教基法論議をやり直せ

教基法論議をやり直せ

中教審答申に見られる教育基本法改正の方向性は深刻な問題を孕んでいる。その基調をなす「個人」絶対の社会観・国家観が修正されなければ、改正はむしろ改悪にすらなりかねない。


 

 一月十九日より平成十六年の通常国会が始まったが、早くも教育基本法改正案提出は先延ばしにされることが決まったようだ。周知のように、公明党がこれに強硬に反対しており、与党としての合意が成立する見通しが全く立たないからだ。これまで一貫して教育基本法の改正を求め続けてきた団体、人々からは一斉にブーイングが起こっている。

 しかし、筆者はこうした受け止め方とは実は微妙に異なる感想をもっている。本誌でも何回か明らかにしたように、中教審答申に見られる同法改正の方向性は実はかなり深刻な問題を孕んでいるというのが筆者の認識であり、この点が修正されない改正はむしろ改悪にすらなりかねない、という危惧感をもってきたからだ。つまり、教育基本法の改正それ自体は望むところだとしても、問題はその内容であり、もしこれから出てくる改正案が中教審答申とほとんど変わらない内容のものだとしたら、むしろ今回は改正を見送った方が良かったのではないか、という感想を否定できないのである。この中教審答申の内容については、ともかくもっと腰を落ち着けて、じっくり議論してみる必要があり、かかる点を考えるならば、今回の提出見送りは必ずしも悪いことばかりではないのではないか、というのが筆者の感想なのである。

 

◆個人主義に偏重した社会観・国家観

 それでは、ここで筆者のいう中教審答申の問題とは一体何なのだろうか。それを以下論じてみたい。

 まず誤解を恐れずに結論からいうならば、この答申が立脚する個人主義に偏重した公共観、国家観の問題である。まず個人が存在して、その上でその個人たちが集合して契約を結び、その契約によって社会、国家が作られ、そうであるがゆえにこの社会、国家はその個人たちの意向で自由に否定したり、作りかえたりして行くことができる、という考え方である。これは現憲法が立脚する社会、国家観だともいえるが、一方最近の多くの政府審議会答申などにも頻繁に見られるようになった考え方でもある。果たしてこれをそのまま見過ごしていっていいのか、というのが筆者の問題意識なのである。

 本誌の読者もそうであろうが、そもそも教育基本法を変えねばならないという問題意識の発端そのものがこうした社会観、国家観への根本的な疑問にあった。国家というものはそんな単純なものではなく、むしろ個人を超えた、祖先たちの様々な思いの結晶としてここに継承されているものであり、われわれはむしろそうした歴史的継承の方にこそ眼を向け、それを次世代に伝えて行くという考え方をもつべきではないか、というのがわれわれの社会観、国家観であったからだ。にもかかわらず、その基本法改正を提唱する答申そのものが、実はこうした考え方を否定する社会、国家観に立脚しているのだとしたら、これはスンナリとは笑えない深刻なジョークではないかといわざるを得ないのである。

 むろん、かかる指摘に対して、そうはいってもこの中教審答申は、新たに教育基本法に付け加えるべき理念として「公共の精神」だの、「郷土や国を愛する心」だのを掲げているではないか、それはそうしたものを全く欠落させてきた現基本法との比較からいえばそれなりの前進であり、それはそれとして正当に評価されるべきではないのか、との反論をなす向きも一方にはあるだろう。保守派が求めてきたのは、まさにそうした個人を超える「公的精神」であり、そうした言葉を基本法の中に書き込むことであったからだ。

 しかし、こうした見方には筆者としてこの際、はっきりとノーをいっておかねばならない。筆者が問題とするのはそのような表面的な言葉ではなく、むしろそこに込められた意図であり、更にいえばその言葉がいかなる思想に立脚しており、果たしてその思想は適切なのか、という問題であるからだ。つまり、そこにある「公共」なり「国を愛する心」なりといった言葉が具体的に意図する内容であり、それが立脚する思想の問題に他ならないのである。

 ところで、この中教審答申が立脚する考え方を問題にしようとする時、併せて問題にしてみる必要があると思われるのが憲法学者・佐藤幸治氏の思想である。氏は先にも述べた最近の各種審議会答申に大きな影響を及ぼしている中心的な学者でもあるといえるが、同時にこの中教審の委員でもあり、恐らくその答申執筆にも大きな影響を及ぼしている学者だと推定されるからである。個人から出発して公共、あるいは国家の形成に至り、またそうして成立した公共、国家に対して、常に主権者としてその維持と変革を心掛けなければならないとする氏の基本モチーフは、まさに氏が最近、こうした重要な審議会などの場で繰り返し提唱し、強調して止まない「日本国憲法の物語」でもあるといえるのである。

 「日本国憲法第13条は、『すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しないかぎり、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする』と規定している。ここに『個人の尊重』とは、一人ひとりの人間が独立自尊の自由な自律的存在として最大限尊重されなければならないという趣旨であり、そのためにこそ各種人権が保障されるのである。そして憲法前文にいう、『主権が国民に存する』とは、そのような自律的存在たる個人の集合体である『われわれ国民』が、統治の主体として、自律的な個人の生、すなわち個人の尊厳と幸福に重きを置く社会を築き、国家の健全な運営を図ることに自ら責任を負うという理を明らかにするものである」

 これは氏が代表して執筆したとされる橋本内閣時の「行政改革会議」最終報告書の一節である。これは憲法第十三条を「憲法の中の憲法」と捉える氏の独自の憲法観を示すものだともいえるが、これは同時に、この中教審答申にも一貫する基本モチーフを端的に示す指摘でもある。まず冒頭に「個人」を設定し、全てはこの「個人」を出発点とし、この「個人」によって担われ、作り上げられていくという、この答申にもある基本モチーフを憲法論として展開したものでもあるからだ。そして、そうした社会、国家建設の最終目的はあくまでも「個人の尊厳と幸福」だというのである。

 

◆形を変えた市民革命の要求

 そう考えてみると、中教審答申が本当にめざすものも見えてくる。保守派がめざす基本法改正がまさに教育の中に「歴史の中の個人」「国家の中の個人」を取り戻そうとする試みであるとするなら、中教審答申はまさにここで佐藤氏が力説して止まない「価値そのものとしての個人」「出発点としての個人」をより明確に位置づけて行こうとする試みに他ならないといえるからだ。論より証拠、答申は次のように主張する。

 「すべて国民は、一人の人間としてかけがえのない存在であり、……自立した存在として生涯にわたって成長を続けるとともに、その価値が尊重されなければならない」

 「国家や社会の在り方は、その構成員である国民の意思によってよりよいものに変わり得るものである。しかしながら、これまでの日本人は、ややもすると国や社会は誰かがつくってくれるものとの意識が強かった。これからは、国や社会の問題を自分自身の問題として考え、そのために積極的に行動するという『公共』を重視する必要がある」

 「これからの教育には、『個人の尊厳』を重んじることとともに、それを確保する上で不可欠な『公共』に主体的に参画する意識や態度を涵養することが求められている。このため、国民が国家・社会の一員として……自ら考え、自由で公正な社会の形成に主体的に参画する『公共』の精神を涵養することが重要である」

 つまり、「個人の尊厳」が出発点であるべきこと、社会や国家はその「個人」が集まって初めて形成されるものであること、そしてその社会や国家はそうした個人個人の努力によってよりよいものへと変えて行かれるべきものであり、そのためには社会、国家の問題を自分の問題として考える主権者の精神――「公共の精神」が必要であること、等々がここでは説かれているといえる。ただいうまでもなく、そこには「個人」の背後にある歴史、また文化・伝統、あるいはそうした「個人」を超えた価値といったものを重視し、尊重するといった視点は一切存在しない。

 むろん、その根底にあるのは八木秀次氏も指摘するごとく、ジョン・ロック流の社会契約説に他ならない。さいわい最終答申では省かれることになったが、実は中間報告には次のような社会契約説そのままを直截的に表明する一節もあったという。

 「人は、一人だけで安全に生きていくことができるものではない。自らの生命や自由を守り、幸福を追求するためには、個人が集まり、その信託によって社会や国という『公共』を形作り、それを通じて自らの安全や権利を享受できるようにすることが必要なのである。そして、このような『公共』を作り、維持することができるのは、その構成員である国民一人一人であって、ほかのだれでもない」

 ちなみにいえば、この答申は教育基本法に関する答申ということでそうなったのか、先にも紹介した「行政改革会議」最終報告書に比べれば書き方は穏和で、かつ非政治的な主張になっているという指摘も可能である。行革報告書の方では、氏はもっと直截的に、あるいはラディカルに、次のようにその社会、国家観を表白しているともいえるからだ。

 「われわれが取り組むべき行政改革は、もはや局部的改革にとどまり得ず、日本の国民になお色濃く残る統治客体意識に伴う行政への過度の依存体質に訣別し、自律的個人を基礎とし、国民が統治の主体として自ら責任を負う国柄へ転換することに結び付くものでなければならない」

 「今回の行政改革は、『行政』の改革であると同時に、国民が、明治憲法体制下にあって統治の客体という立場に慣れ、戦後も行政に依存しがちであった『この国の在り方』自体の改革であり、それは取りも直さず、この国を形作っている『われわれ国民』自身の在り方にかかわるものである。われわれ日本国民がもつ伝統的特性の良き面を想起し、日本国憲法のよって立つ精神によって、それを洗練し、『この国のかたち』を再構築することこそ、今回の行政改革の目標である」

 つまり、この日本を明治憲法的日本から根本的に転換し、「自律的個人」を主体とする新たな「国柄」、言葉を換えていえば新たな「国のかたち」へと変えて行くことが、われわれ国民に課せられた使命だというのである。ここで問題にする教育改革がまさにそうした「変革の主体」をつくり出す試みだと考えれば、実は中教審答申の本音も見えてくるという話でもある。「保守の物語」どころか、むしろこれまでの日本を根本的に作りかえるという話でもある。

 むろん、ここには「われわれ日本国民がもつ伝統的特性の良き面を想起し」というエクスキューズが入れられているとはいえる。とはいえ、これは中教審答申に形だけの「日本の伝統・文化の尊重」が入れられていることと同様、明らかに保守派へのリップサービスを出るものではなく、実際のところは形を変えた「市民革命」の要求であり、伝統的日本改革の呼びかけに他ならないというのが率直な見方なのである。

 

◆家族と国の価値を学ばせる基本法に

 さて、このように見てくると、われわれが今まさになさねばならないのは、こうした答申を貫く思想の根底的批判であるということがわかるだろう。「公共の精神」が説かれていたり、あるいは「郷土や国を愛する心」なる文言が入れられていたとしても、問題はそこに込められた本音の意図であり、それがいかなる文脈の中で言及されているかという思想背景であるからである。

 とすれば、こうした個人から出発する社会、国家観に対し、どのように考えるのが「保守」の名にふさわしい正しい考え方、ということになるのだろうか。

 まず指摘したいのは、この答申の根底をなす「個人」観である。佐藤氏も強調するように、憲法が「すべて国民は、個人として尊重される」と謳っていることは確かに重要な点ではある。しかし、その「個人」なるものは、初めから「個人」としてこの世にあるものなのだろうか。

 その「個人」なるものが生まれる場面を想定していただきたい。そこにまずあるのは親の存在であり、家族であり、あるいは社会である。それがなければ「個人」などあり得ないということなのだ。全て「個人」なるものが出発点であり、それらが集まって社会をつくるのだとこれらの人々はいうが、実はその社会はそうした「個人」が生まれる前から既に存在していて、その「個人」の出生をむしろ受け止めてくれる当のものでもあるということなのだ。つまり、そうした「個人」以前の「社会」という前提がなければ、どんな「個人」といえどもこの世に存在できないということでもあるだろう。

 一方、「自律的個人」というものが強調されてもいる。しかしそうした個人の「自律」を可能にする価値観、規範はどこからくるのだろうか。それは実は社会がつくったものであり、あるいは国家がつくったものなのではなかろうか。また、それは長い歴史の中でつくられたものでもあるといえよう。むろん、個人はそれを認めないでいることもできる。しかし、そうした否定的判断をする場合の基礎となる価値観も、実は社会のどこかでつくられ、その「個人」に伝えられた「個人」を超えたものだというのが正しいのである。

 その意味で、読売社説が次のように指摘するのは全面的に正しい。

 「『人』は自分だけで『人』になるわけではない。環境や共同体などの影響を受け、価値観、自己肯定観、他人への信頼感などを形成していく。
そうした当たり前の道筋が、これまで余りにも軽視されていた」

 ちなみにいえば、これは現行教育基本法の「個人の価値」「自発的精神」の過度の強調を批判した社説の一節でもある。それがそのまま、それを改正しようとする答申への批判ともなるところがいかにも皮肉な話でもあるのだが、ともあれ、かかる個人偏重論は根本的に考え直されるべきだという指摘である。

 と同時に、現に目の前に存在する社会、国家に対する「個人」の在り方に対する指摘にも触れておかねばならない。それを動かし難い「所与のもの」とすることなく、それを能動的に変革し新たに作り上げていくという視点が必要であることはその通りである。しかし、その前に、まずそのようにして今日あるものに対し、感謝と尊敬をもってそれを受け止め、その上でそれをどのように変革し、次世代へ伝えていくかを考えることが、もっと大切なのではなかろうか。国民が主権者であることは当然としても、それは過去を全く否定した「更地」の上に、新しいものを思いのままに築いていくということではない筈なのだ。その視点がここには存在しないといえる。

 どんな主権者の前にも「歴史」が存在している。その意味で、主権者たる「個人」は「公共」の担い手であるとともに、「歴史」の継承者でもあるということが同時に指摘されねばならないといえるだろう。最後に、先の読売社説の中の別の箇所を引用してこの稿の結びとしたい。

 「子供たちにしっかりしたアイデンティティーを育て、その基盤の上に自分の人生を選び、作り上げる力を培うことが喫緊の課題だ。/そのためには、基本法を改正し、家族や国など、自分を超え、自分を支える共同体の価値について、子供たちに学ばせる必要がある」

 改正案はその意味でも、もう一度議論される必要があると思う。(日本政策研究センター所長 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成16年2月号〉