正当な「国家論」の復権を

正当な「国家論」の復権を

改憲の最大の眼目は、この日本という国家を「国家たらしめる」ということにある。ということは、まず問われるべきは、何をおいても「国家の国家たる所以」の位置づけである筈だ。


◆白アリに蝕まれる国家の土台

 冷戦の終結によって、共産主義帝国ソ連の脅威という「前門の虎」が退散したと安心したのも束の間、今度はある意味ではより危険な、内部から国家の存立を脅かさんとする「後門の狼」がじわじわとわが国に忍び寄っている――。勝田吉太郎氏は最近ある雑誌で、このようなことを指摘している。「後門の狼」とはいうまでもなく、この日本という「国家」を内部から解体せんとする反国家的動向のことである。

 自国の過去を「敵国」のごとく断罪してやまない自虐的歴史教科書、アジア近隣諸国への「謝罪と補償」を〈党是〉と公言して憚らない自称「市民政党」(民主党)、「バスに乗り遅れるな」といわんばかりに在日外国人の「公務員採用」を競い合う地方自治体、そして「国家の意志」よりも「住民の意志」といわんばかりに「住民反乱」を煽るマスコミ……、まさにわが国は、国家解体をもくろむ一部反日勢力による「内部」からの侵食によって、未曾有の国家的危機を迎えつつあるという現状だといえよう。

 むろん、それだけではない。それに歩調を合わせんとするかのごとく、今や保守派の中からさえ奇妙な声が出始めている。曰く「国家という言葉には何となく違和感を感ずる」「国家、国家というのは感心しない」「国家などというものを超えた『地球市民』の発想が必要だ」……等々、国家の存在をことさらに軽視し、その役割をいかにも進歩派的なポーズで否定してみせる、といった一連の声が台頭し始めているのである。こうした最近の傾向を、佐伯啓思氏は次のように解説している。

 「ここには薄められた『サヨク』としての進歩主義だけでなく、いわば旧保守派の進歩主義という奇妙なものまで入るのだ。それはグローバルなリベラル・デモクラシーとグローバルなキャピタリズムの勝利を全面的に認める、という進歩主義である。むろん、ここには、いくつかのヴァリエーションがある。このヴァリエーションのひとつの極には市民主義や朝日新聞が存在し、他方の極には経団連や日経新聞が存在するのである」

 今や「国家」だの「国民」だのという時代は終わり、ボーダレスの時代、あるいは「地球市民」の時代だと、いわば朝日も日経も、あるいは市民団体も経団連も、挙って囃し立てるという次第であるわけだ。そこにはもはや、保守だの革新だのという区別はない。つまり「赤アリ」のみならず「白アリ」とも呼ぶべき勢力による、歩調を合わせた日本国家の土台侵食が進みつつある、という構図だといえよう。

 

◆ボーダレス時代は夢物語

 それではこうした状況に、われわれはどう対処すべきなのだろうか。

 ここではまず、簡単な事実を確認することから、話を始めることにしたい。このような安易な形で国家を否定するということが、いかに重大な誤りであるかという、端的な二、三の事例の確認である。

 まずは領土問題。人々は、今やボーダレスの時代であり、例えばインターネットを使って、あるいは国際的なNGOを作って、人権や環境保全などを合言葉に、いわば国家と国境を超えた「地球市民」の関係を作り上げていけば、それですぐにでもこの種の問題を解決できるかのごとく主張する。かかる「地球市民」の関係に立てば、人々は「領土争い」などという「狭いエゴ」から解放されて、「人類的立場」で公正に考え、博愛主義的に行動できるというわけだ。しかし、本当にそんな夢物語は成り立つのだろうか。

 例えば、南沙諸島をめぐる領有権問題を考えてみよう。そこにあるのは、国家意志と国家意志の妥協を許さぬ厳しい対立である。

 八八年三月、中国海軍とベトナム海軍が同海域の赤瓜礁で交戦した。中国側からすれば、「ここは中国の領土であり、ベトナム武装人員は排除されるべきだ」ということであった。一方ベトナム側からすれば、「ベトナムの領有権と主権に対する侵犯」があったので当然応戦した、ということであった。――いずれにせよ、そこにあったのは両国の「国家の威信」をかけた非妥協的な国家意志の激突であり、まさにそれゆえにこそ武力行使という非常の手段がとられたといえる。ボーダレスだの地球市民だのという言葉の入り込む余地は、そこには全くないといっていい。

 中国とフィリピンの間も同様である。九五年二月、フィリピン領ミスチーフ礁に中国の艦船が出没し、鉄柱のコンクリート製組立式の建物を構築した。フィリピン政府は即刻実力部隊を投入。中国漁船四隻を拿捕し、乗組員六二人を逮捕した。フィリピンにとって中国は、まさに「小犬に巨象」だとしても、ことが国家主権の根幹に関わる限り、彼らとて断固実力を行使せざるを得ないということであったわけだ。「国境の不可侵性」は依然として、何をおいても守られるべき「聖域」なのである。

 次いで指摘したいのは、経済と国家という問題である。

 経済の論理というものが、いよいよ支配的になりつつあるという世界の趨勢は、むろん否定すべくもない。しかしそれなら、そうした経済の論理だけで今日の国際社会の全ては語れるのだろうか。

 例えば日米関係である。いうまでもなく、両国にとって今なお最重要の問題は安全保障の問題である。いかに経済的相互依存関係が進もうとも、あるいはボーダレスな関係が支配的となろうとも、安全保障上の問題が完全に解消されてしまうような事態は今後も絶対にあり得ない。いわば間欠泉のごとく、それは両国の間に深刻かつバイタルな問題を永久に提起し続けて止まないといえるのだ。

 国際情勢の緊迫とともに噴き上げる「安保ただ乗り」批判、あるいは「防衛分担」要求、そして最近の「日米安保解消」論……、要するに日米関係の根底には、経済には解消され尽くせない微妙な政治問題、外交問題が厳然としてあるということだ。問題は経済であって、政治や軍事についての配慮はもはや「二の次」の問題、などという呑気な姿勢では到底おれないということでもあろう。

「現状での憲法解釈からみて、日本は、共通の敵勢力によって攻撃されている同盟国を支援することができない。ペンタゴンは、米国が韓国を防衛するために大きなリスクを引き受けているときに、日本の戦艦がそれを傍観しているというシナリオを真剣に検討すべきである。(実際にそうなれば)日本の防衛を米国が支援することへの米国大衆の支持は、即座に消滅してしまうだろう」

 日米安保解消論の旗手・チャルマーズ・ジョンソン氏はこのように指摘している。かかる有事の場合、日本が同盟国として、断固米国支援の行動をとらなければ、その時にはもはや日米安保も何もないだろう、と氏はいうわけだ。

 むろん、破綻は安全保障の領域に留まらない。そうした政治・外交関係とともに、経済関係もまたどん底の状況に落ち込むのが必定というべきだろう。つまりボーダレス経済どころか、まさに日本という「国家」に対する不信が頂点に達する政治の文脈の中で、その時わが国の経済は決定的局面を迎える、という話なのである。

 

◆国家は防衛共同体

 さて、こうした認識を踏まえれば、もはや国家だの国境だのという時代は終わったなどという、冒頭のような主張の誤謬も明らかになるだろう。国家は決して「いずれ超えられるべきもの」などではなく、むしろわれわれの生活の根底にいつもあり、われわれの存在を今日なお確固として規定するものだということなのだ。

 しかしながら、こうした当然の認識が、わが国ではなかなか育たない。むしろ冒頭にも指摘したごとく、政治家たちはやれボーダレスだ、やれ地球市民だと、国家という存在からの逃避に余念がないのが実情といえる。果たしてこのようなことで、わが国は今後の厳しい国際政治場裡を生き抜いていくことなどできるのだろうか。

 その意味で、今こそ正当な国家論の復権が求められるといえるのではなかろうか。国家とは要するに何か、そしてそこで最低限求められるものは果たして何なのか、という問いに対する正面からの答えが今求められるのだ。

 以下、筆者なりにそれに答えてみたい。

 国家というものの存在の意味を、ぎりぎりにつきつめる時、われわれの前に現われるのは、国家とは「防衛の機構」だという命題である。国家はその領域内の平和と秩序をまず外敵の侵略から防衛し、国民の生命と財産と自由を断固守る。それがまず第一義の存在意義だからである。

 アメリカ憲法前文は、このことを端的に、次のように宣言している。

 「われら合衆国の人民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫の上に自由の祝福のつづくことを確保する目的をもって、アメリカ合衆国のために、この憲法を制定する」

 ここでわれわれがとりわけ注目すべきは、この中の「正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え」との一節である。「福祉の増進」や「自由の確保」というのは、当然掲げられるべき目的だが、そのためにはある確かな“前提”が必要なのである。ボスニアやアルバニアの例を持ち出すまでもなく、国家秩序そのものが崩壊すれば、福祉だの自由だのというものは、求めても得られない。ということは、まず何よりも「平和と秩序」が確保されることが前提となるのである。つまり「正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え」ということである。

 ところで、周知のごとく、先のアメリカ憲法前文をまさに模倣するがごとく作られたのが、わが現行憲法前文であった。しかし注目すべきは、ここには国家の目的として「正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え」という言葉が、見事に欠落せしめられているという事実である。それを担当するのはアメリカと彼らが思ったのかどうか、まさに戦後日本は「国家というものはまず自らを防衛するものだ」という国家の国家たる所以を、明確に否定される所から出発したという屈辱的な話であるわけだ。

 ペルーにおける日本大使公邸占拠事件が解決された時、フジモリ大統領は国民に向け、「われわれは民主主義の基礎を作った。世界に対して模範を示した」と宣言したという。それはまさに、ペルーは「正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え」た、と宣言したと同様のことだったといえるのではなかろうか。ペルーは自らが国家であることをこの時確認し、それを世界に敢然と示したということなのだ。一方、これを否定された日本は、終始「平和的解決」という空しい言葉しか吐くことができなかったのである。

 

◆国家を支える国民の「意志」

 さて、国家が以上のようなものだとすると、それに次いで要求されるのは、そのような国家を身をもって支える「積極的な国民」という命題であろう。というのも、そうした国民がいなければ、そもそも国家は「防衛共同体」たり得ないからである。ここではやはり、まずアメリカ憲法を参考に、この問題を考えてみたい。同憲法修正二条は次のように規定している。

 「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保蔵しまた携帯する権利は、これを侵してはならない」

 読んで字のごとく、国家を守るのは市民からなる民兵であり、そのためには市民の武装の権利が侵されてはならないという規定である。そもそもアメリカ人の基本精神は、自分の身は自分で守り、自分の財産は自分で築く、という所にあるとされ、そうした独立した個人が集まって自らの国家を守る、という精神が、いわゆる「共和主義の精神」だとされてきた。つまり、アメリカという「防衛共同体」は、かかる国民精神によって初めて成り立つ、とされてきたのである。

 ちなみにいえば、こうした考え方は何もアメリカだけの話ではない。国民が「自らの国を守る」というのは、実は国家が国家である限り要請される「人類普遍の原理」であるとさえいってよい。ここでは参考までに、いくつかの国の憲法条文を紹介しつつ、この事実を確認してみたい。

◇「男子にたいしては十八歳から軍隊、国境警備隊、または民間防衛団における役務に従事する義務を課することができる」(ドイツ連邦共和国基本法第一二条a)

◇「祖国の防衛は市民の神聖な義務である。兵役は、法律の定める制限および態様において、義務的である」(イタリア共和国憲法五三条)

◇「すべての市民は、共和国に忠誠であり、ならびにその憲法および法律を遵守する義務を有する」(同五四条)

◇「いずれのスイス人も防衛義務を負う。市民的代替役務については法律でこれを定める」(スイス連邦憲法第二条)

◇「すべての国民は、法律の定めるところにより、国防の義務を負う」(大韓民国憲法第三九条一項)

 つまり、表現の仕方はいずれにせよ、国家とは国民の「国家防衛の意志」をまず例外なく要求する存在であると同時に、また逆の面からいえば、それによって初めて成り立つ存在でもある、ということなのである。

 

◆国家と国民の物語

 ところで、これまで国家は「防衛共同体」であり、それは国民の積極的な「防衛意志」によってこそ、強固に支えられるものであると述べてきた。しかし加えて、その国家と国民を心の世界で結ぶもう一つの「何か」がなければ、この「一体の構図」も成り立たないといえるのではなかろうか。

 国家が「防衛共同体」だというのは、誰にでもわかる明快な事実である。しかし、本来それによって生命と財産を守られるべき国民が、場合によっては、自らの財産のみならず生命までをも、逆にその国家に差し出さなければならないとしたら、それはどう考えても背理という他はなかろう。

 だとすれば、それを背理としないためには、国民をして「国家への献身」を当然と信ぜしめるに足るだけの、ある「精神的契機」が要請される筈なのである。それが以下に述べる「国家と国民の物語」ということなのだ。

 先に見たアメリカ憲法前文には、「正義を樹立し」という言葉があった。これはアメリカが、単なる国民の生命や財産に対する「防衛体」であるというだけではなく、同時に「正義」のための「防衛体」でもある、ということを示すものだといえる。アメリカという国は、まさにこの「正義」を体現する存在であり、むしろアメリカ国民は、その「正義」を守るためにこそ、いざとなれば国家に生命をささげるのだ、というのが、このアメリカ憲法の精神でもあったわけだ。つまり、そこに機能している「正義の物語」こそが、例の「アメリカは自由のために建国された」という、アメリカ版「国家と国民の物語」なのである。

 むろん、これはアメリカだけの話ではない。どの国にも例外なくその国なりの「国民と国家の物語」があるともいえる。それがそれぞれの国民を「本来の国民」たらしめるべく精神的に鼓舞するのであり、またそれぞれの国家を、「精神なき堕落」の道から軌道修正せしめる「規範」ともなるということなのである。

 前出の佐伯氏は次のように述べている。

 「あらゆる人為的構成体はなにがしかの神話を、フィクションを必要とする。それは国家だけでなく、企業においても、宗教団体においても同じである。この事情は、本質的には、一人の個人においてさえも何ら変るものではない。自分が何者であるかということに関する一切の『神話』から無縁で生きている者などまずは存在しないであろう。

 むろん、その中で、国家という集合体の『神話』が決定的に重要な意味をもっていることは否定できない。したがって、また、『神話』が崩壊すると、国家は危機に瀕し、また国家が危機に瀕するとき、神話がことさら叫ばれるのである」

 ちなみにいえば、この「神話」―「国家と国民の物語」がわが国において、完膚なきまでに否定されたのが、かの占領政策においてだったことは、改めていうまでもなかろう。われわれ日本人はそれにより、それまで国家と国民を固く結びつけてきた「精神の絆」を切断され、冒頭でも見てきたような「国家ならざる国家」へと一方的に貶められることとなったのである。

 「一国の人々を抹殺するための最初の段階は、その記憶を失わせることである。その国民の図書、その文化、その歴史を消し去ったうえで、誰かに新しい本を書かせ、新しい文化を作らせ新しい歴史を発明させることだ。そうすれば間もなく、その国民は、国の現状についても、その過去についても、忘れ始めることになるだろう」

 チェコの小説家ミラン・クンデラはこのように述べるが、まさにこれと同じ状況へと落ち込まされたのが、われわれ戦後の日本人であったといえるのだ。

 

◆ここに「改憲論」の眼目がある

 ここでもう一度、以上述べてきたことを確認したい。

 「防衛共同体」たる国家は、それだけでは成り立たない。そのためには、身をもって献身してくれる「国民」が必要だといえる。しかし、その一方「国民」というものは“即自的”に成り立つものでもない。そのためには国家の成員を、自覚をもった「国民」へと形成する「精神的契機」が必要だともいえる。それが以上に見てきた「国家と国民の物語」というものなのである。

 すなわち、当の国家を、生命を捧げても悔いのない「特別の存在」として認識せしめるとともに、自らをその国家に(あるいはその墓下に眠る「死せる先人たち」に)精神的につながる一人の「国民」として意識せしめる「精神の物語」がまさに要請されるということなのである。

 さて、もはや残された紙数はほとんどない。以下は要点のみ、結論として述べるに留めたい。

 最近、様々な所で憲法改正ということが話題になる。しかし、そのほとんどはピント外れというのが筆者の率直な感想である。というのも、それらは全てといっていいほど、以上に見てきたような「国家の本質」への問いを見事に欠落させているからである。

 憲法改正の最大の眼目は、この日本という国家を「国家たらしめる」ということにある。ということは、まず問われるべきは、何をおいても「国家の国家たる所以」の位置づけである筈なのである。なのに、ほとんどはこの問題に触れることすらしない。一体この肝心な問いを外して、この国のどこをどうしようというのか、というのがここで筆者が指摘したいことなのだ。

 冒頭にも指摘したように、国家を無視しよう、弱くしよう、というのが最近の傾向であった。しかし、この傾向は、まさに憲法改正論議の中にこそ、如実に現われているのではないかといわずにはおれないのである。

 これでは国家再建などあり得ないだろう。今こそわれわれはこの「国家なき日本」を直視し、そこからの脱却を本気になって考えるべき時だと思うのだが、どうだろうか。(日本政策研究センター所長 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成9年10月号〉