今も続くエンゲルスの呪縛

 エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』などというと、もうそんな古いテキストは共産党員だって読まないよ、という声が聞こえてきそうだ。とはいえ、今もこの本がマルクス主義フェミニズムのバイブルでありつづけているという事実は知っておいてよいことのように思われる。今流行のジェンダーフリーなどといった主張の奥にある狙いもまた、この中に示されているといえるからだ。

 彼はこの著書の中で、まず近代における平等な当事者による自由な契約といわれるものに対し、次のような異論を提起している。

 「こういう純法律的な推論は、急進共和派のブルジョアがプロレタリアをたしなめ黙らせるやり方とぴったり同じである。…違った階級的地位が一方にあたえている権力、それが他方にくわえている圧迫―双方の現実の経済的地位―そんなことは法律の知ったことではない。…法律の舞台裏で、現実の生活が演じられているところで、なにが起こっているか、この自由意思がどのようにして成立するか、法律と法律家はそんなことを気にするわけにはいかない」

 すなわち、平等で自由な契約などというものは紙の上の麗しい建前に過ぎず、問題はあくまでも両者が置かれている階級的地位にある、とエンゲルスは主張するのだ。つまり、両者が異なった階級に属する限り、平等で自由な契約などというものは一片の紙片以上のものではないというのである。

 このことは当然、自由な婚姻という法的建前にも適用される。いかにそこで男女は平等だとされてはいても、実際の両者の関係はそのようなものとは全く異なるというのが彼の家族観であるからだ。

 「近代の個別家族は、妻の公然または隠然の家内奴隷制の上にきずかれており、…夫は家族の中ではブルジョアであり、妻はプロレタリアを表す…」

 それゆえ、法律の上で自由な婚姻などというものが規定されたとしても、それは何の力にもならない。むしろそれは、この男女の不平等という根本的な対立が「たたかい抜かれる地盤をはじめて提供する」ものだ、というのだ。

 「夫婦が法律上完全に同権になったときにはじめて、近代的家族のなかでの夫の妻に対する支配の独特の性格も、また夫婦の真の社会的平等を樹立することの必要性と、それを樹立するやり方も、白日のもとに照し出されるであろう。そのときには、女性の解放には全女性の公的産業への復帰が第一の先決条件であり、この復帰がこれまた、社会の経済的単位としての個別家族の性質の廃棄を必要とすることが示されるであろう」

 つまり、法律上の男女同権の確立というのはあくまでも出発点であり、そこから漸くにして実際の男女同権の実現に向けた戦いが始まるというのである。そしてそれは、要は妻の「家内奴隷」からの解放、すなわち「公的産業への復帰」が第一の課題となるというのである。と同時に、それは「個別家族の性質の廃棄」を必然とする、ともいう。つまり、妻が社会で働くようになれば、それまでの家族のあり方は廃棄されるか、変容せざるを得ないというのである。

 いうまでもなく、ここにあるのは近代家族の基本構造を規定するのは夫と妻の経済関係であり、そこにおける平等が達せられない限り、真の男女平等は実現しないという指摘である。と同時に、妻がそのような平等な立場を確立すれば、夫の妻に対する支配を前提とした近代家族のあり方も克服されるという主張でもある。詰まるところ女は社会に出て働かなければならないという主張であり、その結果、それまでの女の役割たる出産や育児、あるいは子どもの養育という問題が破綻を来す帰結になっても、それは社会発展の必然の結果だという考えでもある。更に、そのことから「離婚の自由」「社会による子の養育」という考えが出て来もするのである。

 ジェンダーフリー論者が、男女平等を超え「それ以上のもの」を求めるのはこのような考え方からだといってよいだろう。むろんその主張には更に先があり、男も女もない無定型な社会がその目指す所だともいう。とはいえ、それこそがポスト資本主義の社会形態と考えれば、なおそれはエンゲルスの影響圏だともいえるのだ。(日本政策研究センター所長 伊藤哲夫)

〈今月の主張/『明日への選択』平成15年9月号〉