すり替えられる「少子化」対策

すり替えられる「少子化」対策

少子化社会対策会議発足

少子化を前提とする「少子化社会対策基本法」。これでは「少子化」は単なる与件となり、少子化は阻止できない。基本法の問題点とあるべき少子化対策を説く。


 

少子化なのか少子化社会対策なのか

 少子化社会対策基本法という法律が昨年(平成十五年)七月、国会で成立したことについては読者も既にご存知のことだろう。この法律を受け、昨年末よりそうした対策に関わる施策の大綱を策定する「少子化社会対策会議」なるものが内閣府の中に設けられ、既に検討作業を始めている。同会議は今年五月を目途に大綱案を作成し、以後国家を挙げた施策実施の体制を作り上げていくことになるとされている。同法によれば、①雇用環境の整備、②保育サービスの充実、③地域社会における子育て支援体制の整備、④母子保健医療体制の充実、⑤ゆとりのある教育の推進、⑥生活環境の整備、⑦経済的負担の軽減、⑧教育及び啓発――がそうした施策の基本とされており、当然のことながらこうした基本を踏まえた上で具体的な施策内容が定められていくことになるのだろう。

 ところで、かかる施策の対象となっている「少子化問題」の深刻さについては、これまでも各方面から様々な場で議論がなされてきた。それは端的にいって、将来の日本国家の「活力」そのものに直接関わる「最重要・最優先の国家的課題」だというのが共通の認識でもあるからだ。われわれの日常生活に引きつけていえば、われわれの職場なり、団体なり、サークルなりの構成員が日に日に減少していった場合、どうなるかという問題でもあろう。活動規模の縮小、各種作業に必要な要員の不足、将来への夢をもてないことによる新規事業への意欲の減退、士気の低下、そして何よりも成員の相対的高齢化による全体的活力の低下……等々の問題がそこには出てくるといえる。こんな事態が次々と生起してきた場合、果たしてその組織は存続していけるかということなのだ。

 そんなことから、冒頭の少子化社会対策基本法もそうした流れを憂慮した自民党有志議員のイニシアティブによって、かかる少子化の流れを阻止する切り札として立案されたというのがそもそもの経緯であった。ところが、その後の経過は、その法案化の過程においてそうした当初の趣旨が一部の官僚たちによってねじ曲げられ、少子化対策がいつの間にか少子化「社会対策」にすり替えられ、むしろ少子化社会における「女性の職業生活と出産・育児との両立」という別構図にされてしまったというのが偽らざる現実であったのである。その背景にあるのは、「女性は社会に出て働かねばならない」というイデオロギーであり、要は少子化社会における男女共同参画の実現をめざした「社会の構造改革」というフェミニズム立法への策動だったということなのである。

 ということは、冒頭の「少子化社会対策会議」は「少子化」という言葉こそは掲げてはいても、とても本来の「少子化対策」のための機関にはならないという話だともいえるだろう。放っておけば、どんなとんでもない施策を打ち出さないとも限らないのである。とすれば、この会議が打ち出す施策にはそもそも期待など抱くことができず、むしろその内容に厳しい警戒と監視の眼を光らせていくことこそが必要だという話にもなるといえる。後にも述べるように、雇用環境の整備だの、保育サービスの充実だの……という施策によっては少子化を防ぐことなど到底できず、むしろますます出産・育児を負担や拘束などと考える層を生み出していく危険性の方が高いというのがわれわれの危惧であるからだ。

 

「少子化」を前提とした「対策」

 そこで、ここはまずそうした問題のベースとなる同基本法の問題点から見ていくことにしたい。既に触れたように、この「少子化社会対策会議」はこの基本法によって設置が義務づけられたもので、またそこで策定される「施策の大綱」も既にこの基本法によってほぼ方向づけられているというのが現実でもある。とすれば、この基本法を論ずることがすなわちこの会議の問題点を論ずることにもなる筈なのである。

 まず前文から見ていこう。同法はわが国における急速な少子化の進展が実に深刻な問題であり、それがもたらす帰結はまさに「有史以来の未曾有の事態」でもあるとの切迫した認識を冒頭に示す。そしてその上で、この対策にはきわめて長い時間が必要となることから、早急な取り組みの必要性が強調されるのである。次に続くのが以下のような言葉だ。

 「もとより、結婚や出産は個人の決定に基づくものではあるが、こうした事態に直面して、家庭や子育てに夢を持ち、かつ、次代の社会を担う子どもを安心して生み、育てることができる環境を整備し、子どもがひとしく心身ともに健やかに育ち、子どもを生み、育てる者が真に誇りと喜びを感じることのできる社会を実現し、少子化の進展に歯止めをかけることが、今、我らに、強く求められている……」

 「もとより、結婚や出産は個人の決定に基づくものではあるが」とのフレーズは唐突であり、不自然感を否めないともいえるが、しかしここにあるのは総じて健全な認識であるといって問題はない。「家庭や子育てに夢を持ち」「子どもを生み、育てる者が真に誇りと喜びを感じることのできる社会」というのは、一見したところこの少子化対策がめざすべき社会目標であるともいえるし、とりわけ最後の「少子化の進展に歯止めをかけ」云々の認識は、まさに少子化対策の最大の眼目だともいってよいように思えるからだ。

  しかし、基本法のトーンは具体的な条文となるや俄に一変する。第一条は同法の目的について、「少子化社会において講ぜられる施策の基本理念を明らかにする」とし、「少子化に対して」ではなく、突如「少子化社会において」という言葉を挿入するからである。これでは「貧困に対して」を「貧困社会において」に変えるのと同じく、「貧困」そのものは単なる与件となり、施策を講じられるべき対象でも何でもなくなってしまうという話であろう。

 同時に、第二条においては少子化対処の「基本理念」として、「国民の意識の変化、生活様式の多様化等に十分留意しつつ、男女共同参画社会の形成とあいまって」とあえて書き、その上で「安心して生み、育てることができる環境」を整備すべきことを規定している。

 先にも触れたように、ここでは少子化対策が少子化社会対策にいつの間にか変じ、その上で「国民の意識の変化」や「生活様式の多様化」を十分に尊重した、それも「男女共同参画社会の形成」という大命題と連携した各種施策が打ち出されるべきことが求められているといえる。何のことはない、「家庭や子育てに夢を持ち」「子どもを生み、育てる者が真に誇りと喜びを感じることのできる社会」などともっともらしいことを言い立てつつ、実際には「国民の意識の変化」や「生活様式の多様化」を格好の口実にしつつ、要は少子化社会を踏まえた社会環境の整備、つまり「男女共同参画社会の形成」に向けた「社会の構造改革」が、いつの間にか目指すべき理念に変じてしまっているという話なのである。

 

忍び込むフェミニズム

 このことがより明確になるのが第十条以下の「基本的施策」である。まず第十条は以下のようにいう。

 「国及び地方公共団体は、子どもを生み、育てる者が充実した職業生活を営みつつ豊かな家庭生活を享受することができるよう、育児休業制度……労働時間の短縮の促進……多様な就労の機会の確保その他必要な雇用環境の整備のための施策を講ずるものとする」

 何もこうした施策自体が間違いだというのではない。しかし、ここでまず唐突に「充実した職業生活を営みつつ」という言葉がでてくることに注意を喚起したいのだ。職業生活に関わらない「専業主婦」など対策の問題外だといわんばかりに、まずは「働く女性が第一」という発想がここにはあるからである。少子化に対処しようとするならば、まずは「職業生活と出産・育児の両立」を考えよ、という発想である。

 ついで第十一条は「良質な保育サービス等の提供」を指摘しつつ「病児保育、低年齢児保育、休日保育、夜間保育、延長保育及び一時保育の充実、放課後児童健全育成事業等の拡充」などといった一連の保育サービス充実のための施策の必要を説く。前条のような明示的な言葉こそないものの、ここでもまた「職業生活と出産・育児の両立」が発想の根底を貫くという構造だといえる。

 そして、とどのつまりが第十二条である。「地域社会における子育て支援体制の整備」をうたいつつ、そうした活動に関わる「民間団体への支援」が打ち出されるのである。

 「国及び地方公共団体は、地域において子どもを生み、育てる者を支援する拠点の整備を図るとともに、安心して子どもを生み、育てることができる地域社会の形成に係る活動を行う民間団体の支援……等について必要な施策を講ずることにより、子どもを生み、育てる者を支援する地域社会の形成のための環境の整備を行うものとする」

 ここにいう「拠点の整備」「民間団体の支援」が、すなわちフェミニズム団体への活動支援に他ならないことが分からないとしたら、その人の眼は恐らく節穴であろう。「子育て支援」を名目としつつ、そこではフェミニストたちに活動の場が与えられ、いわばフェミニストたちのいう「性差への先入観による固定的な観念や役割分業意識を植え付けない子育て」なるものが周到に教え込まれるという舞台仕掛けなのだ。

 そうした観点からいうと、第十七条の「教育及び啓発」もまた要注意の規定ではある。「国及び地方公共団体は、生命の尊厳並びに子育てにおいて家庭が果たす役割及び家庭生活における男女の協力の重要性にいて国民の認識を深めるよう必要な教育及び啓発を行うものとする」とあるが、ここにいう「家庭が果たす役割」はそれでよいとしても、「家庭生活における男女の協力」なるものが具体的に何を要求するものであるかが、今一つ見えないからだ。

 「育児性は男女の別なく学習によって身に付くものである。/育児性とは、子どもを育てる能力や親としての役割を遂行する資質のことである。妊娠・出産をのぞけば、育児性は男女とも培うことができる」

 これは驚くなかれ現行高校家庭科教科書の記述である。この規定がまさにこうした考え方に則った「男も女並みに育児を」などという「教育及び啓発」を意味するものだとすれば、これは改めて大いに問題にすべき条文ということになるだろう。

 

基本法はこう見直せ

 さて、以上が少子化社会対策基本法なるものの問題点として考えられるものである。これが政府としての施策の基本になるのだとすれば、冒頭の少子化社会対策会議なるものがどのような具体的施策を打ち出してくるかはおおよそ見当がつくという話でもある。そこで、ここではかかる動きの機先を制すべく、こうした「少子化社会対策」なるものの誤りと本来のあるべき「少子化対策」の方向性を、残された紙数の中で示してみることとしたい。

 まず最初にいわねばならないのは、そもそも出産・育児とは何かということである。それは女性の社会進出といったような問題とは本来的に次元の異なる「母性」に属する事柄だということが、指摘されねばならない。それはこの基本法が簡単に想定するような「職業生活との両立」が簡単にできるような類の問題ではない。職業生活が権利や利益に関わるような事項だとしたら、母性は全く逆に義務とか無償の献身とかに関わる別次元の事柄だというべきだからである。出産や子育てはまさに「権利が十分の一、義務が十倍」(山谷えり子)の世界なのである。それを可能にするのが母性なのだ。それは子育ての本能というものが生まれつき備わっている動物とは異なり、宗教とか文化とか教育の中で後天的に培われて、初めて形になるものだともいえるだろう。

 とすれば、本来の少子化対策とは、この女性たちの母性をいかに育て保護していくか、という考慮以外の何ものでもないということなのである。専門家によれば、この母性というものはとても脆弱なものだという。それはそれを支える文化的・社会的システムなしには容易に機能し得ないものだとされるからだ。にもかかわらず、そうした母性の微妙な特性を全く無視し、まず女性は外に出て働くものだとし、ただ安易に「男性並みの職業生活との両立」のみが語られてきたのがこれまでのフェミニズム論でもあったといえる。

 ということは、そうした偏った発想こそがむしろ少子化を生み出してきた最大の原因でもあるということなのである。フェミニストたちはこの少子化の原因を「安心して子を生み、育てることのできる社会」が確立されていないことに求める。つまり、「出産・育児と職業生活との両立」が可能な「真の男女共同参画社会」が築かれていないことに原因があるというのだ。しかし、それは大きな間違いだというべきだろう。むしろそうしたデマ宣伝こそが女性たちをますます出産・育児を厭うべきもの、つまり自由の拘束だとか生活水準の低下といった見方にさせ、そうした選択から遠ざけさせる結果になってきた元凶であるからである。換言すれば、そうした言説こそが女性の権利意識といったものをいたずらに先鋭化させ、逆にその対極にある出産・育児といった行為の価値を貶め、またその結果として女性の母性を傷つけ弱めさせ、少子化を世の流れとさせる決定的な役割を果たしてきた元凶だということなのだ。

 そのとりわけての帰結が、女性の社会進出にともなう未婚化・晩婚化と出産の高年齢化という現象であろう。これが少子化の真の原因であることは実は各種調査によって明らかなのだが、それを必然化せしめてきたものこそ、以上述べてきたような女性は社会へ出て働かねばならないとする「働けイデオロギー」であり、それを教育の段階から子どもたちの心に執拗に刷りこんできたフェミニズムの誤った言説だということなのである。その現実を無視して、いかに職業生活との両立を図る「環境整備」が行われたとしても、その時はもはや遅いというのが実際のところでもあるのである。肝心の母性がその時にはもはや決定的に傷つき、弱められてしまっているというのが現実であるからである。

 とすれば、政府が本来講ずべき少子化対策の施策は自ずと明らかであろう。端的にいって、これまでやってきたことを一八〇度転換することだといって過言ではないからである。ここは紙数の関係上、そうした方向性に立つ施策の骨子を示し、結論ということにさせていただきたい。

 まず第一は教育において、母性強調の教育を行うことである。つまり出産・育児――というより、更にその前提となるべき、家庭を持ち、子を持つことの素晴らしさを教える本来の教育を復活することである。

 第二は、それと同列のことだが、子どもを生み育てることの社会的意義を政府は説き、それに相応しい社会的支援制度(例えば児童手当の拡充、税制での優遇、住宅支援制度等)を整備・充実させることである。子どもを生み育てることは、それ自体が将来の日本に対する「社会的貢献」に他ならないのである。

 第三は、出産・子育てと職業生活との両立というより、むしろ専業主婦を支援する施策を打ち出すことである。これまで政府がやってきたのは「専業主婦つぶし」の施策であった。これを逆転させることだ。

 第四としては、職業生活との両立をいうなら、女性が子を生み、育児を一通り終えてから社会復帰できる体制の確立、つまり「M字型就労形態」の確立が考えられるべきだということである。例えば地方自治体などは政策として、積極的にそういう女性に働く場所を優先的に提供する施策をとったらどうだろうか。

 いずれにしても、最初の方向性が間違ってしまえば、もはや何をやっても無価値だといわなければならない。というより、それは場合によっては、犯罪的でもあるということだ。とすれば、政府はこの基本法の見直しを早急に行い、施策の方向性を根本的に改め、そこから新たな少子化対策を打ち出すべきなのである。今からでも決して遅くはない。(日本政策研究センター所長 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成16年1月号〉