「人権」教育は国家解体運動だ

「人権」教育は国家解体運動だ

「児童の権利条約」の誤った解釈・正しい解釈

児童・生徒に市民的自由?――「児童の権利条約」をかくも曲解してすすめられる「人権教育」。その狙いがどこにあるかは明白だ。ならば、正しい条約解釈を提示しよう。


 

 近ごろ、各地の中学校で刃物による殺傷事件が続発する一方で、小学校では授業が成立しない学級崩壊が広がっている。今や、教育現場の混乱は目をおおうばかりである。

 ところが、当の学校現場では、こうした混乱を助長するような教育実践が熱心に展開されている。わが国が四年前に批准した「児童(子ども)の権利条約」(以下、権利条約)に基づいた「人権」教育がそれである。「人権」教育といえば聞こえはよい。しかしその実態たるや、いたずらに学校や親、果ては社会や国家への子供たちの不満を煽る類が多いのだ。事実、「子どもの権利」をタテに、教育上の習慣や校則への反対運動さえ飛び出す始末なのである。

 例えば最近、宮崎市のある中学校でのこんな「事件」が報じられた。その学校では朝礼や終業式の際、最初と最後に正座をする習慣が続いていた。生徒に礼儀を教えたいとの教育的配慮からである。ところが、これに疑問を感じた生徒らがアンケートで「正座は嫌ですか」と聞いた。その結果、ほぼ四人に三人が「嫌」と答えたことから生徒たちが反対署名を集め、学校側に提出したというのである。生徒らは、「問題は正座の善しあしではない。子どもの権利条約にもあるように、自分たちの意見をきちんと聞いてから決めてほしい」(朝日新聞)と主張していると言う。

 要するに権利条約をタテに、子どもらが快・不快といった単なる生理的感覚に基づいて、「礼儀」を学ぶことを拒絶したのである。だが、果して権利条約とは、こんな生徒の「我儘」を奨励するものなのだろうか。

 確かに、アメリカ主導で作られた市民的自由の条項等、権利条約の内容には疑問もある。しかし、後で検証するように、それらの条項とて、あくまでも「学校の規律」等の教育的配慮を前提としたものに過ぎない。それ故、宮崎市の中学校に見られる混乱は、権利条約自体に基づくものというよりも、権利条約の歪曲された「解釈」と、そうした曲解に基づく教師の「指導」によるものと言うべきなのである。

 今のところ、そうした曲解に基づく教育現場での「実践」はまだ限られてはいる。しかし、人権派マスコミによる熱心な支援も加わって、今後、宮崎市の中学校でおきたような「事件」が全国に拡大してゆく恐れは十分にある。そうした意味で、かかる曲解を正しておくことは、学校のより一層の混乱を防ぐひとつのささやかな手立てとも思われる。

 本稿では、最初にいくつかの学校での権利条約の困った「実践」を紹介した上で、教育現場に浸透している権利条約の曲解を検証していきたい。

 

◆これが「人権」教育の実践例だ

 現在、日教組の教師を中心に、権利条約を子供に教えたり実践させたりする運動が全国で展開されている。日教組が編集した『子どもの権利条約・実践ハンドブック』(計三冊)には、そうした運動事例が報告されている。

 例えば授業で、「なんか、おかしいな」と思ったことを子供に喋らせ、条約への理解を深めたという青森県の小学校の事例――。先生は「宿題を忘れて、廊下に立たされた」との子供の意見を取りあげた。そして、「『勉強する権利』があるのに、廊下に立たされると勉強できない」、「『宿題を忘れた』ことと、『廊下に立たされる』ことは、関係ないことだ」――と指導。「みんなで『おかしい』と言おう!」と結論付ける。だが、これでは「宿題を忘れても良い」と子供たちに言っていることにはならないか。

 一方、学校行事や校則等の見直しに取り組んだ事例もある。岩手県の中学校では生徒の「頭髪自由化」要求から生徒会主導で校則改正運動が始まり、学校長・教職員がそれを容認。その結果、「生徒の権利と義務」を謳った新校則が作られ、さらに「そもそも学校は自分の願いを実現する場所…」等と宣言する「生徒会権利憲章」まで成立した。

 日教組はこの事例を「全国的に見ても先駆的な実践」と評し、「この実践をもとに…自校の『校則』について批判的検討を加え、平和・人権・民主の精神が一貫している『校則』(憲章)を創り出しましょう」と呼びかけている。今後、こうした権利条約の「実践」が全国に広がることが懸念される。

 さらに、中にはこんな非常識な「実践」さえ出てきている。神奈川県のある小学校では、修学旅行での宿泊を「子供の意思」を尊重して男女同室にしたというのである。

 そのレポートには、「個人の意思を尊重しつつ、全体の統一をはかろうとする中で悩みながら、今私達は『子どもの権利条約』と向い合っている」との問題意識が記された後、「修学旅行への取り組み」として、こう記されている。

 「部屋割りは男女一緒か別かで意見が分かれ、話し合いが数回繰り返された。各クラスでの話し合いの結果、4クラス中1クラスが男女別室、3クラスが男女同室となった。…男女同室の子から特に困ったという申し出もなかった」

 これには、「教職員から見て」として、こんなコメントまで付いている。

 「男女同室か別室が良いかは一人ひとりの感じ方も意見もあり、どちらとも言えない。しかしそのときどきの子どもの実態や要望に沿って、教職員が関わり、親の了解を得て、最終的には子ども達の話し合いで決めていく方法がいいのではないか」

 要するに、「個人の意思」や「子ども達の話し合い」に任せるのが「人権」教育というわけだ。だが、やっていることは「放任」もしくは子供への「迎合」だ。「困った」という苦情がなければ良いという話ではないし、仮に苦情があっても教師に打ち明けられない子供もいるかもしれない。今日、権利条約の「実践」として、こんな教育的配慮に欠けた非常識までまかり通り始めているのだから恐ろしい。

 では、こうした権利条約の「実践」によって、子供たちはどのように変わったのだろうか。大阪の小学校教師が保護者に対して行ったアンケートには、「『権利』という言葉を使うようになった」「『権利条約』を読んでる?と言うようになり、主張なのか反抗なのか悩む」「命令的に言うと『子どもにも権利がある』と言う」等々が挙げられている。

 つまり、少なくとも親の目から見れば、子供がわがままになりつつあるわけだ。さすがに保護者からは、次のような疑問の声も寄せられているという。

 「権利とわがままのちがいを勉強する必要がある」「『子どもの権利』があるように、当然『子どもの義務』もあるはずだが、学校ではどのように指導しているのか」等々……。

 

◆生徒が自治する学校?

 このように見てくると、児童の権利条約とは、学校を混乱させるだけの「反教育」的な代物でしかないように思われよう。だが、わが国を初めとする国連に加盟する多くの国が、そんなトンデモない条約を批准してしまったのであろうか。

 しかし、決してそういう話ではない。先にも少し触れたが、問題の本質は権利条約の内容自体にあるというよりも、むしろ、権利条約の「実践」に取り組む教師たちを動機づけている歪曲された「解釈」にこそあるからである。

 実際、書店に並んでいる多くの権利条約の解説書は、各種の市民団体や運動家と思われる人々が書いたものであり、その大部分が条約本来の趣旨を歪曲したイデオロギー文書の類なのである。例えば、主に教師向けに易しく説かれた『今日から子どもの権利条約』という小冊子などはその典型である。これを編集した「子どもの人権保障をすすめる各界連絡協議会」(子どもの人権連)の代表委員には、日教組の中央執行委員長も含まれ、その連絡先は日教組事務所である。つまり、これは日教組推薦の「手引書」ともいえよう。

 この人権連の小冊子を含めて、この種の解説書の中身には、ほぼ共通する特徴が二つあると言える。第一は、校則や内申書の見直しを強調する反管理教育の明確な視点。第二は、国旗・国歌への反発を煽るような反国家の視点である。

 一方、むろん少数ながら、専門家による良識的な解説書も存在する。さしずめ、国連機関の理事でもあり国際法学者である波多野里望氏の『逐条解説・児童の権利条約』はその一つであろう。この書を参考に人権連の冊子の内容を検討するならば、彼らの冊子のイデオロギー文書たる所以が明瞭になるであろう。

 以下、これら二つの資料を主に対照しつつ、権利条約の「実践」に取り組む教師たちが読んでいる「手引書」が、いかに政治的な曲解に満ちたものであるかを検証していきたい。

 まず最初に、人権連の冊子に見られる第一の特徴、すなわち反管理教育の視点のうち、ここでは校則見直しについての彼らの主張を検討してみよう。

 具体的に条約の中身に即して言えば、校則見直しに関する彼らの主張は二つある。第一は、校則の「制定手続き」の見直しであり、第二は校則の「中身」の見直しである。

 まず、第一の「制定手続き」の見直しの根拠とされるのが、権利条約第一二条の意見表明権である。確かに、第一二条にはこう書かれている。

 「締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする」

 この条項に基づいて、人権連の冊子は、「子どもに対して上から一方的に強制するような校則のつくり方は基本的に改めるべき」だとし、「校則などの制定についてはその多くを生徒の自治に委ねるべき」と主張する。

 さらに、この意見表明権を根拠に、校則ばかりか、「カリキュラムの策定、教科書の採択、教材の選択、図書館の本の選定などについても、子どもの意見を反映させるための手続的保障をはかることが望まれます」などと説く解説書さえもある。

 要するに、校則や教育内容を子供に決めさせろというわけである。先の宮崎県の中学校での「正座拒否」なども、意見表明権についてのかかる解釈を根拠とするものと言えよう。常識からいって、これでは教育が成り立たないことは明らかだ。果たして、国際法学者の
波多野氏も、意見表明権についてのかかる解釈は全くの間違いだと、次のように真っ向から批判を加えている。

 氏によれば、この意見表明権とは、あくまで「個々の子どもの個人的な事項」に関する意見の表明権を意味しており、「一般的制度の問題についてまで、子どもが意見を表明する権利を保障するものではない」。つまり、校則について該当する意見表明の権利とは、「特定の生徒が自宅謹慎・停学・退学などの処分を受ける場合のこと」であり、「『校則』そのものの一般的な妥当性ではない」というのである。むろん、カリキュラムの策定や教科書採択といった問題も当然、「個々の児童個人に関する事項とは考えられない」ので意見表明権には該当しない。

 以上によれば、意見表明権を根拠にして、校則を「生徒の自治に委ねるべき」とする主張が、いかに条約の趣旨を逸脱した曲解であるかは明らかであろう。

 

◆「権利条約」は「規律」が前提

 次に、校則の「中身」の見直しに関する人権連の主張の方を検討してみよう。こちらの根拠とされるのは、権利条約の「表現・情報の自由」「集会・結社の自由」「プライバシー権」等である。つまり現在の校則の多くは、子どものこうした「市民的自由」を不当に侵害しているというのである。

 最初に、人権連の冊子からその主張のポイントを紹介しておきたい。

 「条約は、子どもの『表現・情報の自由』(13条)および『集会・結社の自由』(15条)を保障しています。したがって、生徒のビラまき・署名活動・集会参加・団体加入などを、学校は原則として規制できません」

 つまり、彼らの解釈によれば、日教組が推進する国旗・国歌への反対活動だって生徒はできるというわけだ。ちなみに、「もちろん、自主的な活動は高校生のみならず小・中学生にも当然認められています」とあるから、そのうち小学生も政治活動に取り組み出すかもしれない。

 さらに、彼らの主張を見てみよう。

 「髪型についてですが、人間は誰でも自分の髪型を自由に決める権利を持っているといえます。学校で髪型の規制を行うことは、原則的に不当なことといってよいでしょう」

 「子どもの学校外の生活についてまで校則で事細かに規制することは、条約16条のプライバシーの侵害になるといえます。帰宅後の外出における制服着用、外泊の許可制、遠距離旅行の許可制、アルバイト規制などはいずれも問題でしょう」

 これはもう、ほとんど校則撤廃論に近い主張であり、子どもにも大人並みの「市民的自由」を認めよとの要求に他ならない。果たして権利条約は、発達途上の子どもたちに、そうした無制限な自由や権利を与えるものなのだろうか。

 無論、決してそんなことはない。

 まず第一に、波多野氏が「本条約は、校則などの存在を当然の前提としている」と指摘する如く、第二八条では「学校の規律」について謳っている。すなわち、権利条約は決して無制限な「市民的自由」を学校へ持ち込むことを認めるものなどではない。

 第二に、特に「表現・情報の自由」について言えば、「制約を受けて当然」と言える。波多野氏によれば、本条は自由権規約第一九条の規定を採用したものだが、ただし「権利の行使には、特別の義務及び責任を伴う」との文言が削除されたという。これは、「本項の対象が『一八歳未満』の『児童』に限られていることから、『義務および責任』を免除した」ものである。このように子供には大人に要求される「義務と責任」が免除されるが、「それとバランスをとるために、『発達途上の段階』にある『児童』に対しては、『大人』には課せられない特別な制約が課せられる可能性がある」と氏は解説する。つまり、法律によらない校則等による制約は当然ということである。

 そこで氏によれば、髪型などの制約も、また新聞・放送・学園祭の発表内容等への教師による検閲も、ビラまきや署名活動のような政治活動への禁止・制限も、「教育的目的のためにとられた措置」であって、かつ「その規律が社会通念に照らして著しく厳しすぎないかぎり」、本条には違反しないこととなる。

 要するに、権利条約は教育的配慮に基づく「学校の規律」に優先してまで、大人並みの「市民的自由」を子供に認めるものなどではないということである。

 付言すれば、こうした波多野氏の解釈は、「学校においては、その教育目的を達成するために必要な合理的範囲内で児童生徒等に対し、指導や指示を行い、また校則を定めることができる」(文部事務次官通知)との文部省の権利条約に対する理解とも軌を一にするものである。

 

◆反「国旗・国歌」のすすめ

 以上からも明らかなように、権利条約をもって反管理教育の根拠とするのは極めて不当な曲解である。しかし他方、権利条約は反「日の丸・君が代」に象徴される反国家運動の根拠ともみなされているのが実態である。

 その具体的な根拠とされるのは、先にみた「意見表明権」と共に、第一四条「思想・良心・宗教の自由」である。例えば、中・高生用のある解説書には「この条約によれば、学校で日の丸におじぎしなさい、君が代を歌いなさいと強制されても、自分の思想や良心がゆるさない場合はそうしなくてもいいのです」と堂々と説かれている。

 それでは、この点について、人権連の教師向け冊子にはどう説かれているのだろうか――。彼らの主張のポイントは次の二点に要約されよう。

 第一は、意見表明権を根拠とした主張である。子供や生徒会が国旗や国歌の「強制」を拒否する意見表明をした場合、学校側はその意見を考慮し、「入学式や卒業式等のやり方を検討することが求められる」というのである。

 第二は、思想・良心・宗教の自由を根拠とする主張である。すなわち、子供が「天皇主権の象徴であり、侵略のシンボル」等との信条から、国旗への敬礼や国歌斉唱を拒否した場合、子供に敬礼や斉唱を強制することは思想・良心等の自由を侵害することになるというわけである。

 果たして、教師は国旗・国歌への子供の不遜な要求を検討したり、あるいは両者への敬意の拒絶を放任すべきなのであろうか。

 まず、第一の意見表明権による入学式等の検討という主張は、校則問題と同様に、意見表明権が認められる「個人的な事項」でないのは明らかであろう。それ故、日教組の教師が権利条約をタテにとり、中学生らを巻き込んで卒業式で国旗掲揚に反対することなどは許されない。

 それでは、第二の主張の方はどうであろうか。再び、波多野氏の解説によって確認してみよう。先ず氏は、「一般論」として次のように解説する。

 「どこの国の国旗に対してもしかるべき敬意を払うのは、オリンピックの例を引くまでもなく、すでに『国際的慣行』になっていると言えよう。したがって、『国旗(もちろん自国のものを含む)に対しては敬意を払うものだ』ということを学校で教え、かつ、機会を見て子どもにも実践させることは、おそらくどこの国でもおこなっているところであろうし、本条に対する違反となるおそれはない」

 つまり、少なくとも国旗への敬意を教師が「教え」たり「実践させる」ことには何の問題もない。

 しかし、それだけではない。さらに氏は、国旗への敬礼強制に反対する日本人たちが決まって援用する米最高裁判決――国旗礼拝を拒否した生徒を退学処分とした州の措置に違憲判断を下した判決――にも言及しつつ、次のように述べている。

  「右の判決も、愛国心教育の必要性は十分に認めており、国旗に敬意を払う教育を生徒におこなうよう強制する権限が(州)政府にあると判示していることも、見逃されてはならない」

 従って、「入学式や卒業式などにおいて国旗を掲揚すること、その際、国旗に敬意を払うために起立すべきことを学校側が指導する(学習指導要領)のは当然であり、『起立しない子ども』に対しては、さらに個別的に説得を試みることも差しつかえない」というのである。すなわち、教師は国旗・国歌への礼儀を教えるべきであり、それについて教師は「個別的な説得」を含め、かなり踏み込んだ指導ができるというのである。

 その上、権利条約の第二九条には「教育の目的」として、「児童の居住国及び出身国の国民的価値観並びに自己の文明と異なる文明に対する尊重を育成する」とある。波多野氏は、「国旗掲揚・国歌斉唱の指導」は、この教育の目的にあたるとも指摘する。

 つまり人権連の主張とは裏腹に、国際的慣行や条約全体の趣旨を踏まえるならば、国旗・国歌に関する正しい教育は、認められるどころか、教師の責務でもあるということなのである。

 

◆子どもは「市民」か

 これまで検証してきた如く、わが国では――とりわけ教育現場において、権利条約に関するきわめて歪んだ解釈が流布され、非常識な実践さえ行われ出している。しかし、こうした解釈や実践は、権利条約本来の趣旨を甚だしく逸脱したものであることは、これまで確認してきた通りである。

 それでは、何故こうした逸脱した解釈や実践が流布されるに至ったのであろうか。実は、そうした背景には、アメリカの影響がある。すなわち、「子供の自律」を唱えるアメリカの「圧倒的なイニシアティブ」(森田明・東洋大学教授)の結果、権利条約には「児童解放主義」的な条項も定式化されたからである。わが国で流布している曲解は、条約のかかる「児童解放主義」的な側面をさらに極端に解釈したものと言える。しかし、この点に関しては、次の二つの事実を認識しておくべきである。

 まず第一に、アメリカが「子供の自律」を唱え始めた社会的背景についてである。実は、森田氏が指摘するように、かかるアメリカの主張は、アメリカ社会における離婚の増加や児童虐待に象徴される「家族の崩壊」――すなわち父母による「保護の没落」なる悲劇を背景に生まれたものなのである。つまり「子供の自律」の要求は、親の子に対する責任放棄という現実と裏腹であり、それ自体、決して手放しで歓迎すべき筋合のものなどではないということである。

 第二に、それ故に、権利条約のこうした「児童解放主義」的な側面に対しては、西欧の伝統的な「保護主義」の立場から留保が付された事実である。例えば西ドイツ政府は、権利条約の批准に際して次の覚書を付している。

  「本条約が『子どもの権利』を語る場合、条約は、子どもがこの『権利』を自らの自律的な意志でいつでも行使できるとか、代理人を通して裁判所で主張できるとか言っているのではない。…ここでは、子の福祉のための保護的措置に対する子どもの関係が、概括的に『権利』という表現であらわされているにすぎない」

 つまり、権利条約にいう「子どもの権利」とは、あくまでも「保護を受ける法的地位」を指すというのである。かくして西ドイツ政府は、「オートノミーによる保護の解体」(森田)を水際で押し止めようとしたわけである。

 それでは、一方、わが国政府の権利条約の受けとめ方はどうであろうか。例えば先にも紹介した文部省通達には、校則について「学校の責任と判断」で決定すべきとあり、また「児童生徒等に権利及び義務をともに正しく理解させる」ともある。すなわち、わが国も、権利条約の扱いに関して、慎重な教育的配慮を求めているわけである。

 以上のような重大な事実を無視して、わが国の教育現場やマスコミからは、「子供も一人前」とか「子供も権利主体」といった歯の浮くような言葉ばかりが聞こえてくる。だが、権利条約が決してそうした「子ども賛歌」の教本などではないことは、これまでの検討からも明らかだと思われる。

 

 現在、権利条約の曲解に基づく種々の実践によって、学校の混乱が拡大しつつある。そうした混乱を防ぐためにも、今日、権利条約に関する正しい理解の国民的な普及が求められていると言える。しかし、権利条約のもたらす害悪は、決して学校の混乱というレベルに留まる性格のものではない。

 その点について、森田氏(前出)は、フランスの哲学者フィンケルクラウの次のような警告を紹介している。

  「子供をおとなと同等扱いしたり。彼の選択を無批判に認めたりすることは、彼を尊重したり守ったりすることにはならない。かえって子供を扇動して利用しようとする人々のえじきにしてしまう」
  「子どもが市民になるために彼を準備しなければならない」と言ったのは、コンドルセとカントだが、逆に「ちがう!、子供は市民だ!」と言ったのは、ヒトラー、ポルポト…スターリンだったではないか、とフィンケルクラウは言うのである、と。

 今日、学校という教育現場で、われわれ国民の知らないうちに、「子どもの権利」に依拠した新たな国家解体運動が着々と進められていると思うのは、果たして単なる杞憂であろうか。(日本政策研究センター研究員 小坂実)

〈『明日への選択』平成10年4月号〉