教育勅語にみる「明治の叡智」

教育勅語にみる「明治の叡智」

教育改革論議の中で、再び注目される「教育勅語」。マスコミは「国民を戦争に駆り立てる原動力」などと断罪するが、教育勅語の精神は今なお世界が評価する「不変の徳目」だ。


 

 最近、教育改革論議が賑わう中で、「教育勅語」がマスコミにもとりざたされるようになってきた。この五月にも、森首相が「教育勅語にはいいところもあった」と発言した際、大分部のマスコミが一斉に教育勅語を批判した。中でも、朝日は社説で「皇国史観と密接不可分」「国民を戦争に駆り立てる原動力」などの糾弾的な言葉を並べ立て、教育勅語の否定に躍起になった。

 しかし、常々考えてきたことでもあるが、教育勅語とは、果たしてこうした片言節句によって簡単に否定できるようなものなのだろうか――。

 確かに、教育勅語は敗戦後、占領軍によって「軍国主義の源泉なり」と断罪され、その圧力でわが国の国会は「失効確認と排除決議」を行った。しかし、先の森発言が象徴するように、教育勅語に対する評価は今も日本人の心から消えてはいない。しかも、後ほど紹介するように、教育勅語は海外でも高い評価を受けている。教育勅語を「皇国史観と密接不可分」として断罪してしまうことは、占領軍ばりの偏った見方であることは明らかだ。

 とはいえ、こうした教育勅語に関する偏見は何もマスコミだけのものではない。とりわけ、戦前否定の価値観の上に築かれた戦後教育の洗礼を浴びた日本人の多くが、マスコミの認識同様、教育勅語を単に「特殊な時代のイデオロギー」くらいに思い込んでいるのもまた事実だと思われる。

 しかし今日、学級崩壊に象徴されるように戦後教育の限界が露呈し、抜本的な教育改革――戦後教育の総括が重要な課題となっている。その際、戦前の教育の規範となった教育勅語についての正しい認識は、やはり不可欠だろう。何も「教育勅語の復活」を単純に唱えるつもりはないが、例えば教育勅語がどのような状況下で、先人らのどのような苦心の結果として誕生したかを知ることは、現代の教育論議を意味あらしめる上でも決して無駄ではない。

 そこで、本稿では教育勅語が作られた歴史的経緯を中心に、いくつかの歴史的事実を明らかにしておきたい。

 

◆万有引力の如き「不変の徳目」

 教育勅語が作られた経緯に入る前に、まずマスコミが掲載しない教育勅語に対する海外の評価について紹介しておきたい。マスコミの偏見に見られる占領軍的な「思い込み」を少しでも離れて、教育勅語が作られた経緯を真摯な眼でながめてみたいからである。

 まず、戦前における海外の評価について取り上げよう。有名なところでは、「教育勅語の根本基調は道徳的徳性にとって価値あるものだった」(米人スウイング博士『極東における教育』)とか、「日本人は偉大な民族が作りだした、もっとも高貴な道徳体系の一つの型を発達させている」(道徳史研究家フィリップ・マイヤー教授『倫理思想史』)等の指摘がよく知られている。

 これら以外にも、例えば名越二荒之助氏は「世界に生きる教育勅語」という文章の中で、明治時代に駐日ドイツ大使館付通訳官として滞日経験があるドイツの地政学者K・H・ハウスホーファ博士が教育勅語を独訳し、教育勅語に基づく修身教育を高く評価した事実を挙げている。さらに、教育勅語は「日露戦争後は、文部省が英訳、独訳、仏訳、漢訳を行って、各国の注文に応じた程である」と名越氏が述べているように、教育勅語は明治日本の興隆と共に世界各国で注目されていったわけである。

 だが、もちろん教育勅語に対する海外の評価は戦前ばかりではない。第二次大戦後、西ドイツのアデナウアー首相が執務室に教育勅語の独訳文を掲げていたという話はつとに知られている。また名越氏によれば、アメリカのダラス大学の学長室には今も(平成元年当時)教育勅語の真本の複製が飾られているとのことである。ダラスの弁護士J・Rウエスト博士の尽力によるものであるというが、ウエスト博士は教育勅語を次のように評価しているという。

 「私は教育勅語を読んで、やっと明治の精神を理解することができた。明治天皇は、私の人生の形成期に教わった真髄、そして事実をこの勅語の中で述べておられたのである。この勅語は、日本国民と日本帝国を対象にされたものだが、私はそれが全ての人類にも当てはまるものだと確信した」

 さらに、戦後の勅語に対する海外の評価として、教育史研究家として名高い結城陸郎氏の証言を紹介したい。氏は、かつて教育勅語について「永い日本の歴史と伝統の底に一貫して流れている『愛』と『和』による『日本の心』から生れた人間本然の姿・時処位にかかわらず適用される普遍的道徳律を明らかにし、教育究局の目的が簡明に表明されたものである」と高く評価した。注目すべきは、こうした評価の根拠の一つとして、氏が「戦前のアジア教育会議や戦後の比較教育学者世界会議において均しく賞賛され、『万有引力の法則の如く不変の徳目』と評された」と証言している事実である。

 このように、戦前はもちろん、戦後においてもなお、教育勅語は海外から高く評価されている。教育勅語が、わが国マスコミの陳腐な批判を乗り越えて、世界の心ある人々の中に生き続けている事実をまず知るべきである。

 

◆明治期の道徳的混乱のなかで

 では、「不変の徳目」として海外の学者らも高く評価する教育勅語は、一体いかなる経緯によって成立したのだろうか。周知のように、教育勅語が下賜されるのは明治二十三年十月三十日のことであるが、稲田正次氏は『教育勅語成立過程の研究』の中で勅語の起草にいたる発端をこう述べている。

 「地方官一同の徳育涵養に関する建議が端緒となって、山県総理大臣の奏請があり、天皇親臨の閣議において徳育の問題が論議された結果、徳教の基礎となるべき要領の勅諭……を起草するよう榎本文部大臣に勅命があった」

 この簡潔な記述の中には、教育勅語を誕生させた二つの重要な要因が示唆されていると思われる。それは第一に地方官らに「徳育涵養に関する建議」の提出を促した当時の道徳的状況であり、第二に徳育問題に対する明治天皇の深い御関心に他ならない。

 まず、「徳育涵養に関する建議」が提出されるのは、明治二十三年二月、全国の知事が集まった地方官会議においてのことである。多数の知事から当時の徳育教育に対する不満が表明され、徳育の強化を求める建議が提出されたわけである。この建議の中には、当時の道徳的状況の混乱ぶりがこう表明されていたという。

 「現行の学制によれば智育を主として徳育を全く欠いているとし、そのため小学生は智識を誇って父兄を軽蔑し、高小の卒業者は父祖の業をすてて官吏または政治家を志し、中学生は校則を犯し抗争紛擾を事とし、退校して政論に奔走するものがある、この情勢のまま推移するときは、実業を重んぜず、漫りに高尚なる言論をなし、長上を凌ぎ、社会の秩序を紊乱し遂に国家を危うくするに至るであろうが、これ智育のみ進みて徳育の兼ね進まざるより起るところの弊であると指摘している」(稲田前掲著)

 明治五年発布の学制が「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめんことを期す」との理想の下、全国民に教育を授けようとする雄大な改革であったのは事実である。が、そこで重視されたのは実生活に役立つような「実用の学」であったがために、従来の儒教に基づく徳育は衰退する。もっとも、小学一、二年生には修身の時間があったが、教科書はなく、教師は英米の倫理学や宗教書の翻訳に基づいて教えることとなる。かくて「高尚な空論」はあっても、まともな徳育教育は無きに等しくなってしまったわけである。

 さらに、こうした徳育の衰退を助長したのは文明開花による欧化主義の風潮だ。欧米に留学した知識人の中には、森有礼や西周のような英語採用論を唱える者、あるいはキリスト教採用論を唱える者まで登場し、人心は大きく混乱する。特に明治十七年に条約改正のための鹿鳴館が建てられて以降は、外国人を招待しての舞踏会や仮装会が流行し、こうした西洋礼賛の風潮の中で、道徳的混乱が社会を覆っていく。当時の道徳的混乱の一面について、坂本多加雄氏は次のように指摘する。

 「明治十年代半ばごろからは、その立場こそさまざまに異なれ、当時の道徳的状況が憂慮すべき混乱状態にあるという認識は、世上でも広く共有されるようになっていた。たとえば、明治十年代に青少年期を送った徳富蘇峰は、当時の道徳状況を『何の信ずる所もなく、何の守る所もなく、何の畏るる所もなく』結果として『裸体の社会』のような有様を呈していると説き……、同じく山路愛山は、『日本人民の獣欲を抑制すべき威権の甚だ微弱』であり、『社会の各方面は放縦なり、乱暴なり、制裁なきなり』と回顧している……」

 先に見た地方官会議での「徳育涵養の建議」は、こうした徳育教育の混乱を背景に提出されたわけである。

 

◆徳育涵養への明治天皇の御熱意

 しかし、こうした地方官らの建議が、やがて「勅語」という形で結実するに当たっては、もう一つの無視できない重要な要因が存在する。それは他でもない、国民の徳育涵養に対する明治天皇の深い御熱意である。事実、地方官らの建議をきっかけに徳育問題が天皇親臨の閣議で検討され、徳育に関する箴言編纂の勅命が下るが、こうした経緯の中に、天皇の徳育に対する御関心の深さはうかがえる。榎本文相の後任として勅語起草に直接関わった芳川文部大臣は、当時の様子を次の如く回想談に記しているという。

 「総理大臣が徳育問題を大いに憂えてこれを天皇に奏上した。それで天皇が諸大臣を内閣に会同して考えているところを陳述させた。諸大臣の審議によって人生の教育は幼童の教育が大事でこれは最も急がなければならない。一部の箴言を編纂してこれを幼童に与えて、常に誦読せしむるようにすることが議決された。ここで天皇は文部大臣にこの箴言の草案をつくって献ずるように求めた」(海後宗臣著『教育勅語成立史の研究』)

 海後氏は「ここで天皇が箴言の編纂を榎本文部大臣に求めたことは注目すべきことである」と述べ、「この箴言編纂が教育勅語の起草となるのであって、この方針は天皇から発していることを重視しなければならない」と指摘している。

 ところで、このような明治天皇の徳育問題に対する御関心の深さを考える際、無視できないのは、天皇の待補として儒教経典などを授けた元田永孚の存在であろう。天皇の深い信頼を得ていた元田は、後に見るように、井上毅とともに教育勅語の起草に深く関わることとなる人物である。

 海後氏が「明治天皇は道徳の教育を振作することによって教育の本義を明らかにする方途に深い関心を寄せていた」と指摘する通り、教育勅語が成立する十年も前から、天皇の意向を汲んで、元田を中心に徳育涵養の努力が続けられている。例えば明治十二年には、天皇の諮問を受けた元田が「教学大旨」を編纂し、学制以来の個人主義的・功利主義的教育内容を批判、儒教による道徳教育の充実を主張した。また明治十五年、幼い頃から正しい徳育を与えるべきとの天皇の意を受けて、元田を中心に『幼学綱要』が作られ、全国の小学校に下賜される。まさに、「明治天皇が十年にわたって深い関心をもってきていた徳育問題が勅語起草成立へと進ませる背後からの力となっていた」(海後氏)と言うべきなのである。

 以上のように、教育勅語が起草されるに至る重要な背景には、学制発布や欧化主義がもたらした道徳的混乱と同時に、徳育涵養に対する明治天皇の長年の深い御熱意があったわけである。

 

◆成立に注がれた叡智と苦心

 続いて、教育勅語の起草から完成にいたる具体的な経緯について見てみたい。とりわけ、ここでは勅語の原案を起草した井上毅とその原案に修正を加えていった元田との思想的な違い、さらに両者がそうした思想的な違いを乗り越えて勅語の完成に注いだ努力の跡にポイントをおいて見てみたい。

 当初、教育勅語の原案は『西国立志編』の翻訳で有名な中村正直による文部省案として作成されるが、その後、法制局書記官で帝国憲法の起草者の一人としても著名な井上毅が中村案を批評し、中村案とは別に原案を作成する。それを元田が批評し修正を加え、さらに井上が修正するといった数度に及ぶ案文の修正作業を経て、九月下旬に勅語案は閣議にかけられる。その上で、さらに島田重礼と中村正直の校閲を経て勅語は完成する。

 このように、勅語の起草から完成までの間には幾人もの識者の関与があるわけである。すなわち、教育勅語はある個人の「独善」によるものではなく、明治を代表する多様な叡智のいわば「結晶」として誕生したと言えるのだ。こうした経緯には、先に示した結城陸郎氏が捉えた教育勅語の精神――すなわち永い日本の歴史と伝統の底に一貫して流れている「愛」と「和」による「日本の心」から生れた人間本然の姿――がはしなくも現れているようにも思われる。

 では、教育勅語原案の起草に当たって、井上はいかなる事に思いを巡らしていたのだろうか。中村案への批評を山県総理大臣に書き送った書簡の中で、井上はいくつかの方針を述べている。

 まず井上は、君主が道徳上の「師」となるというのは「支那の旧説」であるが、「立憲政体」のもとでは「君主は臣民の良心の自由に干渉してはならない」というのが原則であるから、天皇の道徳上の勅語は「政治上の命令」とも「陸軍における軍事教育の一種の軍令」とも異なるものであり、それゆえ、何よりも「社会上の君主の著作公告」という扱いをしなければならないと指摘した。西洋の法制度にも造詣が深かった井上は、道徳的命令を法律や政令、あるいは軍令扱いすることに強い抵抗を感じたわけである。

 次に井上は、勅語は一切の思想的立場の違いを超越した高みから発せられねばならないと考えた。そこで中村案が道徳の根拠として「天」や「神」を用いたことについて「宗旨上の争端を引起す」と批判し、同じく哲学上の理論に言及することは、直ちにその反対学説による批判を招くから、これらは避けるべきだと説いた。また「漢学の口吻と洋風の気習」を感じさせるものであってはならないと井上は説き、「君主の訓戒は大海の洋々たるが如くなるべし」と主張した。さらに井上は、勅語は時の政治家などの勧告や入れ智恵であって、真の叡旨ではないとの感じを起させてはならないから「政事上の臭味」を避けるべきとも主張した。

 要するに、教育勅語に掲げる徳目はひとえに「皇祖皇宗」に由来するものであるが故に、いかなる宗派的又は思想上の違いをも超えて、全ての国民が受容できるような包括的な内容をめざすべき、と井上は考えたのである。

 こうした方針に基づき原案を起草した井上に対して、一方の元田は「教育大旨」と題する私案を作成する。しかし、それは「五倫三徳を内容とする儒教的色彩の濃厚な案」で、井上の原案とは性格の異なるものだった。両者の違いを坂本氏は次のように指摘する。

 「元田が儒教の五倫をただちに普遍的な道徳であると認識していたとすれば、井上は……儒教に普遍性を認めながらも、当時の日本社会の人々の一般的な道徳意識のなかには、儒教はもちろん、キリスト教倫理や『西国立志編』的な自助の道徳、あるいは功利主義的道徳のようなさまざまな道徳上の規範や考え方が混在していることに鑑みて、より包括的な内容を持った勅語を作成することで、天皇や皇祖皇宗の権威を確立しようとしたと思われる」

 しかし、ここで注目したいのは、このような思想的な違いにもかかわらず、両者が立場の違いを超えて、数回に及ぶ修正案の往復を繰り返し、推敲を重ねていった事実である。井上は元田の修正案に対して、手厳しい批判を加え、遠慮せずに大なたを振るったが、「元田は自説を少しも固執することなく、井上の意見を殆んど全部容れるという雅量を示した」と稲田氏は指摘する。「元田が勅語起草の重大性を深く自覚していたためである」という。

 いずれにしても、結果的に元田の儒教主義的な偏りを免れて、基本的に井上の原案に沿った形で「より包括的な内容を持った勅語」が成立する。また形式としても、勅語には大臣の副署を載せず、官報でも別紙記載という軽い扱いがなされ、井上が主張した「社会上の君主の著作公告」という体裁が維持される。教育勅語が海外からも「不変の徳目」と賞賛される一半の理由が、こうした経緯の中にも読みとれよう。

 ところで、このように原案の起草者である井上の方針が基本的に貫かれることとなった理由の一つとしては、勅語案の起草修正に注いだ井上毅の並々ならぬ苦心と奮闘が挙げられよう。「勅語案の修正や完成のために多繁となったとみられる八月末、九月末、十月下旬の書簡の往復をみると、転地休養中の井上が病躯でありながら、速やかな修正を努めたことがよく現れている」と海後氏は指摘し、当時の井上の秘書(斎土継雄)が後年語った次の如き回想を記している。

 「教育勅語の出来る迄の両人の苦心精励は想像以上で却々八釜しい議論もあったように記憶に残っている。……井上は訂正に修正を加えては元田先生の承認を受けた。両人がこのことに関しての数回の往復文書には文字の訂正意味の修正草案には勅語の意味を解釈した所謂注釈も出来て頗る面倒な意見の交換があったようである。最後に確定した時は十月二十日頃と記憶しているが斎土は当日大暴風雨を犯して相州酒勾の別墅松涛園に滞在中の元田先生に井上からの書類を齎らした。井上は『急を要する重大事だから今夜中に帰って来い』と言ったので斎土は氾濫した酒勾川の険を冒して帰邸した……」

 この回想談について「勅語案修正当時の井上の態度をよく示している」と海後氏は述べている。

 以上のような経緯は、勅語の完成までに注がれた先人たちの努力のほんの一端に過ぎない。だが、その中にさえ、わが国の道徳的混乱を建て直し、世界に誇り得る国造りを目指す先人らの骨身を削るような熱意と苦心とが深く刻まれていることが分かるだろう。

 

◆根拠のない戦後の勅語批判

 しかし、今や大部分の日本人は、こうした教育勅語が作られた経緯を忘れ果てており、その一方で、教育勅語に対する根拠なき批判のみがまかり通っている。最後に、そうした批判の一部を簡単に検討しておきたい。

 まず、教育勅語が挙げている徳目について、儒教主義を述べたに過ぎないとの批判がある。これについては、まず勅語原案を起草した井上の道徳観が、儒教主義に基づく元田の考えよりも広いものであって、結果的に井上の道徳観が勅語成文にもほぼ貫徹したことはすでに見た通りである。

 さらに、教育勅語の徳目の中には、一般的に儒教道徳と称される孟子の「五倫五常」とは異質とも言うべき徳目が存在することを指摘したい。例えば教育勅語には「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ」とあるが、五倫の中に「兄弟ニ友ニ」という言葉はなく、かわりに「長幼序アリ」という言葉があると小田村四郎氏は指摘する。つまり、あくまでも秩序を重んじる儒教では、兄弟の情ということよりも、序列を重んじたが、教育勅語は「仲良くすること」に最高の重要度を与えたということである。

 同様に、小田村氏は教育勅語には「夫婦相和シ」とあるが、五倫の道では「夫婦別アリ」と言っているという。男女の別、夫婦の役割の別を強調しようとする儒教の立場に対して、勅語の立場はあくまでも「和する」ことを重視しようとしたからである。

 こうした事実に基づき、「儒教の形式主義に堕することなく、人間性に根ざした徳目を説かれたのが教育勅語である」と小田村氏は指摘する。教育勅語に示された徳目が決して「儒教主義」という言葉などで括れるものではないことは明らかだ。

 こうした誤解以外にも、例えば勅語序文の「教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス」という文言を捉え、教育というものは普遍的な真理に根ざすべきであって、皇室を中心とする日本独特の「国体」などに根ざすべきものではない、との批判がある。しかし、そもそも教育とはあくまでも「国民の教育」であって、「国民たる自覚」の養成こそは、世界の国々における教育の中心課題と言える。そして、歴史や伝統を無視して国民なるものが養成できない以上、日本の教育が日本独特の歴史と国柄――それを戦前は「国体」と称した――に基づくべきことは当然のことである。

 さらに、最も典型的な批判として「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」との文言を以て軍国主義だとする主張がある。しかし、国の防衛のために一命を捧げることは、今も世界中の国々が実践している普遍的な真理であり、軍国主義でも何でもないことは明らかだ。

 このように、教育勅語に対する批判の大部分は、いわれなき「為にする論」に過ぎず、教育勅語の精神は今も世界にさえ通用する「常識」と言えるものである。教育勅語についての渡部昇一氏の次のような指摘は、勅語のそうした性質を示すものでもあろう。

 「その短い勅語の中には、日本人の体質が凝縮されていた。だから、憲法を知らない人でも、教育勅語は知っていたし、暗誦できたと言えるだろう。そして明治憲法よりも国民のすみずみまで行き渡ったし、国民にも違和感がなかったのである」

 かくて、教育勅語は国民の道徳的指標として、明治の興隆を支える重要な柱ともなり得たわけである。明治期の徳育の混乱など比較にもならぬ教育荒廃に直面する今日、教育勅語の成立に注がれた先人の叡智と苦心に学ぶべきものは実に多いのではなかろうか。(日本政策研究センター研究員 小坂実)

〈『明日への選択』平成12年8月号〉