過った「人権論議」を正す【衆議院憲法調査会における意見陳述】

過った「人権論議」を正す

歴史や国家抜きの「人権」は成立しない

平成14年(2002)5月23日、衆議院憲法調査会基本的人権の保障に関する調査小委員会における意見陳述


 

島小委員長 これより会議を開きます。

 基本的人権の保障に関する件について調査を進めます。

 本日、参考人として日本政策研究センター所長伊藤哲夫君に御出席をいただいております。

 この際、参考人の方に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用中にもかかわりませず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。憲法調査会基本的人権の保障に関する小委員会として、これで四回目の小委員会を開かせていただきます。きょうは、基本的人権の保障につきまして、参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただきまして、調査の参考にいたしたいと存じますので、よろしくお願い申し上げます。

 次に、議事の順序につきまして申し上げます。

 最初に参考人の方から御意見を四十分以内でお述べいただき、その後、小委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。

 なお、発言する際はその都度小委員長の許可を得ることとなっております。また、参考人は小委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。

 御発言は着席のままでお願いいたします。

 それでは、伊藤参考人、お願いいたします。

 

伊藤参考人 ただいま御紹介いただきました伊藤でございます。よろしくお願いします。

 今まで三人の憲法の先生の方からお話があったそうでございますが、私は憲法を専門に研究している学者ではございませんが、むしろ、そういう学者的な立場からではなくて、一般国民として、そういう学者の先生方が解釈しておられる学説も含めて、私、日ごろ素朴な疑問を感じている部分がございます。そういう疑問についてきょうはお話をさせていただきたいというふうに思って、参りました。

 まず、基本的人権という言葉からでございます。

 基本的人権は、御存じのように、憲法十一条それから憲法九十七条に出てくる言葉でございます。基本的人権ということを盛んに言いますので、憲法の至るところに出てくるかのようにちょっと誤解してしまうわけでありますが、出てくるのはこの十一条、九十七条ということになります。

 それでは、この基本的人権という言葉をどう解釈するのかということで、ここで通説的な解釈ということで、これは皆様方も御存じかと思いますが、とりわけ宮沢俊義先生などがおっしゃられた、人間性から論理必然的に生ずる権利であって、換言すれば、人が人たることに基づいて当然に有する権利である、まあ前国家的な自然権というものであると。と同時に、九十七条を踏まえまして、それはアメリカ、フランス両革命が掲げた政治原理に由来するものである、そういう解釈がなされております。

 とりわけ、その淵源とされるアメリカ、フランス両革命ということで引用されるのが、以下三つ挙げましたが、バージニアの権利章典、それからアメリカ独立宣言、フランス人権宣言でございます。

 中でも、バージニア権利章典に関しては、「すべて人は、生来ひとしく自由かつ独立しており、一定の生来の権利を有するものである。」こういう一節。それから、アメリカ独立宣言の「すべての人間は平等に造られ、おのおの造物主によって、他人に譲りわたすことのできない一定の権利を与えられている。」これはちょっと引用するものによって違うんですが、この「一定の権利」を「天賦の権利」と訳しているものもございます。三番目、フランス人権宣言、「人は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する。」という、これが代表的な自然権というものを表明する言葉であろうかというふうに思います。

 これが原型とすれば、現代においてこういう考え方をとりわけ明確にあらわす憲法の例として、ドイツ連邦共和国の基本法が言われるわけでございます。

 これは第一条でございますが、「人間の尊厳は不可侵である。」、そして二項で、ドイツ国民は「侵すことのできない、かつ譲り渡すことのできない人権を、世界のあらゆる人間社会、平和および正義の基礎として認める。」こういう条文があるわけでございます。自然権あるいは人が人たることに基づいて当然に有する権利というのはこういうものであるということがまず前提となります。

 そこで、私の疑問と申しますか、考え方をこれから少し開陳させていただきたいと思います。

 この資料に黒ひし形でちょっと付加する部分をつけておきました。この自然権というものを考えるときに、実は前提があったのではないだろうかということを私は指摘したいわけでございます。

 端的に言いますと、フランス革命はちょっと色合いを異にしますが、ここに紹介したものは、キリスト教的な神という観念を前提とした発想であるということで、自然権の条文の根底にあるのはとりわけロックの自然権論だというふうに言われますが、ロックが説いたのは、神のしもべとして創造された人間が自然状態において持つ権利というところから出発して、社会契約説を唱えたわけでございます。そのロックの自然権論の中にも明白にありますように、神のしもべとして創造された人間という大前提があるわけでございます。当然、それを受けて、さきに紹介しました三つのものもそういう内容を持っている。

 バージニアの権利章典、これは一つ一つやるにはちょっと時間がございませんので、読んでいただけばよろしゅうございますが、とりわけ下の方、「お互いに、他に対してはキリスト教的忍耐、愛情および慈悲をはたすことは、全ての人の義務である」と、神に与えられた権利であるがゆえにそういう義務もあるんだということをうたっておるわけであります。

 それから、アメリカ独立宣言は、「おのおの造物主によって」ということで、これは神ということだと思いますが、神に与えられた権利なのだと。当然、独立宣言の中には、ほかにも、神及び神の法のもとにという一番冒頭の言葉が来ますし、それから一番最後に、「聖なる摂理の保護に信頼しつつ」という言葉がございまして、この「聖なる摂理」というのも、これは当然神のことでございます。神に対してある意味での義務を負うという観念が背景にあるわけでございます。

 では、フランス人権宣言はと申しますと、これはキリスト教の神と必ずしも言えない。フランス人権宣言の成立過程にはいろいろ議論があった。キリスト教関係者がキリスト教の神ということを言うべきだ、そういうことも言われましたが、結果的にどうなったかというと、「国民議会は、至高の存在の面前でかつその庇護の下に、」ということで、まあ神という言葉は使いませんが、人間を超えたそういう高いものの前で責任を自覚しつつ権利を確認する、こういう書き方になっております。

 一方、ドイツの場合は、ドイツ憲法の前文には、「ドイツ国民は、神と人間に対する責任を自覚し」云々と、憲法全体を貫く精神として神ということを明確に言っております。神に対する責任ということを言っておるわけでございます。そういう責任というものを前提にしての、いわゆる権利という発想であった。

 フランス人権宣言の場合は、その神という観念はあえて打ち出さなかった。そうすると、フランス人権宣言で説かれている人とは何ぞやというと、これは神のしもべというわけにはいかない。しからば何だということになると、いろいろ議論があるわけでありますが、フランス革命のいろいろな文献の中には新しい人間という言い方がされています。要するに、私利私欲を持たない共和国的な人間という言い方です。それで初めて人権というものは成り立つんだ、そういう前提を置いて議論しておったということでございます。

 さて、そこで、冒頭の、人が人たることによって当然に生ずる権利ということに戻るわけでございますが、我が国の場合、抽象的個人というものが前提になっておって、その抽象的個人の背景に一体何があるのかということに関する議論がほとんどなされておらないわけです。人間は人間なんだよ、そういう議論もあろうかと思いますが、私はちょっとそこに疑問あるいは不満を感ずるわけでございます。

 というのは、人間が人間であるがゆえに自由を有するんだ、権利を有するんだ、その権利には基本的に拘束があってはならないんだ、こういうことになりますと、しかし、その人間というものは、実は悪を犯すこともある人間なんですね。あるいはホッブズ的な言い方をすれば、人間の本性はどん欲ということですね。だから、その人間がその人間のままでおるならば、万人の万人に対する闘争という形になるんだ、こういう議論を彼は展開したわけでありますが、私は、このホッブズの指摘というものは忘れてはならない。

 いわゆるロック的な神のしもべとしての人間ということで出発するならば、そういうことはある意味で信仰の世界で解決がつくのかもしれませんが、何の前提もない人間ということを前提にする場合、その人間というものは悪を犯すこともあるんだ、あるいはどん欲という性質も持っておるんだということでございます。

 ということは、言いかえますと、その人間の定義からは自己制約の論理が出てこないということでございます。それではいかぬということで、憲法学者の中には、いや、ここで前提とされている人間は、単なる人間ではなくて、理性的人間のことだとか、あるいは人格を持った人格的存在のことなんだ、こういう修正派が出てきておるわけでございます。

 しかし、その理性とは何ぞや、人格とは何ぞやということを問いますと、必ずしも厳密に答えられているようには思えません。というのは、人間というものは、人格を持つということは、その背後にある歴史、文化、伝統の中で人格というものは形成される。

 昔、オオカミ少女という話がございました。生まれた直後にオオカミに育てられた少女は、言葉も持たなければ、そういう人間の文化に触れることもなかった。発見されて人間社会に戻ってきたけれども、ついに人間になることはできなかった、そういう話がございますけれども、人間が物を考え、そして人格を形成していくということは、まずやはり言葉というものが前提となります。

 そして、その言葉の中に込められたいろいろな文化の伝承、そういうものの中で人格が形成されていくというふうに考えますと、そういうものを全く議論しないでいきなり人格を出してくるのは、これはちょっと乱暴な議論じゃないかという感じがしてなりません。そういうことが我が基本的人権論ではほとんど議論されていないということに関する不満を私は覚えるわけでございます。

 前提とされる人間観というものは非常に重要でございまして、ただ人であるということでいいんだ、こういう、ただ人であることというその人のことを、マイケル・サンデルという学者は、負荷なき個人という言い方をあえてしまして、ここには、歴史による負荷もなければ文化による負荷もない、何にもない個人である、それは果たして権利の主体たり得るんだろうか、そういう疑問を出しております。

 出発点としての人間観というところで、私はちょっとそういう疑問を呈させていただきたい。

 続きまして、それでは一方、そういう自然権論的な把握に対して私は疑問を呈したわけでございますが、しからば、それは私が一方的に言っている独善的な疑問なのかといいますと、必ずしもそうではないようでございまして、西洋の法思想あるいは政治思想というものをひもといてみますと、大きく分けて二つ潮流がある。

 今紹介したのはロック流の自然権論でございますが、実はそれだけが正統であるわけではございませんでして、例えば英国における保守主義、エドマンド・バーク、その源流をたどればコークという法律家がおりましたが、コークというような人からバーク、そして流れてくる保守主義の考え方、それから、スコットランド啓蒙と言われるヒュームとかアダム・スミスという人たち、それから、これは大陸系という言葉にはちょっと矛盾してきますが、モンテスキューです。

 モンテスキューの「法の精神」というのは、これはまず最初に人間というものを出してきて、そこから演繹的に議論していくんではなくて、彼は各国のそれぞれの多様な歴史を学び、研究し、その中にそれぞれ固有の法の精神があるんだと。その法の精神の中から築き上げられた権利という考え方、そういうものを明らかにしていったということで、方法論からいえば非常に歴史論的な方法論でございます。

 そういう考え方からいきますと、権利というものはどういうふうにとらえるかというと、全く定義のない、人間とか、あるいは神のしもべなどという個人をまず前提とさせるのではなくて、人間というものを、まず普通の人間、それも基本的にはいわゆる国民である。それぞれの国に属する、あえて国と言わなければ、政治共同体に属する国民が歴史の経験の中で練り上げてきた観念、とりわけ、その中で人間というものにこれは必要な聖域なんだというような形で形成されてきた権利観念、これがロック流の自然権論に対抗する権利のとらえ方でございます。私は、こういう考え方にむしろ重要性を感じます。

 英国における英国人の古来の自由と権利という考え方はまさにそうでございまして、マグナカルタから始まりまして、権利の請願、権利章典という流れで今日まで伝わってきているイギリス的な権利観。初めは、マグナカルタの時代は、これは当然封建的貴族の権利であった、あるいは特権と言ってもいいかもしれません。ところが、それが歴史の経験の中でだんだん広がっていって、そして権利の章典。名誉革命の時代になりますと、庶民にもすべて及ぶ権利という形で考えられるようになっていった。

 それは、先ほどから繰り返し言いますように、歴史的に形成されてきた権利なんだということで、ですから、その権利も、合理論によってつくり上げてきた権利ではなくて、いわゆる経験主義的に、歴史のテストを経て伝えられてきた、何度も修正を加えられながら伝えられてきたそういう権利観という考え方でございます。

 さて、三番目でございますが、では、アメリカはどうなのか。

 先ほど独立宣言で、あれは自然権だという言い方をしましたが、実は、その文言だけを見るとそのようにも読めるんでありますが、最近、アメリカの独立革命史はいろいろ研究を積み重ねてきまして、最近台頭してきた研究成果によりますと、いわゆる独立革命におけるジェファーソンの思想は必ずしもロック流の自然権だけではなかったんだと。ロック流の自然権というよりも、むしろ英国人の古来の自由と権利という考え方が前提にあって、それがもとになって展開されていったんだと。

 ちょっと細かい話はここでは省かせていただきますが、もしあれでしたら後で御質問の中でもう少し詳しく説明させていただきます。

 もっと言いますと、アメリカ独立革命というのは、実は新しく自然権を打ち立てたんじゃなくて、初めは、我々はイギリス国民なんだと。そのイギリス国民の伝統的な権利が植民地においては踏みにじられていると。それに対するプロテストとして、いわゆる独立というところまで流れていった。独立ということになると、イギリスから分離するわけですから、これはイギリス国民の権利というわけにはいかない。そこで、じゃ、どのように論拠づければいいかということで、自然権的な言い方をせざるを得なかったということであって、その思想の根底にあるのは伝統的な権利という考え方であったということでございます。

 さらに、その後十年たちますと、アメリカ合衆国憲法の制定というところに行くわけでございますが、ここではそういう考え方はとりわけ明確でございまして、米国憲法を読んでいただければわかりますように、そこには自然権だとか社会契約という考え方は一切ございません。むしろ、イギリス憲法的な実定的権利観というものがそこでは表明されていると言ってよろしいかと思います。

 そういう、権利のとらえ方には二つあるということをここでは強調しておきたいと思います。

 そこで、日本国憲法は自然権ということになって、これがある意味では常識になっているけれども、本当にそうなんだろうかということについて、ここで簡単に疑問を提起しておきたいと思います。

 条文を読みますと、まず憲法第三章の表題が「国民の権利及び義務」ということになっておりまして、基本的人権及び義務とか人の権利及び義務という言い方はしておりません。あくまでも「国民の権利及び義務」というふうになっております。すなわち、第三章は、まず、国家以前の人を前提とした権利ではないんだ、国民を前提とした権利なんだという言葉になっております。いや、これはちょっと間違ったんだというわけにはいかないと私は思います。

 それから、十二条、十三条、これは、今の学者の先生方の解釈というものを一切抜きにして、虚心坦懐に読んでいただきたいと思うんです。第十二条は、「この憲法が国民に保障する自由及び権利」。まず「この憲法が国民に保障する自由及び権利」という言い方をしています。ということは、やはりこれは憲法上の権利なんだ、憲法が認めたから発生する権利なんだという言い方で、憲法以前にまず権利があるんだという考え方を果たして認めたんだろうかという見方が一つできます。

 それよりも、私はさらに言いたいのは、「国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」国家以前の段階にまず個人というものがあって、その個人には人権というものがあるんだ、権利というものがあるんだ、その権利というものはある意味では拘束されない権利なんだ、こういう考え方からいくと、「国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」と余計なことを言っているということになりますし、「公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」というのは、これは自然権なんですか、自然権だったらこんなごちゃごちゃ言わなくてもいいじゃないですかということになる。自然権を与えてくれたにしては、この憲法はちょっとけちでございませんかと、あえて私は皮肉も言いたくなるような書き方ではないか。

 そこで、憲法学者はどうするかというと、これは単なる訓示的規定であって法律的には余り意味がないんだ、こういう解釈をして、この条文にこだわらないわけです。でも、そうやってすっ飛ばしていいんでしょうか、憲法に書いてあるんですよということでございます。自然権であるならば、この条文はちょっと納得できない条文ではないかと、私は素人であるがゆえに、そういう素朴な疑問を提起したいと思います。

 それから、第十三条、これはまたとりわけ自然権論者が強調する条文でもあるわけでありますが、しかし、その後段、「公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と書いてある。これが自然権であったら、「公共の福祉に反しない限り、」なんという言葉は、少なくとも純粋な自然権論でいけば、余計なことということになろうかと思います。それから、「立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」これも余計なことで、尊重するのは当たり前であって、「最大の尊重」どころか、絶対の尊重を必要とすると書くべきだと私は思うんです。それが、公共の福祉に反しない限り最大の尊重ということでとどまっているのは一体何か。これは、実は自然権ではないんではないのか。

 あるいは、もっと極端なことを言いますと、ここで言われている「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」、これはアメリカ独立宣言から来ていますから、これは基本的人権、人権のことだという言い方をするわけでありますけれども、しかし、そういう前提を抜きにして虚心坦懐に読みますと、「公共の福祉」だの「国政の上で、最大の尊重」だの、そういう言い方をされていると、これも憲法上初めて誕生した権利、そういう解釈も成り立つんではないか。暴論かもしれませんが、私はあえてそういう関心を持つ。

 それから、時間がないので早く行かなくちゃいけないんですが、配列を見ますと、自然権であるならば、当然自由権というものが重要性を持つはずなんですね。ところが、この第三章の配列を見ますと、十五条は、公務員の選定の権利、参政権ですね。それから、十七条は、国家賠償請求権。これは、国家がなければ存在しない権利でございまして、少なくとも自然権という定義を純粋に追求するならば、こんなところに冒頭から出てきたんではちょっと論理的でないんではないかということになります。それから、二十五条以下と言った方がいいんでしょうか、社会権というものが重要だという言い方をされますが、これもあくまでも国家を前提とする議論ということになります。それは自然権なんですかということになるわけでございます。

 こういう第三章全体の配列、それから個々の条文の書き方を見ますと、これは自然権だということで権威ある学者がまず最初に言ってしまったものですから、この憲法に書かれているのは自然権だということになって、それに対して異説を唱えたら、おまえは何も知らないんだという話になってしまうけれども、私は憲法学者ではございませんので、あえて異論を唱えさせていただくと、ちょっとおかしいんじゃありませんかということを言いたい。本当にこれは自然権なんでしょうかということなんでございます。

 そこで、そういう立場に立って、じゃ、おまえは日本国憲法の権利をどのように位置づけるべきか、あるいはさらに、日本国憲法を変えてその権利というものを位置づけるとすればどうあるべきか、そういうことについて私のささやかな考え方を示したいと思います。

 私は、今まで言ってきましたが、自然権論というものからの脱却を主張したい。そして、権利というものを、そういう、神を前提としなければ成り立たないとか、あるいは全くそういう議論を抜きにして、いきなり人は人としてそれだけで尊重されるべきものなんだという議論で来るのか。これは、私、ある意味での形而上学だと思うんです。

 そうじゃなくて、もっと当たり前の人間観から、間違うこともあり得る、あるいはある意味でいろいろな欲望を持っている、時にはどん欲にも走る、そういう人間をそのまま認めて、しかし、もちろんその人間はあしきことだけではない、その中に理性もあれば崇高なものへの願いもある、そういう人間が、歴史の営為の中で、とりわけ共同体に生まれた人間として、その共同体から負荷された様々な価値観あるいは人間観、あるいは人間として守るべきいろいろな道徳、そういうものを念頭に入れて、共同のその交わりの中で、これだけは守らなければいけませんね、これだけは踏みにじってはいけませんねという形で形成されてき、そしてそれを最終的に憲法で確認し保障することになった権利こそが、これを権利と言うべきものではないのかということでございます。

 あえてそのように権利というものを歴史論的、共同体論的にとらえ、共同体論的にとらえるということは、ですから、人間はただ何にもないところに個人としてぽっと存在するわけじゃない、個人としては存在できないんですね。その人間が、例えば人格というものを持つに当たっても、その民族の言葉というものが必要であります。その言葉の中で伝承されてきたいろいろな価値観というものがあって、その中で人格が築かれるわけでございます。

 ですから、そういうものを丸ごととらえて、そして、もちろん、それが全部が正しいというわけじゃございません。その中でいろいろ試練を経ながら洗練されて今日に至ったのが権利なんだ。しかし、その奧には、その歴史、共同体独特の法の精神が存在する。その法の精神を単に否定の対象としてとらえないで、肯定的にとらえようじゃないか、そういう意味も込めて、私は、権利のとらえ方を主張したい。

 と同時に、権利というものはそれだけでは存在しないわけで、それを意味あるものとするためには、それを支える法と制度というものが非常に重要でございます。

 フランス革命は、人権宣言では非常に立派なことを言いましたけれども、それを実定化していくための法と制度というものにおいて大変な間違いを犯した。その結果、あのフランス革命は大変な災厄を招いたわけでございまして、フランス革命二百年のときも、フランス国内では、必ずしも心の底からフランス革命を祝うことはできない、そういう議論があったわけでございます。それは何かというと、人権観というものももちろん問題であったんでしょうけれども、しかし、何よりも、それを支える法と制度の議論があまりにも大ざっぱ過ぎた。

 一方、ハンナ・アーレントなんかがとりわけ強調することですが、アメリカ憲法は自由の確立に成功したという言い方がされます。それは、なぜそれができたかというと、そのための法と制度において、アメリカ憲法は卓抜な工夫を行ったんだ、そういうことを言うわけでございます。

 そういう意味で、私は、余り理念的な、自然権だというような、そういう形而上学を振り回すのではなくて、もっと権利というものを経験主義的にとらえ、なおかつ、それを支える法と制度というものはどうあるべきかという議論を現実主義的に展開していくことが、権利のためにも必要ではないのかということを主張したいわけでございます。

 さて、ここで二番目になります。

 そこで、権利の限界ということになります。冒頭の議論とも関連しますが、権利というものの本質からくる限界があるんじゃないか。当然、いわゆる原初的な自然権論には、神という存在からくる制約というものは当然意識されておった。それが、例えばバージニア権利の章典の冒頭に紹介した条文でもあるわけであります。キリスト教的な道徳を忘れてはならぬということであります。もちろん、それとともに、人間というのは一人で存在するわけじゃない、ともに生きているわけでございますから、そこからくる制約もございます。そういう、法で縛る以前に、権利というものの内在的な制約というのもあるんじゃないか。

 その制約はどこからくるかという議論の中で、ロバート・ベラーというアメリカの学者が心の習慣ということを言っている。これはトクビルから得た言葉なんでありますが、アメリカの権利、あるいは自由が今日まで確立して存在してきた背景には、やはり聖書的伝統と共和主義の精神というものがあったんだ、これを抜きにしたら、権利は自己崩壊を遂げていたであろう、民主主義は自己崩壊を遂げていたであろう、こういうことでございます。

 これは、さらに、トーマス・ジェファーソンの認識でもございまして、彼は、共和国を生き生きと保つものは人民の態度と習俗であるという有名な言葉を残しておりまして、権利という言葉を強調するだけではだめなんだ、大切なのは、ある意味でアメリカ国民という以前のイギリス国民として、その中で培われてきた人民の態度と習俗というものを尊重し、それを大切にしていこう。それを守らないと、それは民主主義の中に食い込む国家的潰瘍になる、がんとして国家を滅ぼすことになる、そういう言い方をトーマス・ジェファーソンは言っておるわけでございます。

 そういう権利の自己制約ということの延長の中で、公共の福祉という憲法の言葉がございますが、これでいいのかということになります。もう時間がございませんので簡単に流させてもらいますが、今、公共の福祉を解釈するに当たっては、これは人権相互の調整原理なんだということで、できるだけこの意味を軽く解釈しようとする考え方がございます。

 しかし、これは、否定される方からは何ということを言うんだと言われるかもしれませんが、やはり権利というものは、先ほど言いましたように、国家あって存在する、その国家が崩壊すれば、例えば北朝鮮のあの瀋陽の事件ございましたけれども、あの方々には権利はないわけですね、その国家をまず維持しなくてはならない。

 それから、社会には公共の利益というものがあるんだ。その公共の利益は、実は、道徳、公序良俗という言葉がございますけれども、道徳によって成り立っている。

 これを肥大化させて、これを実体化させて、もうこれで制限するんだ、そういう乱暴な議論をしろと私は言っているんじゃありません。しかし、やはりそういうものの議論を避けては通れないんではなかろうか。

 外国の例との比較をここで入れておきました。

 国家の安全ということは、外国の立法例にはたくさん入っております。あるいは、公共の道徳とかそういう言葉もございます。一方、アメリカ合衆国憲法では、権利の制限という形では入っておりませんが、「正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、」それと両立する限りで、「われらの子孫に自由のもたらす恵沢を確保する」ということになっておるわけです。

 こういう国家論というものは、私は大切ではないか。そうなると、やはり、今唱えられている公共の福祉論は、果たしてこのままでいいのかなという疑問を私は持っておるということでございます。

 それから、権利に対する義務ということでございます。

 私は、言っておきますが、何も義務をずらずら並べろなどというそんな考え方を持っておるわけじゃございませんけれども、国家共同体を形成する限り、義務というものがなくては国家共同体は成り立たない。我々は、主権者であると同時に、やはり国家の統治に服している、そういう立場もございます。当然、そこには義務があるということであります。

 そこで、あえてここで一つだけ、私は、いろいろな義務を、これはある意味で書こうが書くまいが当たり前の、例えば遵法の義務なんというのは当たり前であって、国家共同体が存在する限り、遵法の義務がなかったら成り立たないわけでございますから、そういうものをあえて書くか書かないか、これはいろいろ議論あろうかと思います。

 私は、国民の義務としては、国防の義務というものをぜひ書いていただきたい。反発も多かろうと思いますけれども、今、有事法を議論されておりますが、いわゆる国家有事の際、国民の自発的協力だけで果たしていけるんですかということを言いたい。

 ただ、念のために言っておきますと、国防の義務というのは、兵役の義務とはイコールではございません。国防の義務というのは、大きく言えば、いわゆる国家有事の際における国民の心の姿勢を論ずるわけでございまして、兵役の義務というのはまた別でございます。

 それと、ここでもう一つ指摘したいのは、自分の国をみずから守るということは民主主義の基本原則ではないのか。かつて、市民という言葉は、防衛の義務を負った人間にのみ言われた言葉でございます。

 外国の例との比較はここで少し削除させていただきます。

 国防の義務についてはいろいろな立法例があります。これは西修先生にお伺いしますと、あらゆる憲法を研究しておられますが、憲法ある国のほとんど大多数、国防の義務は定めておる、ない方が珍しいというふうにおっしゃっておられまして、有名な国の条文を見るだけでも、国防の義務というのはほとんど入っております。

 さて、最後に、各論的規定でございますが、私は、特段ここを直せというような、余り各論については積極的な意見を持っておりませんが、情報に関する権利、環境に関する権利というようなことが言われております。これについては、慎重にその外延、内包を確認しつつ新設されることがよかろうと思います。

 二番目の政教分離の規定については、これは絶対的分離ではないんだということを、これは最高裁判決で確認されておるわけでございますが、その目的・効果基準というものがもう少ししっかりと確認されるような憲法の規定に改めるというあり方があっていいんじゃないか。

 外国の例との比較でございますが、政教分離というのは、実は例が非常に少のうございまして、七カ国だけでございます。それ以外はむしろ、国教制、イスラムなんか全部そうでありますが、国教制が圧倒的に多い。それから、宗教公認制、例えばスペインなんかそうです。今までのカトリックとスペイン国家との特殊な関係にかんがみて、カトリックに対しては特殊な地位を与える、そういう宗教公認制、そういうものがございます。政教分離は七カ国のみであるということでございます。

 それから、最後にもう一つ指摘しておきたいのは、家族尊重の規定というものがあってもよいのではないか。この人間社会の基礎でございまして、世界人権宣言にもそういう言葉がございますけれども、私は、これから文明が進めばますます家族というものが危機に瀕する。しかし、やはり人間にとっての最後のよりどころは家族ではないのかという考え方から、家族というものを尊重する。

 とりわけ、我が国の法体系の中では、この家族というものの積極的位置づけは余りあるようには思えません。民法の中には家族という言葉はございません。そういうことを考えますと、家族という言葉をあえて憲法の中に入れて、その保護をうたってもよろしいのではなかろうかという考え方を持っております。

 いただいた時間をちょっとオーバーしてしまいましたが、以上をもちまして提起とさせていただきます。

 

島小委員長 ありがとうございました。

 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。

 

質疑応答へ

(日本政策研究センター所長 伊藤哲夫)