今こそ「愛国心」を語ろう

今こそ「愛国心」を語ろう

「期待される人間像」に学ぶもの


 

 さる三月二十日、中教審は教育基本法改正を求める答申を公表した。現行法の「人格の完成」や「個人の価値」などの理念には手をつけず、新たに「日本の伝統・文化の尊重」「郷土や国を愛する心」といった理念をつけ加えようというのが、答申の基本姿勢だと言える。

 周知のように教育基本法は、敗戦直後の昭和二十二年、占領軍の厳しい監視下で作られた。その結果、基本法には「伝統」や「愛国心」などの国民教育にとって不可欠な理念が欠けており、制定以来、その欠陥が各方面から指摘されてきた。その意味で、今回の答申には色々と疑問もあるが、「伝統・文化の尊重」や「国を愛する心」などの理念を新たに基本法に盛り込む方針が示されたこと自体は極めて当然なことである。

 しかし、予想されたことではあるが、「国を愛する心」について強い異論が唱えられている。例えば公明党の冬柴幹事長は「国を愛する心」は「統治機構を愛せということなのではないか」などと難癖をつけ、結局、改正問題は与党内で協議されることとなった。

 しかし、何よりも踏まえられるべきは、七五%以上もの国民が「国を愛する気持ちを育てる必要性」を肯定している事実である。これは、大多数の国民が「国を愛する心」を、祖国の文化、伝統、歴史、自然などに愛着と誇りを持つことと素直に受けとめている証左とも言える。「統治機構を愛せということ」などと曲解するのはごく一部の輩に過ぎない。

 それと同時に踏まえられるべきは、「愛国心」をめぐる戦後の文部省自身の「戦いの歴史」である。教育基本法の欠陥は昭和三十年代から幾人かの文部大臣によって指摘され、その是正や補完を求める試みが繰り返されてきた。こうした歴史において、中教審や文部省が「愛国心」の大切さを率直に国民に訴えてきた事実が今こそ想起されるべきである。

 その典型とも言うべきは、中教審が昭和四十一年に答申した「期待される人間像」であろう。日本人に期待される一種の徳目として、「畏敬の念」「社会規範を重んずる」「正しい愛国心をもつ」などの十六項目を示したものである。日教組の影響力が強かった当時、「期待される人間像」は「教育勅語の現代的変形」「教育基本法への挑戦」等の批判を浴び、ついに教育現場に根付くこともなく、今ではその存在すらほとんど顧みられなくなっている。しかし、教育基本法の改正が現実的な課題となり、しかも「国を愛する心」が重要な争点となっている現在、かつて中教審が「愛国心」を国民に提示した事実は改めて確認されてよい。

 以下では、「期待される人間像」が作られた背景とその内容、それをめぐって展開された議論の一端を紹介してみたい。

 

◆教育基本法再検討の挫折を受けて

 まず、「期待される人間像」が作られることになった背景について触れておきたい。

 「期待される人間像」の諮問を発したのは、池田内閣の荒木萬寿夫文相である。昭和三十八年六月、「後期中等教育の拡充整備について」の諮問を発した際、その理念を明らかにするものとして「期待される人間像」の検討が要請されたのだ。

 その一つの背景となったのが、池田首相の「人づくり」構想だ。昭和三十七年八月の所信表明演説で、池田首相は国づくりの根本たる「人づくり」への関心をこう述べている。「青少年の育成については、徳性を涵養し、祖国を愛する心情を養い、時代の進運に必要な知識と技術とを身につけ、わが国の繁栄と世界平和の増進に寄与し得る、よりりっぱな日本人をつくり上げることを眼目とする考えであるのであります」と。

 このような「人づくり」構想を踏まえ、「期待される人間像」は諮問されることになったと言える。

 だが、忘れてならないのは、「期待される人間像」の背景には、当時の文部当局のより本質的な問題意識があったことだ。それは、教育基本法を含む戦後教育の欠陥に対する切実な問題意識である。

 例えば荒木文相は、日教組を批判した硬骨の文相として知られるが、教育基本法の熱心な改正論者でもあった。「期待される人間像」の諮問に遡ること三年前の昭和三十五年十月、荒木文相は参議院文教委員会で基本法改正の必要性を訴えている。被占領下に制定された教育基本法には限界があるから、独立した今日、自由な立場で再検討すべきだと提案したのである。

 しかし、日教組や野党は「教育基本法改悪反対闘争」を展開し、結局、荒木文相の提案は挫折する。こうした挫折を経て、「期待される人間像」が諮問されることになる。すなわち、「期待される人間像」には、教育基本法の欠陥を補完するという役割があったと言えるのだ。

 こうした問題意識は、文部省が「期待される人間像」の審議に際して、中教審に出した意見書からもうかがえる。すなわち第一次草案の段階で、文部省は中教審に対し、「この人間像は、教育基本法と指導要領との間の橋わたしのための肉付けとなるような理論を展開してほしい」との意見を提出。「現在の教育の弱点」として、①祖国愛にもえる日本人となる、②親子敬愛し、健全な家庭をつくる、③付和雷同することなく責任ある行動をとる、④職業に献身する、⑤公共心を持し公徳を守る――などの八項目を示したという。

 実際、「期待される人間像」には、ここで文部省が示した祖国愛(愛国心)をはじめとする「現在の教育の弱点」がほぼ網羅されていると言ってもよい。この意味で「期待される人間像」は、教育基本法や戦後教育の欠陥の克服をめざした当時の文部省の戦いの一環とも言えるのだ。

 

◆日本否定への反省

 こうした文部大臣や文部当局の問題意識を背景に、「期待される人間像」の審議は中教審の第十九特別委員会(森戸辰男会長)において、高坂正顕氏を主査として行われた。

 審議の詳しい経緯に触れる余裕はないが、二点のみ指摘したい。第一に、この審議には三年余の長い時間が費やされた事実である。第二に、審議半ばの昭和四十年一月に「中間草案」が発表され、国民各層の意見や反応を収集・検討した上で、さらに審議を加えて成案を得るという手続きがとられたことである。

 ちなみに、教育基本法の場合、昭和二十一年五月に文部大臣に就任した田中耕太郎によって構想され、翌二十二年三月に早くも公布施行されており、その間わずか一年足らずである。「期待される人間像」に注がれた当時の関係者の熱意と膨大なエネルギーは記憶されてよい。

 では、「期待される人間像」は、いかなる視点に立って、いかなる人間像を提示したのだろうか。その一端を次に見てみよう。

 「期待される人間像」の内容は大きく、第一部「当面する日本人の課題」と第二部「日本人にとくに期待されるもの」に分かれている。まず注目されるのは、第一部において、敗戦ショックが日本人にもたらした自国史と国民性への否定の姿勢について、強く反省を促していることだ。

 「とくに敗戦の悲惨な事実は、過去の日本および日本人のあり方がことごとく誤ったものであったかのような錯覚をおこさせ、日本の歴史および日本人の国民性は無視されがちであった。そのため新しい理想が掲げられはしても、それが定着すべき日本人の精神的風土のもつ意義はそれほど留意されていないし、日本民族が持ち続けてきた特色さえ無視されがちである」と。

 その上で、日本の過去には「継承され、発展させられるべきすぐれた点も数多くある」「日本の使命を自覚した世界人であることがたいせつ」と説き、「日本は強くたくましくなければならない」と訴えた。要するに、ここでは「日本の歴史と伝統に根を下ろした人間像」という視点が強調されたと言ってよい。

 ちなみに、先の引用に続いて、「ここでいう強さ、たくましさとは、人間の精神的、道徳的な強さ、たくましさを中心とする日本の自主独立に必要なすべての力を意味している」と説かれている。このような「強さ、たくましさ」は、現在の日本人においてこそ、強く求められているように思われる。

 

◆「愛国心」は堂々と説かれた

 では、われわれの最大の関心事項でもある「愛国心」について、「期待される人間像」はどのように説いているのだろうか。

 本論にあたる第二部では、第一節「個人として」、第二節「家庭人として」、第三節「社会人として」、第四節「国民として」の四つの面から、日本人に期待される一種の徳目が説かれているが、「愛国心」は第四節「国民として」に登場する。すなわち「国民として」の第一項目として、「正しい愛国心をもつこと」が次のように説かれている。

 「今日世界において、国家を構成せずに国家に所属しないいかなる個人もなく、民族もない。国家は世界において最も有機的であり、強力な集団である。個人の幸福も安全も国家によるところがきわめて大きい。世界人類の発展に寄与する道も国家を通じて開かれているのが普通である。国家を正しく愛することが国家に対する忠誠である。正しい愛国心は人類愛に通ずる。

 真の愛国心とは、自国の価値をいっそう高めようとする心がけであり、その努力である。自国の存在に無関心であり、その価値の向上に努めず、ましてその価値を無視しようとすることは、自国を憎むことともなろう。われわれは正しい愛国心をもたなければならない」

 率直に言って、戦後の政府答申において「国家に対する忠誠」という言葉が使われていることには、素朴な感動を禁じ得ない。また、それに劣らず心に強く響くのは、「真の愛国心とは、自国の価値をいっそう高めようとする心がけ」との実に明快な指摘である。愛国心についての確固たる見識と信念がうかがえる。

 ちなみに、こうした明快な言葉と比較すれば、愛国心を「国を愛する心」と言い換え、また「国家至上主義的考えや全体主義的なものになってはならない」などと余計な但し書きまで添えた先の中教審答申の愛国心に対する「及び腰」は否定すべくもない。

 むろん、「期待される人間像」の注目点は、愛国心だけではない。例えば「国民として」の第二項目として、「象徴に敬愛の念をもつこと」が、次のように説かれている。 「日本の歴史をふりかえるならば、天皇は日本国および日本国民統合の象徴として、ゆるがぬものをもっていた」「このような天皇を日本の象徴として自国の上にいただいてきたところに、日本国の独自な姿がある」と。愛国心の対象となる日本国の国柄として、天皇の御存在のかけがえのなさが堂々と説かれている。ここにも、当時の中教審の見識と勇気が示されていると言えよう。

 

◆根付かなかった「人間像」

 では、「期待される人間像」は、当時の国民からどのように受けとめられたのだろうか。

 昭和四十年一月、中間報告が出されると「期待される人間像」をめぐる論議が教育界はもとより、マスコミなど至るところで沸騰し、「一九六〇年代の最大の論争点の一つだった」とも指摘されている。

 文部省の調査によると、中間報告に対する反応は、肯定的な意見と否定的な意見がそれぞれ三〇パーセント、残り四〇パーセントが中間的な意見であったという。人間像をめぐる世論は賛否相半ばしたと言える。

 肯定論の典型は、「教育基本法は内容的には立派だが、抽象的で蕫人間像﨟がはっきりしない。それを補足して日本の精神風土にあわせようとしたものだから、よいことだ」というものであった。また、「これからの時代に生きる日本人の理想像が示され、指針として誠に結構、ただそれをどう受けとめるかは、国民の自由に任せて欲しい」というものもかなりあったと言う。その他、「民族的バックボーンを示す一つの手本」「祖国愛に目覚めさせ、愛国心形成に役立つ」等の積極的賛成論も少なくなかった。

 一方、否定論の中には日教組系の学者によるイデオロギー色の強いものが目立っている。例えば日教組自身は、中教審が「人間像」を示すこと自体をこう批判した。

 「基本的人権にかかわる国民の人生観・世界観、それにもとづく倫理観に対し、一定の価値判断を下し、これが正しいとすることは、思想統制そのものであり、内容の良し悪しをいう以前に、そうした行為それ自体が、現憲法のかたく禁じていることなのです。……『人間像』を打出すことそれ自体は、いかなる根拠にもとづいているのでしょうか」と。
 また、否定論のなかには、「期待される人間像」が教育基本法の改正の意識と結びついて発想されたことを問題視し、「『期待される人間像』の発表は、教育基本法の実質的、なしくずし的改悪に他ならない」とする非難もあった。

 具体的な内容に関しては、いちばん批判が集中したのは、愛国心と象徴天皇に関してであった。「期待される人間像」の事実上の起草者である高坂氏は、愛国心に対する批評について、「さすがに愛国心とはけしからないという批評はなかった。しかしその代わり、愛国心を説くとはけしからない、つまり愛国心については触れるなという形の批評が多かった」と述べている。ちなみに当時、高坂氏自らが、そうした批判に対して正面から堂々と反論を加えている。

 では、「期待される人間像」は、その後の日本の教育や社会に対していかなる影響を及ぼし得たのだろうか。確かに「期待される人間像」の答申は、中教審や文部省の予測を遙かに超えて国民の関心と興味を喚起したとの指摘、また、この答申の影響で、学習指導要領の社会科全体の目標に「国家に対する愛情」などの課題が明確に位置づけられることになったとの指摘もある。

 しかし、その影響があくまでも限定的であったことは否定すべくもない。結局、「期待される人間像」は、わが国の教育や国民の心には根付かなかったと言わなければならない。今日、ほとんどの国民が「期待される人間像」の存在すら知らないことが何よりの証拠である。

 そうした残念な結果となった背景には、「期待される人間像」の具体的な取り扱いが、教育機関や教員の判断に任されたという事情がある。しかし、最も災いしたのは、当時のわが国の教育界の状況であったと思われる。日教組などの左翼勢力の影響力が今とは比べものにならないほど強かった当時、「期待される人間像」が教育現場に根付く余地は最初から少なかったのではあるまいか。

 むしろ注目すべきは、そうした厳しい状況のなかにおいて、当時の中教審が「愛国心」を正面から国民に訴え、答申の当事者たちが「愛国心」を堂々と弁じた事実であろう。それは、当時の中教審諸氏の正しく「愛国心」のしからしめるところだったと思われる。今日、「期待される人間像」の歴史から汲み取るべきは、そうしたかつての中教審や文部省の「戦いの姿勢」ではあるまいか。

 翻って、今日のわが国では、左翼や日教組が往時の力を失う一方、拉致問題に対する関心の高まりが示すように、国民の間には健全な愛国心が徐々に回復しつつある。しかし、それにもかかわらず、「国を愛する心」をめぐっては、政治の水面下での駆け引きが続くばかりで、関係者の間からは一向に愛国心についての建設的な意見や問題提起が聞こえてこない。

 教育基本法に「国を愛する心」を盛り込むことを願っている当事者が、今、自らの愛国心を奮い立たさずして、どうして子供たちの「国を愛する心」を育むことなどできようか。日本の教育を憂える関係者も国民も、今こそ愛国心を堂々と語るべきときである。(日本政策研究センター研究員 小坂実)

〈『明日への選択』平成15年8月号〉