保守派こそ「中国の人権」に関心を持つべきだ

 「虐殺五輪」といった言葉が今世界を駆け巡っている。スーダンのダルフールで現在も進行中だとされる大虐殺を問題とし、その当事者たるスーダン政府と石油利権を介して緊密な関係にある中国政府に対し、同政府が圧力を行使してでもこのスーダン政府を動かそうとしないのであれば、オリンピック・ボイコットも辞さない、とする人権派の声だ。

 スーダンのダルフールにおける大虐殺などと言っても、この地域とほとんど関係のないわれわれには正直言って現実感が薄いが、一方アメリカや欧州ではこの問題に実に大きな関心があるらしい。メディアはもちろん、大物政治家、著名文化人なども続々キャンペーンに加わりつつある、と新聞などは報じている。

 とはいえ、北京オリンピックを問題にするなら、何も遠いアフリカのことなどわざわざ持ち出すまでもなく、中国そのもので生起している深刻な人権状況を問題にする方がもっとわれわれにも直接の関係があり、理に叶う話なのではなかろうか。中国で今進行しているのは、オリンピック準備を口実にした会場周辺住民の暴力的な追い立てであったり、不法な農地潰しであったり、治安確保を口実にした反政府派の拘禁や逮捕といった、およそ近代国家とすら言えないような暴虐であるからだ。

 この点、パリに拠点を置く「国境なき記者団」がむしろこの中国の人権状況の方を問題とし、その改善を求めてオリンピック・ボイコット運動に乗り出したのは大いに共感がもてよう。彼らは6年前、北京がオリンピック開催地に決まった時、中国政府当局から中国における人権状況改善の確約を得たとされる。ところが以後、中国政府はこれについて何らの姿勢変化も見せず、むしろ国民に対する圧力は年々強化される一方であることに彼らの不信と怒りは爆発した。かくて彼らは手錠で五輪をかたどった北京オリンピック反対のシンボルマークを作り、「人権聖火リレー」なるものを世界各都市で繰り広げつつ、中国における人権改善の趣旨を訴えていくのだという。

 人権などというと、「それは左翼の言うことではないか」などといった否定的反応を示す人がこの日本では多いが、これは実にすばらしい企画ではないかと筆者は思う。中国で今進行中の貧しい農民や労働者たちへの非人間的仕打ち、日々国民を監視する「諜報政治」、そして政府に勇気をもってモノを言う正義の士たちに対するむき出しの暴力、などといった現実を考える時、これは人間として無関心であってはならないことだと思えてならないのだ。というより、われわれ保守派こそが、この人権という言葉を中国政府に対し突きつけていくべきではないのかと思う。

 むろん、オリンピック・ボイコットなどというと、多くの国民は驚いて、むしろ何たる独善的主張かと怒り出す人もいるに違いない。メダル獲得を目標に日々精進している選手や、観戦を今から楽しみにしている国民のことを思えば、当然の反応でもあるからだ。しかし、そうした事情を重々踏まえた上でなお言いたいのは、ならばこの日本からそうした声が全く起こらなかった場合、それでもあなたはそれを良しとするのですか、ということなのである。

 報道によれば、オリンピック開会1年前に当たる8月8日の前日の7日、中国の著名な民主・人権活動家や作家40人が、胡錦濤国家主席あての公開書簡をネットなどを通じて発表したとされる。彼らはその中で、北京オリンピックは誰のためのオリンピックなのかと問い、「中国の人権状況はわれわれを失望させ、苦しめ、怒りを募らせている」と指摘、政治犯の釈放や亡命者の安全な帰国など人権状況の改善を訴えたという。署名者の中には現に今も公安当局者による、家族も含めての24時間の自宅監視、つまり事実上の軟禁下に置かれている人権活動家もおり、彼らの命を懸けた訴えの重みといったものがひしひしと伝わってくる。

 そうした異議分子の一人、民主派作家として知られる劉暁波氏は「政治化した北京五輪」と題する論文において、中国政府にとってのオリンピックの意味を、「政権の実績をつくり、共産党の一党独裁体制をさらに強固にする狙いだが、汚職官僚の私腹を肥やし、病的な民族主義を膨張させる結果となる」と断じている。

 こうした人々の声に、もっと関心をもつべきではなかろうか。(日本政策研究センター所長 伊藤哲夫)

〈今月の主張/『明日への選択』平成19年9月号〉