「盗人猛々しい」とはこのことだ

 何であれ、日本との歴史問題が絡めば韓国という国はすぐに暴走をはじめるようだ。ご存じの方も多いと思うが、去年10月に長崎県対馬の観音寺というお寺から仏像(観世音菩薩坐像)を盗んだ韓国人窃盗団が今年1月に韓国の大田で捕まり、仏像も回収された。ところが、この仏像は「14世紀に倭寇に略奪されたもの」などと日本への返還を差し止める訴訟が起こり、大田地裁が「観音寺が正当に取得したことが確定するまで返還しない」との仮処分を決定したのである。

 言うまでもなく、仏像を盗む行為は窃盗罪にあたり、それを返還しないのは文化財の不法な輸出入を禁じたユネスコ条約違反となる。しかし、韓国は仏像を盗んでおきながら、600年前に正当に取得したことを証明しろと言うのだから、国ぐるみで「盗人猛々しい」と言わねばならない。

 

 そもそも仏像の流出は朝鮮側の事情が決定的に影響している。李氏朝鮮の時代には「揚儒排仏」という仏教弾圧が行われ、前代の高麗時代には1万あったと言われたお寺は李朝初期に242カ寺に減らされ、最終的には36カ寺だけを残して他の寺は廃寺にされた。僧侶は都に入ることを禁止され、賤民に身分を落とされた。伽藍は解体され、石仏は首が切り落とされたという。タリバンがバーミアンの石仏を破壊したのと同じことを李朝は600年も前にやっていたのである。

 対馬の社寺に所蔵されている新羅や高麗時代の仏像は、そうした仏教弾圧で破壊され、廃棄された仏像が渡ってきたものと言われている。法律や条約によらなくても、韓国に留め置かれる理由はない。

 

 「倭寇による略奪」というのも眉唾である。教科書的に言えば、「倭寇」つまり日本人海賊は、14世紀に朝鮮で活動した「前期倭寇」と、15世紀に中国沿岸で活動した「後期倭寇」に分けられ、後者は中国の密貿易者が中心だったが、前者の大半は日本人だったというのが定説とされている。この前期倭寇の活動期が高麗末期から李朝初期で、「揚儒排仏」と重なり、そのために「倭寇が仏像を略奪した」などとも言われるのだが、「前期倭寇=日本人」説に対しては有力な反対論がある(例えば田中建夫「倭寇と東アジア通交圏」や村井章介『中世倭人伝』など。以下の引用は『中世倭人伝』による)。

 李朝時代の公式記録である『朝鮮王朝実録』には、「前期倭寇」について「倭人は一、二に過ぎずして、本国(注・朝鮮のこと)の民、仮に倭服を着して、党をなし乱をなす」という記事があり、李朝時代に編纂された『高麗史節要』という正史は朝鮮の賤民集団が「山谷に群衆し、詐って倭賊となり……」と記している。

 定説では朝鮮を襲った「倭寇」は対馬を拠点もしくは中継点としていたとされるが、一方で「王朝実録」は数百隻の船と数百の騎馬兵、数千の兵を擁して各地で略奪する「倭寇」の姿を記録している。そうした厖大な船、馬、人員を玄界灘や朝鮮海峡を越えて海上輸送することは不可能に近い。そこから田中氏などは朝鮮を襲った前期倭寇は、日本人と朝鮮人の連合集団か朝鮮人のみの集団だったと言うわけである。

 この「前期倭寇=朝鮮人」説には反論もあるが、説得力のある説ではある。当時は、半島の海沿いに住む朝鮮人は「戸籍に載らず、海中に出没し、学びて倭人の言語・衣服をなし、採海の人民を侵掠す」などと記録されている。「倭服」を着て「倭語」を話せば、日本人だけでなく、みな「倭人」とみなされる時代だったことは確かだと言える。

 韓国が持ち出す歴史問題には、必ず日本は加害者、朝鮮側は被害者という単純図式が背景にあるが、「倭寇による仏像略奪」もまさに同じパターンである。つまり、韓国政府が日本に要求する「正しい歴史認識」も、言い掛かりをつけて盗品を返還しないのと同じ低レベルの代物だということでもある。(日本政策研究センター所長 岡田邦宏)

 

〈『明日への選択』平成25年4月号〉