人権委員会の危険性

人権委員会の危険性

「パリ原則」に従って「国内人権機関」を作った国はどうなったか?

 

   現在、自民党の人権問題等調査会で、問題の人権擁護法案に関してヒアリングや議論が行われているが、以下は、問題の焦点となっている「人権委員会」について、真正面から論じた一文である。


 

 現在、自民党の人権問題等調査会を舞台に人権擁護法をめぐる攻防が続いているが、新たな人権救済機関のあり方が議論の焦点となっている。今年の初会合で鳩山法相は、従来の人権擁護法案を前提としない「白紙の議論」を求めたが、法務省はもとより同調査会幹部らも、人権救済機関の設置を既定路線と捉えており、ヒアリングにも自分たちに都合のよい学者を多く招いている。

 周知のように同法の推進勢力は、国連の権威を「錦の御旗」に政府の尻を叩き、一定の成果を収めてきたが、同調査会の場でも、「外圧」によって反対派議員の抵抗をねじ伏せようとする動きが見受けられる。

 例えば、国際法専門家の横田洋三氏は、「国内人権機構設置の必要性および決定の緊急性について」と題して意見を陳述した。今年五月に国連人権理事会による全加盟国を対象とした「人権状況に関する定期審査」が行われるが、その審査の資料としてわが国はこの三月、日本の人権状況に関する報告書を人権高等弁務官に提出した。その中で「日本政府は、国内人権機構を作る方向で取り組んでいることを国際的に表明している」と横田氏は言う。だから「決定の緊急性」――つまり、ぼやぼやせずに早急に人権救済機関を作るべきだと氏は訴えた。「外圧」こそは推進派の「奥の手」であることに改めて注意すべきである。

 ところで、推進派が利用してきた「外圧」の最たるものが、人権救済機関の指針を定めたいわゆる「パリ原則」(国内人権機関の地位に関する原則)である。先の会合でも横田氏は、人権救済機関を有する八十三カ国の内、六十カ国がパリ原則に合致した「Aランク評価」であることを強調、「日本もこの国際的な流れに沿って、できるだけ広範な人権問題を扱う権限を与えることが必要」、「パリ原則に沿った国内人権機構を設置することは、民主国家であり、経済的、技術的、文化的大国である日本のような国に対して、国際的に強い期待がある」などと訴えた。

 しかし、そもそもパリ原則はいかなる経緯で作られ、その原則に合致した人権機関を有する国々の実情はどうなのか、といった重大な問題はほとんど知られていない。こうした事実も検証せずに、単に「バスに乗り遅れるな」式の発想で「パリ原則に沿った国内人権機構」を設置することは、行き先不明のバスに国民を乗せるにも等しい無責任な所業と言わざるを得ない。

 そこで、パリ原則の素性を洗い直すとともに、パリ原則に合致したとされる各国の人権救済機関をめぐる問題状況をレポートしたい。

 

◆「パリ原則」の胡散臭さ

 まずはパリ原則なるものが作られるに至った経緯から見てみたい。

 周知のように、国連は一九六〇年代以降、人種差別撤廃条約(六五年)、女性差別撤廃条約(七九年)、児童の権利条約(八九年)などの多数の人権条約を作ってきた。同時に各条約に基づく委員会を設置し、加盟国から定期的に条約の実施状況を報告させ、それを委員会が審査し、勧告を発する体制を作ってきた。先に触れた横田氏が指摘した「定期審査」は、その「人権理事会版」と言える。

 ちなみに、各審査ではNGOも政府報告とは別に「カウンター報告」を提出するが、それらを代弁するような勧告がしばしば出されてきた。わが国の左翼系市民団体は、そうした「勧告」を利用して、ジェンダーフリーや子どもの権利条例を推進してきたわけである。要は、国連とNGOが事実上連携して各国政府に「外圧」をかける国際的な「仕組み」ができあがっているわけだ。

 その一方で、国連は特に九〇年代に入ってから、人権諸条約を各国により主体的に実施させるための「拠点作り」に乗り出した。すなわち国連人権委員会は九〇年、国内人権機関に関するワークショップの開催を求め、それを受けて九一年、パリで会合(人権の伸長と保護のための国内人権機関に関する国際ワークショップ)が開かれた。民間団体も含めて四十数カ国の国内人権機関の代表が参加したこのワークショップで採択された内容が、後に国連人権委や総会で認知される「パリ原則」と呼ばれるものとなるのである。

 では、そもそもパリ原則はどんなことを謳っているのだろうか。一般的には、「国内人権機関の権限と責任」「構成と独立性・多元性の保障」「活動方法」などについて、人権救済機関の「あるべき姿」を提示した原則などと解説され、あたかも「神聖な原則」でもあるかのように論じられてきた。だが、その内容は首を傾げざるを得ない点が少なくない。

 問題の第一は、一つの国家機関に人権問題を包括的に取り扱う強大な権限を認めていることだ。パリ原則は「できるだけ広範な任務が与えられるもの」として、「政府・議会などに対する勧告・提案」、「あらゆる人権侵害状況の審査」、「国際人権条約の実施確保と批准推進」、「人権教育・啓発・情報発信への参加」等々幅広い権限を並べている。

 二つ目の問題は、人権救済機関へのNGOの関与を繰り返し強調している点だ。例えば委員会メンバーの「多元性の保障」として、「人権と人種差別と闘うNGO、労働組合、弁護士会、医師会、ジャーナリスト、学術会議」などの代表を参加させるよう求める一方、「活動方法」として、「非政府組織が果たす基本的な役割を考慮」し、「人種差別との闘い、被害を受けやすい集団の擁護などに取り組んでいるNGOとの関係を発展させる」ことを求めている。わが国の少なからざるNGOの反日的性格を考えれば何とも胡散臭い。

 では一体、そもそも誰がこうした「原則」を書いたのか。「各国の人権委員会で働いた経験のある実務家等によって起草された」と言われるが、残念ながらその全貌を記者は把握していない。が、起草者の一人とされるオーストラリア連邦人権委員を務めたブライアン・バーデキン氏の言動は、パリ原則の性格を理解する上で実に示唆的だと言える。

 この人物は九五年、国連人権高等弁務官事務所で国内人権機関に関する特別顧問に就任し、平成十四年七月、反差別国際運動(IMADR・部落解放同盟の呼びかけで設立された国連NGO)の招きで訪日した。その際の記者会見記録によると、主催者が、「NGOの招待で国連の上級職員がある国を訪問するということはあまりない」と紹介するかと思えば、バーデキン氏も、「このNGOや日弁連は、日本国内でも尊敬を得ている人々だと考えている」と讃えている。パリ原則の起草者に、反日的なNGOと共鳴し合う人物が存在した事実は記憶するに値しよう。

 一方、パリ原則に合致した「Aランク」の人権機関を有する六十カ国とはどんな国々なのだろうか。横田氏の資料によれば、カナダやイギリスなどの先進国は意外にも少数派だ。多数派は、アフガニスタン、インド、ニカラグア、グアテマラ、アルバニア、アルメニア、アゼルバイジャン、ルワンダ、ウガンダ、ザンビア等々、失礼ながら極度の貧困や民族・宗教差別、軍隊などの公権力や反政府勢力による人権侵害や虐殺などの深刻な問題に直面している国々なのだ。これらの国々がパリ原則に合致した人権救済機関を有する「優等生」というのだが、日本以上に人権が守られているとは到底思えない。こうした現実も、パリ原則の胡散臭さを示して余りある。

 以上のようなパリ原則の実態や背景を踏まえれば、それが人権救済機関の「あるべき姿」などとはとても思えない。結局、「パリ原則に沿った国内人権機構」の正体は、国連とNGOが「人権問題」を口実に各国の内政に好き勝手に介入するための「拠点」ではないのか。

 

◆家族・社会・国家の「弱体化」

 実際、パリ原則に忠実に従って、人権問題を包括的に扱う強大な国家機関にNGOが深く関与するシステムが出来るとどうなるか。その恰好の「ケーススタディ」が韓国の国家人権委員会である。同委員会は二〇〇一年、金大中大統領の強い意向によって作られたが、高度な独立性と人権侵害行為に対する調査・勧告などの幅広い権限を保持するとともに、メンバーには女性運動団体などのNGO出身者や弁護士など民間人が多く、まさにパリ原則に沿ったものと言え、日本の推進派からも高く評価されている。例えば「人権フォーラム21」の副代表にも名を連ねた在日韓国人の金東勲氏は、「設立から五周年を迎える韓国人権委員会」と題して、その「成果」を次のように挙げている。

 「二〇〇二年には、〝テロ防止法〟の制定について、テロの防止は既存の法律によっても十分可能であり、新しい立法は人権制限の素地があるとして、その中止を求める意見を表明し、その立法の阻止を導いた。また二〇〇三年には、長年にわたって男性優位の伝統と慣行を支えてきた戸主制度が平等権侵害にあたるとの意見を憲法裁判所に提出し、結果的に戸主制度だけでなく、戸籍制度自体の廃止をも実現させた運動の一翼を担うことになった。

 さらに、実現はしなかったが、二〇〇四年には、南北分断に起因する立法であり、人権保障の立場からその改廃が求められてきた国家保安法の廃止が必要であるとの意見を表明し、二〇〇五年には、死刑制度が生命権の本質的内容を侵害するために廃止されるべきであるとの意見を表明して、死刑廃止にむけた運動を力づけることになった」(『部落解放』06・12)

 これは要するに、国家人権委が個別事件の救済に留まらず、「人権侵害」を恣意的に拡大解釈して、家族の絆や国の安全を危殆に陥れるようなある種の「革命」を推進しているということに他なるまい。

 なぜなら、例えば韓国の新しい戸籍からは家の概念は完全に消滅し、個人を単位とする「個籍」となり、韓国の保守派は「これでは両親の生死も兄弟の配偶者もわからない」と嘆いているという。一方、国家保安法は「反国家活動」を規制することで、国の安全と国民の生存を確保しようとする法律だが、その撤廃を求めていたのは北朝鮮なのだ。この意味で、国家人権委は北の片棒を担いだと言われても仕方がなかろう。

 同委員会が十七年末に作成した「国家人権政策基本計画」案は、「良心的兵役拒否」の認定、公務員と教師の政治活動の許可、集会・デモに対する場所と時間の廃止――などを明記しており、これに反発した経済五団体は連名で、「韓国社会の一部進歩勢力の主張のみを反映してバランスを欠く」と反対声明を発表したという(産経新聞三月十一日付)。

 こうした「人権」概念の拡大解釈による「革命」は韓国だけに限った話ではない。推進派の研究者らがまとめた『国内人権機関の国際比較』の中には、カナダでの同類の事例が載っている。あるゲイのカップルが、財務省が家族医療給付の対象となる「配偶者」の定義を異性に限っていることが「性的指向による差別」に当たるとして申し立てたケースだ。

 この事件は人権委の調停では解決できなかったために、人権審判所の審理に付されたが、審判所は同性のパートナーも「配偶者」として認めるべきだと判断した。しかし、財務省は「配偶者」の定義を変えず、「同性パートナー」という新たなカテゴリーを作って対処するという代替策をとったが、審判所がそれに納得しなかったため、同省は連邦裁判所に上訴した。結局、連邦裁は「同性パートナー」というカテゴリーは、異性愛者と同性愛者を区別するものであるとの理由により、そのカテゴリーの設定自体が「差別」であると結論づけたというのである。

 もっとも、カナダの人権委は、あらゆる人権侵害に対する救済機能を有しているわけではない。人権法は禁止される差別事由と差別行為を制限列挙しており、「それにあたらない行為は差別とはみなされず、人権委員会の救済権限は及ばない」(前掲書)。それでも、人権委は種々の「苦情申立」の窓口となり、結果的に家族や社会の「改造」に手を貸しているわけだ。その結果でもあろう、カナダは二〇〇五年、同性婚を合法化する法律を制定、世界で四番目に同性婚を認めた国になるのである。

 いまさら言うまでもなく、そもそも家族のあり方や国の安全に関わるような基本的な問題は広範な国民的な議論を踏まえて慎重に決めるべきものだ。単なる人権救済機関が個別の救済を超えて、国の根幹に関わるような問題の方向を決してしまうのは民主主義を否定する暴挙であり、正しく「革命」そのものではないか。実はそこにこそ国連発の国内人権機関の狙いはあるものと思われる。

 改めて注意を促したいのは、パリ原則の震源地とも言うべき国連人権委(現在は人権理事会に改組)を傘下に置く経済社会理事会の実態である。詳しく論ずる余裕はないが、同理事会について中西輝政氏が概略次のように警鐘を鳴らしていることを指摘しておきたい(『諸君!』平成十七年七月号)。経済社会理事会は「特殊な左翼イデオロギーと人脈に牛耳られ」ており、その名称を「各国社会の改変理事会」か「社会革命推進理事会」と言い換えた方が事の本質を捉えている。ソ連共産党の支部として各国に共産党を広め、世界革命をめざしたコミンテルンとの間に「深い類似性」がある、と。

 

◆圧殺される「言論の自由」

 一方、人権擁護法案をめぐるわが国の議論では、「言論の自由」の抑圧に対する懸念が強調されてきたが、それも決して杞憂ではない。例えば先のカナダの人権委については、イスラム過激派や犯罪者などに悪用され、市民の「言論の自由」が抑圧されるという深刻な事態も報告されている。以下、この種の事例を多数取り上げているブログ「苺畑より」に依拠して報告したい。

 まず紹介したいのは、「マクリーンマガジン」という雑誌が、カナダのイスラム議会(CIC)なる市民団体から、人権委に苦情を申立てられた事件だ。申立の理由は、同誌が掲載したイスラム移民に関する記事に対して、イスラム議会が五頁にも渡る抗議文の掲載を要求したところ、同誌が拒否したことだとされる。イスラム議会の言い分は、マクリーン誌は「明らかにイスラム恐怖症」であり、「カナダのイスラム教徒を憎悪と嫌悪の対象としている」ということらしい。ところが、イスラム議会が抗議した記事というのは、「単に西洋諸国でイスラム教徒が増えているという人口分布に関するものだった」というから呆れる。

 注目すべきは、このような常軌を逸した申立の裏に隠された戦慄すべき事情だ。同ブログによれば、イスラム議会は以前から数々の新聞社を名誉毀損で訴えてきたが、全て敗訴した。カナダの民事では、被害を受けたことを原告側が証明しなければならず、そのため弁護士を雇わなければならない。負ければ勝った側の弁護費用も負担しなければならないため莫大な出費となる。そこでイスラム議会が考え出したのが、人権委への苦情申立てであったという。弁護士を雇う必要はないし、申立が取り上げられれば、後は税金がまかなってくれるので、訴えた側の経費はゼロ。逆に訴えられた側は弁護士を雇って、相手の苦情に根拠がないことを証明しなければならない。

 要は、いわゆるマイノリティが自分たちの気に食わない言論を封じ込めるための「手軽な手段」として人権委員会が利用されているわけだ。同ブログは言う。「人権保護審議会(引用者注 人権委員会のこと)が設立当初審議すべきだとしていた『出版物』とは、『ユダヤ人お断り』とか『白人のみ入場可』といった差別的な看板などであり、マクリーン誌の掲載したような人口分布調査などがあてはまるはずがないことは常識的に考えて明白だ。しかし今やカナダの人権保護審議会(人権委員会)は新聞や雑誌が自由に意見を述べるのを規制する、いわゆる言論弾圧の道具となりはてている」と。

 他方、イギリスは九八年に人権法を制定し、二〇〇六年に「平等・人権委員会」を設置、性別・人種・障害・宗教・性的ライフスタイル・年齢を理由とする差別の是正を担わせたが、これらの制度が悪用され、市民の自由が束縛されているという。

 例えば、ある保守派ブロガーの身に起きた深刻な事態である。このブロガーは、自分の住む町がイスラム系暴力団に乗っ取られていくのを憂い、その実態を記録し、警察に協力して麻薬販売者を逮捕する手伝いをしたりしていたが、その活動をイスラム系暴力団に知られてしまい、命を狙われる事態に陥った。そこで、彼は自分の身に起きた話を多くの人に知らせるべく、「イスラム系暴力団によってどのような犯罪がおかされているか」をブログで暴露し始めた。ところが、これが法に反した「憎しみと暴力を煽る」人種差別行為として告発され、警察当局から追われる身となったというのだ。

 何とも怖い話ではあるが、人権擁護法が成立すれば、われわれも他人事ではすまなくなるのである。

 

◆濫訴される側の人権が侵害される恐れ

 さらに指摘したいのは濫訴の弊害だ。例えば韓国の国家人権委の年間報告書によれば、二〇〇五年に人権委に持ち込まれた事件総数は一万四七〇〇件にのぼる。が、先の金氏はこんな意外な事実を述べている。

 「人権委員会に持ち込まれた事件の具体的処理状況を見ると、虚偽による陳情など国家人権委員会法第三二条が定める条件に該当するため、不受理のまま却下されたものが九〇五二件ともっとも多く、ついで受理され調査の結果、陳情の内容が事実でないか、被害がすでに回復されるなど、同法第三九条に従って棄却されたものが三四五〇件であって、却下と棄却を合わせると一万二五〇二件と、じつに全体の八五パーセント以上に達する」

 陳情全体の八五パーセントが「虚偽」か「事実でない」というのも驚きだが、見逃せないのは「受理された調査の結果、陳情の内容が事実でない」ことが判明した多数のケースである。この「調査」は「当事者または関係人の出席と陳述」や「関連資料の提出を求めるなどの方法」により行われ、「一定の場所もしくは施設の訪問による実地調査を行う権限が含まれる」とされるからだ。いい加減な陳情に基づき、こんな「調査」の対象となった人々こそいい迷惑だ。「調査」が表沙汰にでもなれば、人権委による本当の「人権侵害」が引き起こされることになる。

 以上述べてきたことは、パリ原則に合致したとされる先進諸国の人権救済機関をめぐる問題状況のほんの一部に過ぎず、他にも多くの問題があることは言うまでもない。

 翻って、わが国の人権擁護法案をめぐる議論では、仮に「人権侵害」をもっともらしく定義したとしても、いったん法律ができてしまえば、女性、子供、高齢者、障害者、同性愛者、外国人などの心を傷つけることや、卒業式などで校長が国歌伴奏を音楽教諭に命じることなど、左翼の運動家が「人権侵害」だと糾弾してきたことが「人権侵害」となってしまう恐れが指摘される一方、人権委員会に対して国連NGOや朝鮮総連などが影響力を浸透させ、「言論の自由」が抑圧される危険が指摘されてきた。

 また、人権委員会が被害の救済ばかりか、被害の「予防」のため「必要な調査」を行ったり、関係者の出頭や事情聴取、資料の提出や留め置き、立ち入り検査などの「特別調査」を裁判官の令状なしに行うことができることに対しても、訴えられた側の「人権侵害」が引き起こされることが憂慮されてきた。

 自民党内の議論においても、こうした問題を反対派議員らは繰り返し指摘してきたが、それらが単なる懸念ではなく、現実に起こっていることは本稿で述べてきた通りである。そうであるからには、各国の実態をもっと本格的に調査・検証するとともに、そうした現実をも踏まえた議論を関係者に強く求めたい。(日本政策研究センター研究員 小坂実)

〈『明日への選択』平成20年5月号「人権委員会が引き起こす自由の圧殺、濫訴、そして革命」より〉