日朝交渉・まず原則的論議を

 6月の南北首脳会談に続き、この度クリントン米大統領が訪朝準備に動き出したことで、わがマスコミでは又しても「バスに乗り遅れるな」の大合唱が起ころうとしている。何しろ朝日にいわせれば、今「朝鮮半島の構図が地響きを立てて動いている」(10月30日)というのが彼らの時代認識だそうだからだ。筆者は読んでいて思わず笑ってしまった。

 こういう大騒ぎは、つい最近にもあった。今から10年前、「ペレストロイカ」を掲げて登場したゴルバチョフ書記長をめぐり、世界が一斉に沸いた時である。またその後、中東和平に世界の眼が集中した時もそうだった。しかし、そのロシアはエリツィン時代を経、そしてプーチン大統領の下、今はどこへいくのかさえわからない迷走の中にある。また、ノーベル平和賞の対象になった中東和平では、まさに今、イスラエルとパレスチナの間で激しい流血の惨事が現実化している。世界は大きく変わるように見えたとしても、決してその流れは単に一方向のものではあり得ないということなのだ。

 そういう中で、最近「それでこそ」との思いにさせられたのが、訪朝を急ぐクリントン政府を批判した米マスコミの論調である。自由主義陣営のリーダーとしての気概も原則も見えなくなってしまったこの米政府の動きには、正直いって「ブルータスお前もか」の思いが募っていたのだが、やはりこの国にも正論の士はいるとの思いに改めてさせられたからだ。これがなければ、筆者は「この世界に正義なぞはない」との不信感に落ち込んでいたことだろう。

 ちなみに、ロサンゼルス・タイムズはこの問題に対し「北朝鮮はそんな贈り物を受けるに値することはまだ何もしていない」と断じつつ、次のように書いたという。

 「北朝鮮の米国との交渉は信義ではなく核のゆすりに基づくもので、米政府は臆病にもそれに応じた。金正日朝鮮労働党総書記は国内では、世界で最も過酷で抑圧的な警察国家を運営している」

 一方、ワシントン・ポストの批判はもっと強烈だ。これを伝える産経の記事によれば、同紙社説はオルブライト国務長官の訪朝時の姿勢を取り上げ、「(マスゲーム観覧の際)国務長官が本質的に奴隷と化した労働者十万人が自身と世界で最も抑圧的な独裁者のために演技しているときにスマイル写真を撮らせたことに、われわれは驚いた」とし、同長官が「北朝鮮政治犯15万人の存在」について「一言も発しなかったこと」を強く非難したという。

 それだけではない。同紙は続けて「米指導層が何らとがめることなく独裁者と乾杯すれば、自由のために戦う人々の意気を沮喪させる」とまで書き、米国は自由のために戦う人々にとって、依然として特別の国であるべきだと説いたともいう。

 一方、わが国では、森首相の「第三国」発言をめぐり一騒動あったことは周知の所である。しかし、この事件でもまた改めて、わが国の無原則・無思想ぶりを痛感せしめられることとなった。拉致事件は国家として容認しがたい主権侵害事件であり、それを行った北朝鮮はわが国と原則を根本から異にする全体主義国家だという前提がここにはないからだ。「いや政治は妥協だ」という反論もあるかも知れない。しかし、同じ妥協をするにもその前提となる原則的議論がまず重要なのだ。

 報道によれば、日朝交渉においてわが政府は、拉致問題に対する北朝鮮側の態度がきわめて固いのを踏まえ、とりあえず「過去清算」の話から双方の合意点を探っていく方針だという。そしてその「落し所」として、早くも1兆円などという数字もささやかれ始めている。しかし、一体これは先方とどの程度原則的な話をした上での方針なのだろうか。

 たしかに政府としては、現在の金正日体制を認めないという姿勢での交渉はできないのかも知れない。しかし、わが国は少なくとも現政権の延命に手を貸すようなことだけは断じてすべきではないと思うのだ。

 今も北朝鮮にはこの政権の圧政によって、地獄のような生活を強いられている国民が数多くいる。そうした非人間的体制を念頭におくことなく、あるいは拉致された同胞の悲惨な運命を第一に思うことなく、一体どうやって国交正常化などできるというのだろうか。

 北朝鮮が「最低限の行動を見せるまでは待つ」とシラク仏大統領は述べているという。日本こそ、こうした姿勢で待つべきではないのか。(日本政策研究センター所長 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成12年11月号〉