教育再生は先ず文科省の改革から

 安倍首相の諮問機関「教育再生会議」が本格的に始動し始めているようだ。産経新聞の9日付け報道によれば、8日に行われた分科会の合同会合では今問題になっているいじめの問題も、高校必修科目の未履修問題も、要は教育委員会の現在のあり方に原因の一つがあるとの指摘が大勢を占め、今後この教育委員会のあり方を検討課題の中心におくことが確認されたという。

 さて、こうした認識にはわれわれも全く異論はないが、しかしあえて国家的な視点に立った根本的な議論をするというのなら、まず文科省のあり方から議論を始めるのが筋ではないか、とあえて問題提起をしておきたい。今日の教育の諸々の問題を生み出した元凶はまず何といっても文科省と日教組のなれ合いの関係であり、その延長線の上に先の教育委員会の問題もある、というのがわれわれの認識であるからだ。

 それでは、そうした文科省・日教組なれ合いの関係をいかにして壊すか。そこでまず前提的に求められるのは、徹底的な「実態調査」とその結果の「公表」であろう。文科省はこれまで何をしてきたのか、どうしてゆとり教育のようなとんでもないものを基本路線にしてしまったのか、あるいは文科省の教育現場への関与を「不当な支配」などといい、好き勝手な反国家教育を実践してきた不法団体・日教組のあり方を本気で何とかしようとしてきたのか、そうした実態に是非切り込む必要があるということだ。

 現在、国会議員会館の前には、連日「教育基本法改悪反対」を叫ぶ日教組の教師たちが数百名規模で座り込みなどをしている。しかし、この異様な光景を見た国民誰もが思うのは、この教師たちが担任する肝心な子供たちは今どうしているのだろうか、という疑問である。マスコミでは連日「教育の非常事態」が論じられているというのに、その肝心な当事者である先生たちは学校を休んで政治闘争に狂奔中だからである。それを問題として取り上げないマスコミもどうかしているが、われわれがここでいいたいのはやはり文科省である。文科省はこうした現実をただ黙認しているだけなのか、といいたいからだ。

 その意味で、われわれはまず文科省のこうした「甘さ」「不作為」「日教組とのなれ合い体質」を問題視するところから検討を始めてもらいたいと願うわけだ。教育基本法改正の論議では教育の理念が論じられているが、しかしその理念を実現する立場にある文科省が、無力というよりむしろ無気力・ことなかれの状況にあるという現実が大問題であるからだ。いかに立派な理念が法文上掲げられても、文科省にそれを断固実現していくという気迫がないならば、結局は結果は空しいという他なかろう。

 そこで以下は具体的な提言なのだが、教育再生会議には是非、教育行政全般にわたる第三者の「評価機関」を作ることを考えてほしいということである。文科省、教育委員会、学校の現状を厳しくチェックして病根をえぐり出していく機関である。この再生会議そのものもそうした意味合いの機関だとは思うが、常設ではない。とすれば、常設であり、実働部隊ももったチェック機関が必要なのだ。

 むろん、そうした機能は本来、立法府が担うべきものである。しかし、彼らにそんな力がないことは改めて議論するまでもないことであり、ここは官邸の下にそうした独立機関を設ける他ない、ということなのである。

 「調査なくして発言なし」という言葉があるが、本格的な教育改革には徹底した調査がまず必要であろう。しかし、国旗・国歌の問題でも、過激な性教育の問題でも露呈されたことだが、現在の文科省にも教育委員会にもこの現場調査の力はない。現場に踏み込んでいってまで実態を徹底的に調べる、ということができないからだ。また、校長に報告させるといっても、その校長に真実を明らかにし、それを報告する力はないこともいうまでもない。というより、むしろ文科省も教育委員会もこうした現状を問題なしとし、あえて目をつぶり、束の間の「職場の平穏」の上にあぐらをかいてきた、というのが実態であろう。

 それゆえに、こうした「改革不能症候群」ともいうべき病巣に果たしてメスを入れられるのか、というのがこの会議に問われる最大の問題なのである。会合の席上、ある委員からこれまでこの種の審議会には何度も参加してきたが、いつもそれは官僚たちに骨抜きにされ、あるいは実行を文科省や中教審に「丸投げ」されて、問題自体うやむやにされてきた。これと同じことをこれからも続けるというのなら、私は委員を辞めさせてもらいたい、との発言があったという。ということは、こうした現実、あるいは構造そのものが最大の教育改革の課題でもあるということなのだ。

 まず文科省にメスを! われわれとしてはまずこう訴えたい。