的に認知されたとの誤解を与えかねない既成事実が次々に積み重ねられてきたのである。つまり、男女共同参画社会とジェンダーフリーとの関係は一度の政府答弁によって解消できるような生易しいものではなく、こうした既成事実にまで踏み込んだ検討と対策が必要だといえる。

 そこで、その一環として検討しておきたいのは大沢真理東大教授の男女共同参画社会に対する考え方である。なぜなら、大沢氏こそは男女共同参画行政をジェンダーフリーの方向へ誘導してきた「キーパーソン」といえるからである。

 氏はまだ助教授であった平成七年に男女共同参画審議会専門委員となり、翌年七月に橋本首相に提出された答申『男女共同参画ビジョン――二一世紀の新たな価値の創造』(以下「ビジョン」)の起草に主要メンバーとして携わる。これは基本法のレールを敷いた重要な答申であったが、後でも触れるように、この答申に「ジェンダー」というフェミニズム用語を盛り込んだ中心人物がこの大沢氏と目される。それだけではない。大沢氏は平成九年から十一年まで男女共同参画審議会委員として基本法の制定にも関わり、さらに現在も内閣府の男女共同参画会議専門委員(影響調査専門調査会会長)の要職にあって、男女共同参画行政に大きな影響を与え続けている。

 そんな大沢氏について、マルクス主義フェミニストの上野千鶴子東大教授は「体制内フェミニスト」、「フェミニズムの政治の制度化をその現場で担っている第一線の指揮官」などと持ち上げ、フェミニズムへの「大きな貢献」を讃えている。

 そうした経歴と影響力を有する大沢氏であれば、今後のジェンダーフリーの動きへの対応という点からも、氏の考え方を知ることが重要な意味を持つことが分かるだろう。以下、大沢氏のいわば「男女共同参画社会」観を、主に思想と戦略の両面から跡づけてみたい。

 

◆「ジェンダーからの解放」

 大沢氏は男女共同参画社会がいかに素晴らしい社会であるかを、さまざまな場で説いている。例えば『男女共同参画社会をつくる』(NHKブックス)という近著の中では、こんなふうに記している。

 「男女共同参画は、蕫女は損だ、女の取り分を増やせ﨟という動きだと見られることもある。真の男女共同参画社会はむしろ逆だ。専業主婦の軽視あるいは尊重などとはまったく別に、専業主婦を養える経済的条件が縮小したのだ。だからいっそう蕫男は辛い﨟ので、肩の荷を分かちあおう、男性も子育てや地域活動の醍醐味をもっと味わえるようになろう、というのが、男女共同参画である」

 男女共同参画にしてこそ、「家族はよりしなやかに強く」なり、「社会全体が活性化する」とも氏は述べている。つまり、男女共同参画社会は、日本の家族と社会の「再生のカギ」というわけだ。

 このような耳朶に心地のよい男女共同参画社会のソフトなイメージは、つとに政府が国民に対して説明してきたものだ。例えば男女共同参画審議会の設置を定めた平成六年の政令は男女共同参画社会についてこう規定する。「男女が、社会の対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべき社会」であると(この規定は「ビジョン」や基本法にも受け継がれる)。

 字面を読めば何か良いことが起こるように錯覚しそうである。しかし、これは男女共同参画社会のいわばオモテの顔にすぎず、そのウラにはもう一つの強面の顔が潜んでいる。

 それを示した文書が、冒頭でもふれた、大沢氏も起草委員の一人として執筆に当たった「ビジョン」に他ならない。この「ビジョン」について、大沢氏は「『男女共同参画』を積極的にとらえ直し、めざすべき男女共同参画社会の姿を初めて明らかにした」と力説している。

 その重要なポイントは、「ビジョン」が男女共同参画社会について、先の法令上の規定に続き、「この答申は、女性と男性が、社会的・文化的に形成された性別(ジェンダー)に縛られず、各人の個性に基づいて共同参画する社会の実現を目指すものである」と述べている点である。大沢氏によれば、「性別(ジェンダー)に縛られず」というのは、男女共同参画が「ジェンダーからの解放」、つまりジェンダーフリーをめざすことを示した文言であるという。これこそは、男女共同参画社会のウラの強面の顔に他ならない。

 では一体、なぜ「性別(ジェンダー)に縛られず」という文言が、ジェンダーフリーを志向するものといえるのか。大沢氏によれば当時、その箇所の草案の審議において、次のA~C三つの修正案が用意されたという。

○A案 男女の特性(生物学的機能の性差に由来する社会的役割の違い)を前提とせずに男女平等の実現を目指す立場。「ジェンダー」からの解放(ジェンダー・フリー)を志向する方向性を表現する案。
○B案 男女の特性を是認した上で、男女平等の実現を目指す立場。生物学的機能に差があるのだから社会的役割に違いがあることは当然であり、それは差別ではないとする考え方に解釈できる案。
○C案 「ジェンダー」の意味するところが必ずしも社会に定着していない段階では、問題の所在を、性別に基づく固定的な意識、慣習、慣行に限定し、「ジェンダー」という用語を使わずに表現する案。

 おそらく、大多数の国民の意識はB案ということになろう。ところが審議の結果、ジェンダーフリーを志向するA案が採用され、答申の「性別(ジェンダー)に縛られず」の文言になったというのだ。「ジェンダーフリーをめざすというのは、審議会総体の合意事項」(『ラディカルに語れば…』)と大沢氏は断言する。

 何とも驚くべき結論に至ったものだが、その背景については最後に取り上げよう。いずれにせよ、こうして、「ビジョン」によって男女共同参画の理念にジェンダーフリーという「毒」が注入されることになったのだが、この点にこそ大沢氏の「男女共同参画」観の本質があるとみて間違いない。それは、「ビジョン」起草の当事者たる氏の驚きと勝利感とが混じった次のような指摘にもうかがえよう。

 「カッコのなかではあれ『ジェンダー』ということばが、審議会答申を含む政府文書に登場するのは、この『ビジョン』が初めてだった。まして、A案が採用され、ジェンダーからの解放を展望するとは、ラディカルというに値する」(『21世紀の女性政策と男女共同参画社会基本法』)

 ちなみに「ビジョン」は、二〇一〇年までを目途とした男女共同参画社会の姿と道筋を提示した文書として公式に認知されている。政府が男女共同参画社会はジェンダーフリーに非ずと本気でいうならば、少なくとも大沢氏の解釈を前提とする限り、「ビジョン」を認知し続けることは許されないはずである。

 

◆大沢氏が心酔した過激なジェンダー論

 では、「ジェンダーからの解放」をめざす大沢氏が依拠する思想とはいかなるものなのか。氏は「ビジョンの特徴と意義」を解説した文章の中で、それが九〇年代初めの「ジェンダー論の到達水準を反映するもの」と指摘し、具体的にフランスのフェミニスト、クリスティーヌ・デルフィの理論をあげている。

 デルフィの著書の翻訳者でもある井上たか子獨協大学教授によれば、デルフィは「ラディカル・唯物論フェミニスト」に位置づけられるという。わが国の社会のあり方に深く関わる政策構想が、外国の超過激フェミニストの理論に基づいてデザインされたというのだから、何とも恐るべきことである。実際、以下に示すようなデルフィの主張を知るならば、誰もが重大な懸念を抱くだろう。

 そもそも「ジェンダー」という言葉は、生物学的な性別(セックス)とは区別される、社会や文化によって作られた性差を意味する概念として用いられてきた。ごく単純化して言うと、この「ジェンダー」の概念についてデルフィは、第一に階層的・権力的な「非対称性」をもつこと、第二にセックスがジェンダーを規定するのではなく、ジェンダーがセックスを規定することを主張する。

 わかりにくい論理だが、大沢氏はこの理論を「画期的」と讃え、その意味と政治的な意義をこんなふうに説いている。まず、ジェンダーが階層的・権力的な「非対称性」をもつというのは、要するに「男が標準、普遍、主であり、女は差異をもつ者、特殊、従である」という意味だという。ここから大沢氏は、「ジェンダーという分割線をそのままにして……女性の地位の底上げなどに努めても、女性差別は解決できない」という結論を導き出す。要するに、真に女性差別を解消するには、「ジェンダーという分割線」そのものを壊してしまう(フリーにする)ことが必要だということである。

 一方、後者の「ジェンダーがセックスを規定する」という意味について、大沢氏はこう解説する。性科学や分子生物学によって、生殖器や性染色体などのレベルで男女という二つの性には明確に分類できない事例があることが分かってきた。だから、男女二種類ではなく、もっと多くの性(一対ではなくn個のセックス)を想定すべきである。このように不明確な生物学上の性から、「男は仕事、女は家庭」のごとき二分法的な社会的分業(ジェンダー)が発達するということはありえない。他方、ジェンダーは男か女かの二分法であり、先のような階層的な非対称性をもつ。だから「ジェンダーが基盤でセックスまでも規定するようになった」――と大沢氏は断じている。要するに氏は、ジェンダーの二分法がセックスの二分法を規定することとなったと言っているわけだ。

 しかし、男女二種類以外の多くの性を想定すべきという主張は、特殊な事例を以て原則を否定しようとする類の暴論に過ぎない。例えば最近の脳科学の知見は、男女の性別を一義的に決めるのは生殖器や性染色体ではなく、「脳の性差」であることを教えている。詳しくは触れないが、脳の性分化のメカニズムは、男女二種類の性は自然が人間に与えた厳然たる原則であることを示している(新井康允著『脳の性差』参照)。それ故、脳科学の知見を踏まえれば、そうした男女の性別に基づいて、性別役割(ジェンダー)が発達してきたのは極めて自然なことであるといえる。結局、「ジェンダーがセックスを規定する」などという主張は、学問的な理論というよりも、政治的意図によって作られた仮説に過ぎないのだ。

 実際、ジェンダー論が登場した一九七〇年代以降、フェミニズムにおいても、セックスがジェンダーを作り出したという理解がずっと続いてきた。が、そうした理解に踏みとどまる限り、ジェンダーの解消には生物学的な制約がまとわりつく。そこに登場したのがデルフィの仮説というわけだ。日本のフェミニストたちは、フェミニズム運動を生物学的な宿命から完全に断ち切ることができると見て、デルフィの仮説に飛びついたのであろう。現に大沢氏はデルフィの仮説から、「セックスに根ざす(とされる)男女の特性は是認しつつ、不合理な男女格差を解消する、というスタンスの実践では、女性差別を解決できない」という結論を導き出している。デルフィの仮説は、日本のフェミニズム運動の「過激化」に、実に都合のよい理屈を提供してくれたわけである。

 大沢氏によれば、このデルフィの理論を日本のフェミニストの多くが知ったのは、平成元年に国立婦人教育会館(現在の国立女性教育会館)が開催したセミナーで、デルフィ自身が行った報告を聞いたことによるという。「デルフィの該博な学識と強靱な論理一貫性、そのジェンダー論の実践的な含意の大きさに、心酔した」と氏は語る。むろん氏がいかなる理論に心酔しようともそれは本人の勝手である。しかし、国家の命運に関わる審議会の答申に、こんな過激なイデオロギーを「反映」させられてはたまったものではない。

 ちなみに、先の井上獨協大学教授によれば、実はデルフィ自身が自分の理論について「かなり大胆な仮説」と述べ、「ビジョン」が出された平成八年時点では「まだ実証されていない」と書いているという(『なにが女性の主要な敵なのか』)。これが事実とすれば、過激な政治的意図から作られた「大胆な仮説」が、男女共同参画社会の公的な政策構想の底流に入り込んできたということになる。

 

◆社会システム改造を通した意識改造という「戦略」

 こうした過激なフェミニズム思想に依拠して政府の答申が書かれたこと自体が大問題だといえようが、さらに重大な問題は、その思想には戦略がともなっていたことだ。どういうことかといえば、「ビジョン」は「ジェンダーからの解放」という目的を掲げたばかりか、その目的を達成するための周到な「道筋」をも提示した。そして、その道筋には「社会政策の比較ジェンダー分析」の専門家たる大沢氏が、「ジェンダーからの解放」という目標の実現にむけて練り上げた「戦略」が投影されていたのである。それは要するに、意識変革よりもシステム変革を優先させる戦略、換言すれば「社会制度・慣行の変革を通した意識変革」ともいうべき戦略だ。

 「ビジョン」に即して、この戦略を説明してみよう。まず男女共同参画社会への具体策を定めた「ビジョン」第二部の冒頭に据えられたのが「性別による偏りのない社会システムの構築」という柱である。そこには「性別による偏りにつながる制度・慣行の見直し・検討」をはじめとする「前例のない新しい施策群」(大沢氏)が置かれている。

 大沢氏の説明によれば、このような施策の前提となったのは、社会制度・慣行は「性別による偏り」(ジェンダー・バイアス)を持ち、そうしたジェンダー・バイアスを通じて「固定的な役割分担の考え方」、つまりジェンダー肯定の意識が形成されるとの認識であるという。そこで、人々のジェンダー肯定の意識を払拭するために「ビジョン」は、「固定的な役割分担を前提とした制度・慣行を男女平等の視点に立って見直すこと」「制度・慣行のなかに残されている世帯単位の考え方を個人単位にあらため、個人がどのような生き方を選択しても、それに対して中立的に働くような社会の枠組みを確立していくこと」を提起したという。

 そのための具体的手段として盛り込まれたのは、「夫婦別氏制度の早期実現」や「配偶者に係る税制や国民年金の検討・見直し」などである。一見、これらの施策は単なる男女平等政策のようにもみなし得るが、実はそうではない。これらの施策について大沢氏が、審議会が「ジェンダーからの解放」を志向したことの「具体化」であると明言するように、これらの施策の究極の狙いがジェンダーフリー社会の実現にあることは間違いない。要するに、現行の夫婦同姓や専業主婦を特別扱いするような税制等の制度・慣行は、ジェンダー(男女の性別役割意識)を反映・補強するものであり、ジェンダーフリー社会への支障となる。だから、まずはそうした社会制度や慣行を変革せよ、というわけだ。

 つまり、既成の社会制度や慣行はもちろん、あらゆる新規の政策を「ジェンダーの視点」から点検し、是正しようというのだ。この戦略は「ジェンダーの主流化」などとも呼ばれているが、これはその後、基本法第四条の社会制度・慣行の中立性の規定として具体化した。この条項について大沢氏は、「諸外国の性差別禁止法や男女平等法の先をいく、新たな世紀の成熟社会にふさわしい基本理念として高く評価される。各種の制度・慣行にこの基本理念を実際に反映させることが、これからの課題である」と述べている。そして現在、大沢氏が会長を務める影響調査専門会議は正しく「ジェンダーの主流化」を推進する「頭脳」として、既成の諸々の制度・慣行に難癖をつけ始めているのである。

 その最大のターゲットとなっているのが専業主婦である。すでに政府は昨年末、専業主婦や多数国民の猛反対を押し切って、平成十六年度から「配偶者特別控除」の原則廃止を決めた。「ビジョン」の中で大沢氏らが構想したジェンダーフリー戦略は着実に進められているのである。

 また、先にも見た通り、夫婦別姓の導入が、こうした戦略の中にしっかり位置づけられている事実にも注意しておくべきだろう。夫婦別姓導入については、平成十二年に閣議決定された「男女共同参画基本計画」でも、「国民の意識の動向を踏まえつつ、引き続き検討を進める」と謳われているのだから…。

 

◆大沢氏の「戦略」と保守派の「無関心」

 最後に確認しておきたいのは、これまで見てきたような大沢氏の過激な考え方が、なぜ審議会の答申に盛り込まれることになったのか、という問題についてである。

 もちろん、その理由はけっして単純ではないが、そこには大沢氏の周到な「戦略」とともに、いわゆる「女子供の問題」に対する保守派の側の無関心という現実があったことは否定できない。上野千鶴子氏との対談「男女共同参画社会基本法のめざすもの――策定までのウラとオモテ」(『ラディカルに語れば…』所収)から、こうした事実についての大沢氏自身の証言を拾ってみよう。

 例えば、先に見たデルフィの理論について、上野氏が当時の「ビジョン」の審議会で合意ができたとは信じられない、「大沢さんの頭の中にあるものが、本当に皆さんに共有されたと考えていいんでしょうか」と尋ねているのに対し、大沢氏はこう応えている。

 「私も絶えず戦略的に行動していますから、ジェンダーについて説明し、議論をする時には二段階に分けて、最初の一段階のところで理解してもらえれば、まあそれで良しとしました。二段階目まで説明すると、やっぱり自分の足元の地面がなくなったように感じたり、怒りだす人がいるわけです。そこは使い分けをしています」

 要するに、「ジェンダーの解消」という目的を通すことを優先させ、「ジェンダーがセックスを規定する」といったデルフィの仮説の核心部分の議論は敢えてしなかったというのだ。「そういう戦略をとったのは賢いやり方」と上野氏は讃えているが、やはり大沢氏はなかなかの「戦略家」なのである。

 さらに興味深いのは、「ジェンダーの解消」について審議会での「合意形成はすんなりいきました?」との上野氏の重ねての質問に対する大沢氏の応えである。「時期尚早じゃないか」といった消極論はあったが、「反論らしきもの」はほとんどなかったとして、氏はこう述べている。

 「審議会では、理路整然と主張すれば、反論するにはやはりそれなりの論理を準備しなければならない。それだけの論理のある人は、そう言っちゃなんですが、いなかったということですね(笑)」

 「事務局が引き回したくても、その素養がないんです。大学で女性学を学んでいませんし、役所に入ってからも女性政策というのは本当に周辺の『ウメチル』(ウィメンとチルドレンの略、女子どもの意)ですから、ジェンダーというような発想はまったくないわけで。結局委員が発言し、自分の発言したことを起草して、文章を作っていくという、稀に見る審議会だったんです」

 この発言を受けて、上野氏は「たまたま論理の不在のところに強力な論理が登場したことによって、それが席捲してしまった」と総括している。つまり、フェミニズムの側が大沢氏という「強力な論理」を持った反面、他の誰もが「抵抗の論理」を持たなかったということである。そして、その背景には、「女子供の問題」に対する保守派の側の無関心があったことは否めない。その意味で、次に掲げる両者の発言は、保守派に対する嘲笑とも受け取れよう。

    《大沢 「『ビジョン』の特徴と意義を解説した私の論文を、参画室の事務局で『ビジョン』の起草に深く関わった男性のお役人が、立ったまま読みはじめて、そのままとうとう終わりまで読んでしまった。そして最後に『こういうことだったのか』って言ったそうです(笑)」
    上野 「今のエピソードは実に典型的ですね。つまり、納得しながら進めてきたんじゃなくて、あれよあれよと大沢委員に寄り切られて、ふりかえったら『そんなことやってしまっていたボクちゃん(笑)』ということなんでしょうか」》

 かくして、当時の審議に関わった委員や官僚の誰もが、大沢氏の「強力な論理」に「寄り切られ」、その後の男女共同参画行政はジェンダーフリーの方向へと大きく舵が切られてしまうこととなったのだ。

 さて、先にも述べたように、大沢氏は現在、男女共同参画会議の影響調査専門調査会会長として、「ジェンダーの視点」からの社会システムの見直し作業に取り組む一方で、例えば千葉県男女共同参画推進懇話会委員として地方の条例案の作成にも関わっている。堂本暁子知事率いる千葉県の条例案が、その内容の過激さから議会の猛反対を受け、継続審議を繰り返し、廃案となったことは周知の通りであろう。大沢氏が地方の条例制定の動きにも積極的に関わっている事実は見逃せない。

 いずれにしても、後から「こういうことだったのか」と嘆息するような事態に再び立ち至らないためには、一人でも多くの国民が大沢氏の「思想」と「戦略」を十分に理解し、男女共同参画社会の「本質」を見極めることが必要なのである。(日本政策研究センター研究員 小坂実)

〈『明日への選択』平成15年3月号〉