これが人権擁護? 勘違いも甚だしい太田発言

これが人権擁護?

勘違いも甚だしい太田発言


 

 太田誠一自民党人権問題等調査会会長が昨日、ダライ・ラマと会見したという記事が産経に出ていた。ところが本日、太田氏はそのことを早速、今朝行われた同調査会の会合で披露し、「いずれの国も人権について透明性を確保する必要があるという認識で意見の一致を見た」ということを語ったというのだ。また聞きであるがゆえに、発言内容には正確さを欠くが、要はダライ・ラマとの共通性を確認したということだろう。

 この話を聞き、筆者は率直にいって驚きあきれた。結局、氏は何もわかってはいないのだと思ったからである。と同時に、氏が現在進めようとしている人権擁護法に対し、更なる危惧の念を抱いた。ダライ・ラマのいう人権擁護と、わが国において議論されている人権擁護を、安易に一緒くたにする発想そのものが、要は人権問題への全くの無理解を象徴していると思えるからだ。

 このことは前にも書いたが、ダライ・ラマのいう人権擁護は人間の生存そのものがかかっているという意味での人権に他ならない。中国の収容所に投獄された人権活動家たちがどんなむごい扱いを受けているか、人間としての最低限の条件を踏みにじられているか、そうしたぎりぎりのところで発せられている人権という言葉であるからだ。中国政府はその人権を平然と踏みにじり、更には民族としての生存そのものをさえ追求不可能なところに追い込み、なおかつそれを指摘する国際社会の声に全くの無視を決め込んでいる。それに対し発せられているのが、この人権という言葉なのだ(→「人権」を叫ばない人権派とは?)。

 その人権という言葉の重み、深刻さがわかるならば、それとわが国の人権擁護法案の人権が同じ「人権の透明性確保の問題」だなどといった妄言が出てくる筈がない。もし、その違いがわからないのなら、せめて当サイトで紹介したアデ・タポンツァンさんの証言だけでも読んでほしい。いかにいい加減に彼らがこの人権という言葉を受け止め、安易に「人権擁護施策」などといったことを論じているかがわかる筈だ(→マスコミが報じないチベットの現実)。

 本日も法務省より人権擁護法が必要な理由として、様々な人権侵犯事例なるものの提示が行われたようだ。子どもが学校でひどい扱いを受けたとか、老人が施設で虐待を受けたとか、そういった事例だ。しかし、それは殊更に人権侵害などと深刻化させるより、むしろ行政や当事者がもっと配慮をもって仕事をしていれば、あるいは当事者にもう少し誠意があれば何とかなった、といったようなレベルのものではないのか。それを殊更に「人権侵害」として「紛争事案化」させることに一体どれだけの利益があるのだろうか。

 むろん、公権力が関わらねばならない人権侵害といったものはあるだろう。しかし、そのために「逆の人権侵害」が起こることほぼ確実な「人権委員会」なる強大な機関がわざわざなぜ必要なのか。正直いって、推進者から説得力ある言葉が出ているようには思えない。それよりも、今はむしろ、人間としての生存そのものが脅かされているチベットやウイグルの人々たちの人権のために、声を発し行動することが先決なのではないか。

 と同時に、ついでに述べておくが、現在稲田朋美議員が「靖国 YASUKUNI」という映画に対して、いかにも検閲まがいの圧力を加えたかの如きねじ曲げた意図的報道が行われている。稲田議員が問題にしたのは文化庁の国民の税金を使った助成が適切に行われているかという問題であり、表現の自由を侵害したわけでも何でもない。しかし、マスコミはあえてそのことに知らないふりをし、表現の自由云々と一方的に批判する。大マスコミにそのようにねじ曲げられれば、政治家としての不利益はこの上ないものがある。果たしてこれを同調査会はどう考えるのか。

 そんなに人権侵害が問題だというのなら、同調査会はまずこの事例をどう考えるべきかの議論から始めたらいいのではないか。そうした場合、人権委員会ならどうするのか、稲田議員の不利益は果たして解消されるのか。それに対してマスコミはどう出るのか。人権委員会は機能するのか。これこそが絶好のケース・スタディではないか。

 率直にいって、そんな感想をもつ。