川崎市・子供の権利条約への「疑問」

川崎市・子供の権利条約への「疑問」

これは新手の「革命戦略」だ


 

 この四月一日から、川崎市が制定した「子どもの権利に関する条例」が施行されるという。これは、全国初の子供の権利に関する「総合的な条例」と言われ、子供観や権利をまとめた前半と、具体的な権利保障のあり方や保障の仕組みを定めた後半から出来ている。昨年末、この条例が成立した際、大方のマスコミは「国連子どもの権利条約を批准した後も動きが鈍い政府を一歩リードする内容」(読売)などと挙って賞賛したものである。

 だが、実際この条例に目を通してみると、そこには例えば「ありのままの自分でいる権利」「自分で決める権利」「参加する権利」…等の項目が並んでおり、さらに子供の市政への参加を促進するための「子ども会議」と称するものまで定めている。

 この条例の前文には、国連の「児童の権利条約」(以下、権利条約)の理念に基づき条例を制定すると謳っている。しかし、この条例の中身を見れば、権利条約とは似て非なるイデオロギーに基づくもの、と言わざるをえない。

 

◆子供は「権利の全面的な主体」!?

 この条例と権利条約の本質的な違いは「子どもは、権利の全面的な主体である」との条例の前文に謳われた子供観に象徴されていると言える。

 たしかに権利条約には、「意見を述べる権利」や「表現の自由についての権利」をはじめ、いわゆる「市民的権利」とも類似したいくつかの権利が規定されてはいる。しかし忘れてならないのは、それらの諸権利には子供にふさわしい制約(例えば年齢と成熟度に応じて相応に考慮される等)が明確に定められていることだ。そして、こうした制約は「児童は身体的及び精神的に未熟であるため…適当な法的保護を含む特別な保護及び世話を必要とする」との権利条約前文に示された子供観に基づくものと言える。このような権利条約の子供観と、子供を「権利の全面的な主体」とみなす子供観は明らかに異質である。

 また、同じく条例前文には「子どもは、大人とともに社会を構成するパートナーである」という歯の浮くような文言があるが、ここにも権利条約とは異質な子供観がうかがえる。パートナーとはあくまでも対等な相手に用いる言葉である。権利条約が前提とする「特別な保護及び世話を必要とする」子供は、決してパートナーとは称しえないはずである。

 いわゆる人権派の中には、権利条約をもって「子どもを独立した権利の享有・行使の主体としてみなし、市民的権利を大人と同様に保障している」と曲解する勢力が存在する。川崎市の条例が前提とする子供観は、正しくこうした人権派のイデオロギーに基づくものと言うべきだろう。

 

◆「ありのままの自分でいる権利」?

 また冒頭に紹介した如く、この条例に盛り込まれた具体的な権利の内容にも、権利条約の理念とはかけ離れた規定が目につく。中でも特に疑問を感ずるのは「ありのままの自分でいる権利」なる奇妙な規定である。これは、条例の第2章に「人間としての大切な子どもの権利」として定められた七つの権利のうちの一つだが、「子どもは、ありのままの自分でいることができる」として、以下のような事柄が保障されるべきだと謳っている。

・個性や他の者との違いが認められ、人格が尊重されること。
・子どもであることをもって不当な取扱いを受けないこと。
・安心できる場所で自分を休ませ、及び余暇を持つこと。

 先に示した権利条約の前文がいうように子供は未熟である。その未熟な子供らが「ありのままの自分でいる権利」を大義名分に、上記のような事柄を親や教師に要求すれば、家庭でも学校でもおよそ教育という営みは成立しないだろう。ある意味で、未熟な「ありのままの自分」を否定し、乗り越えさせるのが教育本来の営みとも言えるからである。

 もちろん権利条約のどこをたたいても、こうした「教育の否定」につながりかねない理念は見いだせない。やはりこの規定にも、権利条約を曲解して、校則等のあらゆる強制を教育現場から排除しようとする人権派のイデオロギーが顔をのぞかせている、と言わざるを得ない。

 先にも触れたが、他にもこの条例には「子どもが市政等について市民として意見を表明する機会」等を市が保障すべきだとして、「子ども会議」の開催を市長に義務づけ、そこでの意見を「尊重する」ことを求めた規定がある。こうなると、この条例の本質は、人権派による子供を使った新手の「革命戦略」とさえ言いたくなる。

 いずれにせよ、こうした権利条約の曲解に基づく「条例」作りは今後各地に広がる傾向があり、要注意である。(日本政策研究センター研究員 小坂実)

〈『明日への選択』平成13年4月号〉