善悪の基準、生き甲斐はどこから生まれるのか

「母子一体感」こそ子育ての原点④

善悪の基準、生き甲斐はどこから生まれるのか

田下昌明著『子育てが危ない』 (抄録)


 

 田下 そうした知能の発達だけではなく、母子の一体感は、実は善悪の判定基準や生き甲斐にもつながっていくものです。

 先ほども言いましたが、生後六カ月を過ぎますと人見知りということが起こる。これは自分でない人と自分との区別が出来たということです。これでほとんど対人関係の最初の基礎が出来る。

 では、自分とお母さんとは違う人だということが分かったら、お母さんとの一体感が終わってしまうのかというとそんなことはないのです。母子一体感というものはまだ続きます。

 子どもは、ほぼ二歳くらいになりますと、なにかをしてお母さんに誉めて貰いたいという気持ちが出てきます。これはどなたも経験がおありだと思いますけれども、頼みもしないのにいろんな事をするようになる。

 例えば、次の子どもが生まれたりすると哺乳瓶をくわえさせようとしたり、抱いてあやそうとしたりします。お母さんからすると、危なっかしくて時には叱ったりもするのだけれども、子どもの方は「いいことやってくれた」「ありがとう」「助かったわ」というお母さんの言葉を期待してやっているわけです。つまり、お母さんのためになりたいのです。

 ただ、お母さんのためになるということは毎日毎日そうあるわけではない。それで、次第にお母さんが悲しむことをしないようにしようというふうに変わっていきます。つまり、お母さんが喜ぶことは善いことであり、お母さんが嫌がったり悲しんだりすることは悪いことだと思うようになる。つまり、善悪の判定基準というものがお母さんから与えられるわけです。

 むろん、お母さんから与えられたものが、善悪の判定基準のすべてではありません。十二歳から十五歳ぐらいになっていきますと、お母さんから与えられた基準とはちょっと違う部分もあるなということになり、自我が目覚めて善悪の判定基準も変化していきます。しかし、先に与えられたお母さんの基準というお手本がないと、そうした修正も出てこないのです。

 ですから、善悪の基準というものも母子一体感があるところから生まれてくると言えるのです。つまり、子どもにとってお母さんが大好きな人でなければ、最初の善悪の判定基準は発生しない。

 また、母子の一体感は、生き甲斐というものとも繋がっています。

 自分が存在していることによって誰かが喜んでくれるとか、自分が生きているということだけで誰かのためになっているという人が少なくとも一人はいないと人間には生き甲斐が出てきません。これは大人も同じで、生き甲斐は自分がいなかったり死んだりしたら、悲しんだり困ったりする人がいるということを確信するところから生まれてくるものです。逆に、自分がいなくても誰も悲しまないし、誰も困らないとなると、自分がいる理由がなくなる。そうすると、その人は自殺をするか、また悪事を働いたりすることになる。

 では、自分がいることを喜んでくれている人は誰かというと、それはまずお母さんを措いて他にはいません。その次がお父さんなのか兄弟なのか、それは分かりませんが、第一番目がお母さんであることは間違いない。子どもからすれば、僕がいると本当に幸せだと思っている人、これがお母さんです。

 しかし、そうした感覚もお母さんとの一体感がないと生まれてこない。その意味で、生き甲斐ということも実は母子一体感から始まっているのです。 >>続きを読む