「人権」を叫ばない人権派とは?

 現在、自民党の中で、人権擁護法案の提出是非をめぐる激しい議論が行われていることは周知のところだ。しかし、最近筆者にはこの議論がいかにもマンガ的というか、現実遊離の自己満足的議論に思われてならない。むろん、法案提出に反対して頑張っている同志議員たちの発言をいうのではない。「人権擁護」だの「人権救済」だのと安易に語られる、もっともらしい言葉の無意味さにマンガ的なものを感じてならないのだ。

 チベットにおける人権騒乱の問題が今世界の耳目を集めている。「人権擁護」を言うのなら、まずこの問題を抜きにして議論はないのではないかと筆者は思うのだが、なぜかこの法案の推進者と目される人々からの発言は聞こえてこない。「人権擁護充実の要請は世界的潮流」などとこれらの人々はもっともらしく言うが、今世界が怒り、何とかしなければならないと心を痛ませているこの中国の問題に何の関心ももたず、「世界的潮流」とは何という戯れ言か。

 人権救済のための「専門機関」が必要だと主張する人々は、その理由として、司法的救済の限界、個別法に基づく行政的救済の限界、現行の法務省人権擁護機関の限界等を挙げる。しかし、チベットで今人権を求めている人々は、そんなご大層な機関設立どころか、「人権」という叫び声を上げること自体を許されてはいないのだ。ここでは国家そのものが人権抑圧の張本人で、彼らは世界の人々に自らの命をかけて窮状を訴える他、なす術がないのだ。

 この人権擁護法案をめぐる議論では、「人権委員会」の設立が必要な理由として、とりわけ「公権力による人権侵害」なるものが指摘され、「捜査手続きや拘禁・収容施設内における暴行その他の虐待等」が例として挙げられている。確かにそうした問題が現にあるであろうことは筆者も認めないわけではないが、ならばチベットでは今何が起きているのか。

 この点、筆者にとって忘れることができないのは、国家安全危害罪なるもので懲役8年の刑を受けたウイグル人の人権活動家ラビア・カーディル女史が、次のように中国刑務所内の残酷な状況を語った言葉だ。

 「間もなくして、連れて行かれた部屋の、壁を隔てた両方の隣室から、男の呻き声が聞こえてくるのに気が付きました。ひとは様々な声を発する生き物だけれど、それは生まれて初めて聞く『音』で、人間の声というより、殺される直前の牛の叫び声、或いは巨大な怪物が地底から発している叫びのようでした。意識を失ったのか、声が途絶え、また再び叫び声が戻ってくる。苦しそうな悲鳴に、拷問の残酷さが想像されて、全身が震え、血液が凍っていくのを感じました。血の気が引いた私を見据え、担当の公安は私に『調子はどうだ』と聞いたのです」

 それはどのような拷問だったのか、ここは想像する他ないが、公安は後でその瀕死で血だらけになった男を彼女の前に運んできて、「おいっ……おまえの国を独立させてくれる英雄たちの最後の姿はこうだ」と嘲ったという。これを「公権力による人権侵害」などと言うと、言った方が恥ずかしくなるような気さえしてならないが、恐らく暴動鎮圧後のチベットの収容所では、これからはこういう暴虐場面が続くに違いない。

 むろん、「それはチベットという外国の問題で、われわれが議論しているのは日本における人権侵害の問題だ」と、推進者たちは言うかもしれない。しかし、それならそういう人たちは、例えばペロシ米議会下院議長が言ったという「自由を愛する人々が中国政府の弾圧に声を上げないなら、人権を語る資格を失う」との言葉をどう受け止めるのだろうか。繰り返していうが、チベットの人々は世界の心ある人々にチベットの窮状を訴え、外から「人権擁護」の声が上がることを求めているのだ。

 報道によれば、こうしたチベット人の声に応え、中国の人権状況に抗議の声を上げる人々の声が高まりを見せつつある。五輪開会式への出席ボイコットに初めて言及したのはクシュネル仏外相だが、25日にはサルコジ大統領も「あらゆる選択肢が開かれている」と開会式ボイコットの可能性にあえて触れた。それでこそ「人権宣言」の国だと思う。

 わが国では胡錦濤訪日が5月にあるが、果たして何がテーマとなるのか。「人権」抜き日中対話では、日本の国家的良識が疑われよう。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈今月の主張/『明日への選択』平成20年4月号〉