教育基本法「自主制定」説の虚構

教育基本法「自主制定」説の虚構

教育基本法には占領政策が刻印されている事実を忘れてはならない。


 

 小学校に広がる「学級崩壊」、あるいは大学生などについて懸念され始めた「学力低下」など、今やわが国の学校教育が重大な危機に陥っていることは明らかだ。だが最大の危機は、実はそうした事態への行政の対応が、「場当たり的」発想を抜け出ていない点にあると思われる。ただ、そうした中で、最近、自民党を中心に「教育基本法」の見直しがいよいよ本格的に検討され始めたことは注目に値するし、また是非とも期待したいところである。

 とはいえ、教職員以外の大部分の国民にとって、教育基本法はあまりにもなじみが薄いのも事実であろう。この基本法は、わが国がまだ米国の被占領下にあった昭和二十二年三月に公布された。「個人の尊厳」などの現行憲法の理念にふれた前文と、教育の目的や方針などを定めた十一の条文からなるが、「戦後教育の憲法」などとも言われてきたように、この基本法は戦後教育の「羅針盤」の役目を担ってきた。それ故、戦後教育が根本的に問い直されつつある現在、この見直しは避けては通れない課題と言える。

 自民党は、一昨年の「教育改革推進の提言」の中で、「教育基本法には日本の歴史・伝統の尊重、国民としての義務・道徳について明確に規定がない」として、基本法の見直しをまず提起。今年八月、党内に基本法の研究グループを作り、目下議論を進めている。また小渕首相も最近、教育基本法の見直しを軸とする教育改革を政権の主要課題にすえたい、との考えを表明した。

 しかし当然ながら、すでに左翼マスコミや知識人などが、こうした見直しの動きを封じ込めるための世論形成に動いている。注意すべきは、その種の策動において、教育基本法の制定経緯に関する一つの虚構が大新聞を通して流布されていることである。それは、教育基本法は日本人が「自主的」「主体的」に作り出したという謬見だ。例えば東京都立大前学長の山住正己氏は、朝日紙上で「現行の教育基本法は、当時を代表する知識人が衆知を集めて練り上げた。条文に米国の手が入っている憲法に対して、日本人が自主的に作り出したものだと言える」(10月27日)と断じている。

 しかし、実はすでに昭和六十年の臨教審の審議の中で、米占領文書の学問的研究を踏まえ、教育基本法が「日米合作」であった事実が明らかにされ、旧来の「自主制定」説は否定されている。それから十四年も経った今頃の「自主制定」説の蒸し返しは、それ故、戦後教育の根本的な見直しを阻むための意図的な「めくらまし」だと言わざるをえない。

 こうした動きを見ても、今後の教育基本法の改正論議においては、この基本法が制定された経緯――とりわけ米国側がいかなる意図により、いかなる字句や文言を修正せしめたか――への冷静かつ客観的な認識がきわめて重要であると思われる。そこで、本稿では教育基本法が制定された当時の状況を振り返り、「自主制定」説の虚構たる所以を明らかにしておきたい。

 

◆教育改革の目的は?

 まず、教育基本法の制定経緯そのものを検証する前に、戦後の教育改革を含む米国の対日占領政策の目的を改めて確認してみたい。教育基本法の制定という戦後教育の根本に関わる事柄は、決してこの占領政策全般の目的と無関係であろうはずはないからである。

 米国の占領政策の基本構想は、昭和十六年八月の米英首脳による「大西洋憲章」を起点として、その後のカサブランカ会談やカイロ宣言などを通して固められていった連合国の「対日処理構想」に求められる。そして、そこに流れる基本思想は、野蛮なる敵国の「哲学の破砕」――すなわち敵国懲罰思想にもとづく日本民族のいわば蕫精神的武装解除﨟にあったと言える。

 その後、紆余曲折はあるが、結局こうした基本思想が「降伏後における米国の初期対日方針」(二十年九月)の中で、「日本国が再び米国の脅威とならざることを確実にする」という占領政策の「究極の目的」として規定されることとなるわけだ。

 ここで注目すべきは、米政府内部では、こうした占領目的にそった戦後の教育改革構想が、わが国の敗色が濃くなってきた段階で、すでに十分に討議され、方向づけられていた事実である。例えば昭和十九年七月、国務省では「日本・軍政下の教育制度」なる文書ができているが、ここにすでに占領下に実施される修身、国史の廃止などが示されている。米国の一連の占領政策文書に一貫して見受けられるのは、戦後の教育改革の中心課題が「軍国主義及び超国家主義の影響力の排除」にある、との問題意識だが、占領軍はこの「脅威の除去」という基本方針を持って、戦後のわが国の教育改革に臨んだということである。

 占領期の教育改革に詳しい久保義三氏は、戦後の教育改革には「民主化の徹底」という面とともに、「脅威の除去」という「戦略的」な面があることを指摘する。これをさらに言えば、「教育の民主化」は「脅威の除去」を実現するための一つの手段に過ぎなかったと言うことでもあろう。

 事実、占領軍は昭和二十年十月から十二月の間、「日本教育制度に対する管理政策」や「修身、日本歴史及び地理停止に関する件」など、いわゆる「四大指令」と呼ばれる厳しい禁止的指令を矢継ぎ早に出している。それらの指令によって、「軍国主義的ないし極端なる国家主義的イデオロギーの普及」が禁ぜられ、「軍国主義的思想、過激な国家主義的思想を持つ者」等の教育界からの追放が始まり、国家と神道との分離が命じられ(神道指令)、さらに修身・日本史・地理の授業が占領軍の許可があるまで中止となる。

 その結果、例えば教科書は墨で真っ黒に消され、「大東亜戦争」「八紘一宇」などの言葉が公用語から排除されてゆく。まさに「脅威の除去」という占領目的に沿って、従来の教育思想が徹底的に否定されていったのである。

 そして、こうした地ならしの後、昭和二十一年三月、占領軍の招請によって米国教育使節団が来日し、六・三制の導入や地方分権化など「教育の民主化」のための改革案が勧告される。だが、その現実的目的は、耳に心地よく響く「民主化」にあったというよりも「総司令部の占領教育政策を追認させ、オーソライズすること」(杉原誠四郎氏)にあったと言えよう。

 実は敗戦直後、わが国はポツダム宣言にある「民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙を除去すべし」にもとづき、当時の前田多門文部大臣を中心に、わが国の自主的判断で教育刷新を進めていた。九月十五日に出された「新日本建設の教育方針」などは、占領軍の教育担当者が賞賛するほど改革の熱意が込められたものであった。しかし、米国教育使節団の勧告の結果、先の占領軍による「四大指令」は正当化され、日本側の自主的教育改革の芽はここに完全に奪われることとなる。

 一般に戦後の教育改革は、占領政策にもとづく「脅威の除去」と言うよりも、米国教育使節団の勧告に沿って、あくまでも「民主化」が徹底されていった過程とみなされている。だが、こうした通念はあまりにも皮相的で、事実にも反していると言わざるをえない。

 米国は戦後の教育改革を「脅威の除去」という占領の究極目的の一環として位置づけ、実際、こうした目的に沿った教育改革が「民主化」の美名の下に実施されていった。結局、こうした状況下においては、杉原氏が指摘するように「日本側の自主的教育改革の余地は、アメリカ側全体の意向のなかでは、はじめからまったくなかった」と言う他はないのである。

 

◆占領軍が演出した「自主性」

 こうした占領下の苛酷な現実にもかかわらず、冒頭に記したように左翼勢力は教育基本法について「日本人が自主的に作り出した」と主張する。実に不思議なことだが、勿論、そこには制定経緯に関わるいくつかの理由が存在する。例えば鈴木英一氏は、教育基本法の制定経緯に触れるなかで、「自主制定」説の論拠をこう示している。

 「同法制定の総過程は、田中耕太郎文部大臣の発意にはじまり、それをうけた文部省内の立案作業、教育刷新委員会第一特別委員会・総会の審議が行なわれ、法案の輪郭が定まるというように、日本側が一貫して主体性をもって推進したと言って過言ではない。このなかで、田中、南原繁、務台理作など代表的知識人は、日本国民の教育への願いを真剣に受け止めて、国民を戦争へ駆り立てた天皇制公教育を厳しく批判し、民主主義教育理念の生成に全力を注いだのである。
 これにたいし、占領軍は、教育勅語に代わる新しい教育宣言を教育基本法という法律でつくるという構想も、日本側のような切実な問題関心ももち合わせていなかったため、まったく後手にまわり、法案の全体像が定まってからコメントに乗りだすのである」

 すなわち、田中文相による発意に始まり、日本の文部省が要綱案を作り、それを日本の教育刷新委員会が審議した――。しかも、こうした過程全体の中で、占領軍は遅ればせながら「コメント」をしたに過ぎないというのである。こう言われれば、なるほど、占領軍の影響はさほど重視すべきものではないかのようにも思われる。

 確かに教育基本法の構想は、昭和二十一年六月二十七日、帝国憲法改正案が審議された第九十回帝国議会で、時の田中耕太郎文部大臣によって表明された。新憲法との関わりにおいて、新しい教育の基本的あり方を明らかにすべく、「教育に関する根本法」が構想された。また、文部省が要綱案を作り、それを日本の教育刷新委員会が審議したのも事実である。しかし、これらの事実をもって、教育基本法の制定について「日本側が一貫して主体性をもって推進した」と主張できるとはとうてい思えない。こうした「自主制定」論は、実は制定過程における二つの事実の重大性を敢えて無視した上に築かれた虚構とさえ言えるからだ。

 第一の事実は、占領軍が当時の日本側に課していた厳然たる制約である。言うまでもなく、戦後の教育改革に対する絶対的な権限を握っていたのは、総司令部・民間情報教育局(CIE)であった。そして、このCIEによって、文部省の機能は「教育使節団や教育刷新委員会の勧告を実施すること」に厳しく限定されていた。また、教育刷新委員会の方はCIEの「実質的支配」下におかれ、その「自主性」は「米国教育使節団の報告が示すガイドラインの範囲を越えないかぎり自由に活動することが許されたにすぎない」(ハリー・レイ氏)ものであった。

 鈴木氏は自著『日本占領と教育改革』の中で、「CIEが教刷委の自主性を提言した直後でもあり、教育基本法に関する限り、文部省と教刷委など日本側が主導権をもち、自主制定性が基本的に貫かれたと言ってよい」と、CIEが教育刷新委員会に認めた「自主性」なるものを重視する。だが、当時のCIEにとっての教育刷新委員会の位置づけを見れば、こうした見方は占領軍の「老獪な方法」に惑わされたきわめて幼稚な認識と言わざるをえない。

 そもそも教育刷新委員会は、米教育使節団来日の際、占領軍の要請で作られた「日本教育家委員会」(南原繁委員長)が、その後、南原の働きかけにより、内閣直属の機関に発展してできたものである。事実上、帝国議会をも超えた超建議機関と言ってよい。

 しかし、実はこの教育刷新委員会は、「日本教育制度の再編成において、CIE教育課から最も期待され、最もその意向を反映させて改革方針を提示する役割を負った」(久保義三氏)のである。というのも、CIEはこれを「遠隔操作」することにより、「日本国民の自主的改革によって、教育改革が行われているということを対内外的にも示す」ことができたからである。こうした「間接支配方式」は、「占領軍の押しつけ、強制的指令による教育改革は、国際的にも、また国内的にもそして日本人民にも反感を招くことになり、それは、避けなければならなかった」が故にとられた「老獪な方法」だったと久保氏は洞察する。

 すなわち、CIEが教育刷新委員会に認めた「自主性」なるものは、「文部省の独自な改革を牽制し、目するところのアメリカの教育改革を理解させ、それを建議させ、目するところのアメリカの教育改革を円滑に行う」(杉原氏)ために認められたものに過ぎない。「自主的に審議しても結局はアメリカ側の教育改革の意図に応えるよりほかはない」という厳然たる制約下におかれた「自主性」だったのである。それは、占領軍が巧みに演出した虚構としての「自主性」だったとも言えよう。

 昭和二十一年九月下旬から、この教育刷新委員会に設けられた第一特別委員会は、文部省から提出された教育基本法要綱案を約二カ月にわたって審議し、十一月下旬の総会で建議案を採択する。多くの委員は善意の努力をしたとしても、教育刷新委員会がおかれていた以上のような状況からすれば、そこでの審議が占領軍の影響を受けず、言葉の真の意味で「自主性」を保持しえていたとはとうてい思えない。

 

◆削除された「伝統尊重」

 次に、鈴木氏などの「自主制定」説が敢えて無視していると思われる第二の事実の重大性を指摘したい。占領軍による具体的な法案の中身に対する干渉である。

 今日、公開された米占領文書によって、昭和二十一年十一月から十二月にかけて、文部省と占領軍が週二回のペースで教育基本法草案の検討会議を行った事実が明らかとなっている。鈴木氏にしても、英文の教育基本法草案が十種以上も存在することを認めており、占領軍の「関与」の事実自体を否定しているわけではない。ただ、氏は関与の内容を「建設的な方向であった」と評価したいがためか、占領軍の圧力で「男女共学」条項が導入された事実などは指摘しているが、他方、日本側の「主体性」により密接に関わると思われる二つの事柄に対する占領軍の干渉については、なぜか軽視、あるいは無視しているのである。

 第一は、文部省と占領軍との検討の中で、「伝統を尊重し」という言葉が削除された事実である。すなわち、日本側が提出した要綱案の前文には、「普遍的にして、しかも個性ゆたかな伝統を尊重して、しかも創造的な、文化をめざす教育」とあったのが、占領軍の干渉によって、「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育」と修正させられた。

 後々、この「伝統を尊重し」という字句の削除の理由について、当時のCIE教育課の担当官トレイナー氏は、当時の通訳が「伝統を尊重するということは、再び封建的な世の中に戻ることを意味する」と述べたからだ、と答えている。ただ、この「伝統を尊重し」の削除は、当時の閣議でも再び問題となった。当時の文部省審議課長の西村巌氏は、「大臣がもう一度司令部へ行って来いということで、大急ぎで司令部へ行って、その話をしましたけれどね、やはり駄目でした」と証言している。

 すなわち、日本側は「伝統の尊重」という字句へのこだわりを見せるが、占領軍によって再度拒絶されたわけである。こうした事情を考えるならば、そこには、通訳の誤訳などといった偶然的な問題にだけは帰せしめられない、占領軍側のより明確な意図があったものと思われる。

 第二に、宗教教育に関する条項に対しても、占領軍は重大な干渉を行った。つまり、最初の要綱案には「宗教的情操の涵養は、教育上これを重視しなければならない」とあったのが、占領軍の干渉によって、現行の「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない」と、はなはだ曖昧な文言に修正させられたのである。こうした干渉の背景には、「宗教的情操」という考えに対する日米間の認識上の埋め難い溝があった事実を杉原氏は次のように指摘する。

 「アメリカ側には、一つの宗派宗教を信仰するとは、他の宗派宗教を排除するというような、キリスト教的観念が背景にあり、宗教的情操は特定の宗派宗教を信仰しなければならないのではないかとみたわけである。これに対し、日本側は、一つの宗派宗教を信仰してもそのことがただちに他の宗派宗教の信仰の排除を意味しないというシンクレティズムの強い仏教的、そして神道的観念を背景として、信仰にいたらないでも宗教的情操はありうるとみ、事実、歴史的にもそのような前提で用いられていたものだった。しかし占領下では、アメリカ側の意志が優先する。そのために現行のように変更しなければならなかったのである」

 言うまでもなく「伝統」や「宗教」といった事柄は、一国のアイデンティティー――すなわち正に「主体性」に密接に関わるものである。そして、まさにそうした民族の「主体性」に関わる事柄であったが故に、日本側との検討に当った占領軍の担当官は、「脅威の除去」という占領政策の究極目的に忠実に従って、占領軍の意志を強硬に押しつけたのであった。教育基本法に当時の占領政策の目的が深く刻印されてしまったことは、やはり否定できない事実なのではなかろうか。

 周知のように、教育基本法に対しては、「蒸留水のようなもので味もそっけもない」とか、「郷土、国、民族共同体に対する愛情、献身が全く欠落している」などとの鋭い批判が繰り返されてきた。こうした教育基本法の無国籍的、コスモポリタン的な性格の背景には、以上のような占領軍の重大な干渉が厳然と存在するのである。無論、こうした干渉が、「コメント」などと言って看過できる類のものなどではないことは言うまでもない。それどころか、こうした民族の「主体性」に関わる核心的部分への占領軍の干渉の事実こそ、「自主制定」説が虚構以外の何物でもないことを最も雄弁に示しているところなのである。

 

 最初に述べたように、昭和六十年の臨教審の審議の中で、教育基本法の制定過程に関して、旧来の「自主制定」説を否定する「日米合作」説が示されたのは、およそ以上のような事実を踏まえてのことなのである。「日米合作」説が「自主制定」説などよりもはるかに事実に合致した認識であることは、今や明白になったものと思われる。

 そこで、改めて問われるべきは、「日米合作」という事実が、教育という民族の文化や価値の伝達に深く関わる営みに突きつける意味についてである。この点で、教育基本法には占領政策の「産物」としての出生事情に伴う欠陥――すなわち「脅威の除去」「精神的非武装化」という占領目的が色濃く刻印されているという事実をわれわれは深刻に受けとめるべきなのである。もし教育という営みが、「古い世代が新しい世代へ、その国の文化を伝え渡してゆくはたらきに外ならない」(勝部真長氏)とすれば、占領軍による「伝統の尊重」という価値の排除は、教育そのものの自己否定と言っても決して過言ではないのである。

 占領下の厳しい主権制限時代に生み落とされた教育基本法であればこそ、今後教育基本法の改正問題を考える上で、その制定経緯の実態を再検討することは、きわめて本質的な意味を持つことを最後に強調しておきたい。(日本政策研究センター研究員 小坂実)

〈『明日への選択』平成11年12月号〉