「岸ドクトリン」の再評価 貫かれた国家への使命感

「岸ドクトリン」の再評価 貫かれた国家への使命感

 あれから四十年余、岸が見ていたものが今のわれわれにはよく見える。彼がめざした安保改定も、憲法改正も、日本が自らの意志をもった国家たらんとするならば、当然乗り越えていくべき必須の課題であることはもはや明らかだからだ。しかし、それが保守派全体の常識になるためには、四十年余が必要だったのだ。岸の先駆性がわかるというものだ。


 今年(平成15年)一月号より七月号まで岸信介論を書かせていただいた。巷間いわれる「吉田ドクトリン」というものがもしあるとするなら、一方「岸ドクトリン」というものもまたあるのではないか、という年来の考えから、戦後「独立日本の政治」を求め、保守合同と安保改定を実現した岸の政治的業績を論じてみようとしたのである。お陰様でその連載も前号の七月号で完結した。読者の皆様には心より感謝申し上げる次第である。

 とはいえ、正直な気持ちをいうと、筆者にはまだ書き足りない気持ちが残っているというのが実際のところでもある。雑誌連載という性格からいえば当然のことなのだが、紙数が毎回限られており、時代背景や事件の細部を充分に記述できなかったという不燃感が残るからだ。と同時に、何より岸信介論と銘打ちながら、実は肝心の筆者にとっての岸信介観がほとんど書けていない、という未達成感を否定できないのである。

 わがままといわれれば、誠に弁解のしようもない話なのだが、これが最終回を終えての筆者の率直な思いであった。かくて、もう一度「補遺」のようなものを書かせてはもらえないか、と編集部へ厚かましい希望を開陳する次第となった。その結果が、以下に掲載する番外編ともいうべき岸信介論である。割愛せざるを得なかった細部の記述は別としても、何としても筆者の岸信介観の骨格部分についてだけは最低限補っておきたいというのが、筆者の止むに止まれぬ思いだったのである。

 

◆強烈な使命感

 岸信介という人物を対象に据えてみて、まず何よりも強い印象を受けるのが、その「国家的使命感」というものの強烈さである。それは「自分を措いて国を担う者はいない」という自負心と表裏の関係にあるともいえるものだが、その明確な一貫性は岸の全人格を貫く骨格そのものだといって過言ではない。岸について論ずる場合、われわれはまずこの岸の特質から論じ始めるのが正当な手順だというべきではなかろうか。

 岸は明治二十九年、佐藤秀助・茂世(もよ)の次男として山口県に生まれた。彼は中学三年の時に父の生家である岸家の養子となり、以後岸姓を名乗ることになる。同じく後に首相になる佐藤栄作がその実弟であることは余りにも有名な話だが、一方、岸の兄である市郎が海軍中将にまで上りつめた生粋の軍人であることの方は余り知られていない。

 岸が生まれた明治二十九年は日清戦争が終わった翌年でもあった。前年、郷里の偉人でもある時の総理大臣伊藤博文と李鴻章は講和条約を取り纏めているが、その講和談判の舞台となったのが県内の下関であった。明治維新の一方の雄といえば、人々は誰もが長州を想起するが、岸や佐藤はまさにかかる歴史の主舞台ともいえる長州という地に生を享け、その先輩達がまさに綺羅星のごとく国家の最前線で活躍しているのをその視界に捉えつつ、この時代の空気を満身に吸収しながら精神形成していったのである。北岡伸一氏はそうした長州の空気ともいうべきものを次のように指摘している。

 「もう少し時代を下ると、日露戦争が終わった時、信介は八歳だつた。戦争中、総理大臣は桂太郎、枢密院議長が伊藤、参謀総長が山県有朋、陸軍大臣が寺内正毅、満洲軍総参謀長が児玉源太郎と、いずれも長州出身者であった。それが山口県人にとって、どれほど誇らしく、感激に満ちた時代だったか、想像に難くない」(『戦後日本の宰相たち』)

 ところで、この長州という岸の精神的背景については、もう一つのことを指摘しておかねばならない。それは岸の曾祖父たる佐藤信寛のことだ。彼は岸が六歳の時にこの世を去るが、岸にとっては生涯にわたる憧憬の人であった。「曾祖父は王事に奔走した人」と岸は誇らしげに回顧録に書くが、彼は若い頃、吉田松陰、木戸孝允、伊藤博文、井上馨といった明治維新の志士たちと交際をもち、明治に入ってからは最初の島根県令を務めた人物であった。それゆえ岸にとっては、この信寛の存在そのものが明治維新の空気を伝えるものであり、彼と交わった維新の志士たちは決して遠く彼方の存在ではなかったといえる。岸がこれら先輩たちの系列の中に将来の自分の姿を投影し、自分もまた彼らに続く国家的使命を担っているのだと強く自負したとしても、それはむしろきわめて自然な感情だったというべきだろう。

 と同時に、佐藤家は実に教育熱心な家系でもあったようだ。母の茂世の弟であった松介は東京大学で医学を学び、その後岡山医専の教授になった人物であった。彼は甥である岸の才能に目を付けるや、その岸を山口の田舎から岡山に呼び寄せ、わざわざ家庭教師までつけて、当時中国一の名門という呼び声の高かった岡山中学に入学させようとしたのである。そして岸がこれに合格するや、今度はイギリス人による英語の家庭教師をつけ、岸の才能に更に磨きをかけようとまでしたのである。

 しかし、この松介は岸が中学二年生の時に急死する。すると今度は茂世の妹の夫で、山口中学の教師をしていた吉田祥朔がこの岸を引き取り、山口中学に入れ、徹底的に教育するのである。岸に、精魂込めて吉田松陰の「至誠」の精神を植え付けたのもこの祥朔であった。親族とはいえ、自分の実子でもない岸に、彼らはその少なからぬ経済力を注ぎ込み、愛情溢れる教育を施したのである。そこには確かに「教育を通した立身栄達」という時代の雰囲気もあったにせよ、ともあれ一族の教育にかける情熱のすさまじさ、結束の固さには驚かされずにはおられない。高坂正堯氏はやはり指摘している。

 「岸信介は……長州に生まれ、明治国家の指導者となった長州の先輩たちにつづけという雰囲気のなかで育てられた。彼の母親茂世はしつけが厳しく、信介ら兄弟が泣いたりして帰ろうものなら、叱りつけて家の中へ入れなかったと言われる。また、彼が高等科のときにあずけられた岡山の叔父松介も、その収入を信介らの学費に注ぎ込み、学校でよい成績をとるよう励ました。すなわち、彼らは親族が揃って子弟の立身出世を助けるという雰囲気のなかで育ったのである。岸が強い向上心、また野心を持ったのは当然のことであった。その野心は、長州人こそ明治国家の建設者であるという自負心と相まって、国家主義と結びつくことになったのである」(『宰相吉田茂』)

 

◆政治家の「原質」

 岸の国家への使命感が思想の輪郭を得るのは、岸の大学時代であった。当時の東京帝国大学法科では政治学の吉野作造と憲法学の美濃部達吉が二枚看板のスターであったが、岸はこの二人にほとんど共感を示すことはなかった。岸の内部に形成されていた長州ナショナリズムが彼らのリベラルな学風をなじめないものと感じさせたのだろう。岸は国粋主義を鼓吹していた上杉愼吉の門下に入り、彼の国体論に共鳴していく。

 とはいえ、ここで大切なのは、岸は必ずしも上杉の「天皇絶対主義」を無条件には支持していなかったという事実である。岸が好ましいものとしていた国体論はもう少し合理的なものであり、むしろいたずらに天皇を「神聖視」したり、「国民と遊離した観念論」に堕すその種の議論を、逆に岸は自分には「ぴったりせぬもの」として忌避したのである。それは「天皇を常に雲の上に置き、一般国民との間に藩塀を設けるようなもの」だとしたのだ。
 
 それとともに、岸はこの時代、北一輝、大川周明という思想家の影響を色濃く受けたことも忘れるわけにはいかない。北には国家社会主義による国家改造の思想、大川には大アジア主義によるアジア解放の思想の強烈な洗礼を直接受けるのだが、それは同時に、この時岸が既に「革命的」ともいうべき強烈な国家的使命感を内部に胚胎させていたということの何よりの証左に他ならなかった。単なる「有能な政治家」というレベルには留まらない岸の「原質」ともいうべきものが、既にここには垣間見えているといえるのである。

 大学を卒業した岸は農商務省に入った。当時のエリート学生が等しく目指したのが内務省であったことを考えると、この選択にも岸の特異な国家的使命感が暗示されていよう。内務省が国家統治の中心組織であることは事実としても、この日本の更なる発展という将来を考えると、そのような内向きの統治のための組織では飽き足らないというのが岸の認識だったのである。日本の将来への発展を目指し、そのために自らがその中心的役割を担いたいとする岸の国家的使命感からすれば、新興の農商務省の方が、はるかに岸のかかる野心を満足させてくれそうに見える存在であったということなのだ。

 大正十四年、農商務省は商工省と農林省に分かれ、岸は商工省配属となる。そしてその翌年、岸は初めて訪米することになる。そして、そこで眼にしたのは巨大なアメリカの経済力であった。日本が鉄鋼の生産目標をやっと年間一〇〇万トンとしていた時代に、アメリカは既に月産五〇〇万トンというレベルに達していたのである。「その偉大さに圧倒され、一種の反感すら持った」と岸は述懐している。かつて明治の先輩政治家たちが遣欧使節団として欧米を回った時に抱いたと同じ感想を、岸もまた抱かされたのだ。

 しかし、その岸も明治の先輩たちと同じように、救いもまた見出した。その後に訪れた第一次大戦後の復興途上にあったドイツのあり方が、これなら日本にも可能だとの自信を与えてくれたからである。かつて明治の先輩たちがプロシアに手本を見出したごとく、岸もまたドイツに自らの目標を見出したのだ。とりわけそこにおける産業合理化運動が印象的だった。北岡氏がいうように「限られた資源を合理的に配分し、国家の戦略的な発展を図ること、そこに官僚の新しい役割がある」(前掲)ことを、岸はそこに見出したからである。まさに「長州の先輩たちが指導した富国強兵、殖産興業の新たな方向」が見え始めてきたのだ。

 この経験を踏まえ、革新官僚・岸の本格的な歩みが始まっていく。当然のことながら、そこで岸が主導したのは産業合理化運動であった。時あたかも、世界は世界恐慌後のブロック経済の時代へと入り、経済は単純な自由主義経済を超えた日本生き残りのための経済、つまり私企業の視点よりも国民経済全局に重きを置こうとする統制を基本とした戦略的経済への転換が求められ始めていた時代であった。と同時に、そこにはロシア革命後のソ連の計画経済の成功もまた重大な影を投げかけていた。そこで先取りされている国家統制の実験が、岸たち革新官僚にある種複雑な共感と脅威感とを与えていたのである。岸はこうした中で、まさに統制経済の中心的担い手としての辣腕を振るっていくのである。

 

◆戦前戦後を貫くもの

 しかし、岸の国家的使命感が最大の活躍場所を見出したのは満洲であった。連載でも触れたように、岸の満州行きは軍部の懇請によるものであり、その狙いはいかに対ソ戦を準備していくかという軍事上の目的の中にあった。そのために必要なのは満洲の産業開発であり、それを可能とするためには岸が推進する統制経済が何よりも求められたのである。「自分は決して食い詰めて満洲に来たのではない。軍部に懇請されて満洲に来たのだ」というのが岸のこの当時の口癖だったというが、とはいえ彼はただ軍部のいいなりになるためだけに満洲にきたのでもなかった。彼は長州の先輩たちがあの明治国家の建設に携わったごとく、自らもまたそれと同じ国家的使命感を現実のものとしたいと、この満洲の新天地を選んだということなのである。「出来栄えの巧拙は別にして、ともかく満州国の産業開発は、私の描いた作品である。この作品に対して私は限りない愛着をおぼえる。生涯忘れることはないだろう」と、後に岸は満洲を離れるに当たって述べているが、これほど岸の率直な心境を表す言葉もないということなのだ。

 日本に帰り、岸は商工次官、商工大臣を歴任するが、ここでもまた岸の行動を貫いているのはかかる国家的使命感だといえる。いよいよ商工大臣就任というその夜、岸は娘の洋子に、「お父さんの命は陛下に差し上げることにした。日本の国のために働くんだ」と述べたという。岸はまさにこの決意そのままに開戦の詔書に署名し、岸に委ねられた任務を果たそうとしていったのである。それはいうまでもなく総力戦態勢の確立であり、とりわけ最高度の軍需生産のための態勢の確立であった。

 しかし、この頃になると岸は、自らの国家的使命感と自らの立場とのギャップを感じ始めることにもなる。つまり、官僚大臣というような立場では、本当にこの国家的使命を果たし得ないのではないかと煩悶し始めるのだ。その結果が、昭和十七年の翼賛選挙への出馬であった。政治家岸の誕生である。岸はその背景にあった思いについて書いている。

 「大東亜戦争の重大性を考え、之に戦い抜く為には強い政治力がなければならない。此の強い政治力は国民政治力の結集の外はない。……之が為には真に政治家として国民政治力の結集に全力を傾注せねばならないことを痛感した」

 つまり、自らが抱く国家的使命感を実践するためには、国民政治力という力の結集が必要であり、そのためには自ら政治家にならねばならないと考えたのである。

 ついでに触れておけば、岸が東条に反対して東条内閣を崩壊に至らしめたことも、かかる国家的使命感のしからしむるところであった。それは名実ともに、まさに命懸けの行動だったからだ。しかし、岸はその行動をこの使命感から臆することなくやってのけたのだ。その直後、ある憲兵隊長が軍刀をもって岸を脅迫にやってきたことはこの連載でも触れたが、岸はやはり屈しなかった。それは当時においては、蛮勇に属する勇気だったともいえるだろう。

 大臣を辞めて一介の浪人になってからも、岸はこの国家的使命感を忘れることはなかった。今は軍部が国家の全権を掌握しているが、いざ敗戦となればその支配体制もいずれ崩壊する時がこよう。となれば、それに代わる政治意思の担い手が必要になると考えたのだ。岸はそれを担うのは政党だとし、山口に帰り地方政党づくりに着手する。ここに至っても尚、岸の心中に燃えていたのは国家への強烈な使命感であった。

 

◆「独立日本」実現への「意志」

 ところで、岸について第二に触れるべきは、明確な目標設定とその実現を終始一貫求めつづけてやまない強固な意志力である。戦後、岸は一転して巣鴨に囚われの身となり、そこから第二の人生を出発することになる。しかし、それを貫くのはただ一点、「独立日本」を再建するという目標であり意志であった。日本再建連盟の結成も、保守合同も、そして安保改定へのあの命懸けの執念も、ただ「独立日本の政治」を実現したいとする岸のかかる目標と、それを支える意志力がしからしめたところのものだったといえるからだ。

 昭和二十八年、岸が再び国会へ復帰してきた時、彼はある政治記者から東条内閣の閣僚としての責任を問われ、「あなたの政界復帰には釈然としないものがある」との率直な疑問を突き付けられる。その時の岸の答えは次のようなものだったという。「それは君のいうとおりだ」「ワシも悩んだ」「ワシはよっぽど坊主になって、全国を行脚しようか、どうしようかと迷った」「だけどやっぱり日本の国を復興させる手っ取り早い手段としては政治なんだ。だから政治の場に再び出ることになったんだ」(大日方一郎)――と。

 短い言葉ではあるが、これは戦後の岸の原点とでもいうべきものを端的に示すものだといって過言ではない。戦犯に指名された時、岸の一高時代の恩師は自決を勧めた。しかし岸はそれには従わず、生き恥を晒してもあの戦争の正当性を主張することこそ自分の使命であるとあえて虜囚の道を選んだ。そこには「あんなもの(ハルノート)突き付けられてね、恐れ入りましたなんていうなら、首くくって死んだ方がましだ」という日本人としての当然の思いがあったといえる。しかし、それはあくまでも敵国米国への思いであり、国民に対しては深く敗戦責任を自覚していたのも事実だったのである。

 そうした決意から、岸の戦後の歩みは始まった。しかし皮肉なことに、そうした責任を負うべき当の日本は、占領によりいわば骨抜きに等しい状況にされてしまっていたのが現実だった。獄中、岸は書いている。「(日本は)歯の浮く様なる民主主義、自由主義にかぶれ……何一つ自ら思考し、自ら創造し、自ら立ち、自ら行ふの気魄と矜持とを有せず」と。

 そこから岸の日本再建に向けた行動の目標が定まっていく。連載でも触れた「独立日本の政治」を実現せんとする目標である。「国民の自由意思に基づく吾々の憲法」をもつこと、「無防備中立論」や「他国軍隊の駐屯」を排して「自衛態勢」を確立すること、そして「計画性のある自立経済」を打ち立てること――等々がその主要な柱であった。

 しかし、岸が凡百の政治家と異なるのは、その目標実現への実際の戦略とそれをやり遂げる意志力を同時に兼ね備えていたという点である。彼はそうした目標を設定しつつ、他方その目標を実現していくための実際の手段として、第一に「強力な安定政権」の樹立という中間目標を掲げ、それを実現することにまずは全力を傾けていったからである。というのも、「強力な安定政権」なき限り、そのような目標をいかに掲げようと、それは実現の主体をもたない空論に過ぎず、それは空しい目標となり終わる他なかったからだ。

 その意味で、かかる「強力な安定政権」のためには、分立した保守政党を一本にまとめる必要があるというのが岸の認識であった。そして望むらくは、その一本化された保守党と反対党が二大政党の形をとり、政策を掲げて正面から対峙するという小選挙区制が岸の狙いだったのである。それこそが政党の意志力を明確かつ強固ならしめる道でもあったからだ。とはいえ、この小選挙区制はなかなか実現しがたい目標であるのも事実だった。そこで岸は当面の目標を「保守合同」一本に絞り、その実現のために邁進したのである。

 その時、岸がとろうとした道は一貫して正攻法であったことも、同時に指摘しておかねばならない。岸はその「保守合同」を実現するために、常に「下」から、まさに同調する人々を「運動」という形で結集せしめつつ、めざすべき政治的な流れを作り上げていったのである。決して単なる上からの数合わせや、野合や打算や妥協といった、いわば従来型の政治手法に与みすることはなかった。岸が目指したのは明確な政治意志をもった「強力な保守政党」の確立であり、単なる政権狙いが目的だけの新党づくりではなかったのだ。

 

◆現実を見る力

 岸が偉大なのは、まさにその当面の目標を、自らの意志力をもって現実のものとしていったことである。民主党という第一の保守合同を成し遂げるや、休む間もなく自民党結成という第二の保守合同に挑んだ。そして、そこで自ら首相となった。政界復帰後、わずか三年十ヶ月のことである。まさに目標への一直線ともいっていい軌跡がそこにはある。

 首相になった岸は、まさに満を持していたかのごとく、安保改定に取りかかる。しかし、そこへ至る過程もすこぶる戦略的であり用意周到であった。岸はまず東南アジア訪問によって「アジアの中の日本」という交渉ポジションを固め、一方「国防の基本方針」を決定し、日本が「頼れる日本」であること、そして自らが「強力な指導者」であることを米国にアピールしようとしたのだ。また抜け目なく、マッカーサー大使を味方につけるための手も打った。

 そして、あの安保改定への突進である。本来なら、運用面のみを改善し、新条約などというあえて刺激的な道をとらない方法もあった。しかし、岸はその道を選ぼうとはしなかったのである。国民に国家防衛の重要性を考えさせるためには、あえて論議を起こし火中の栗を拾う必要もあるというのが岸の判断だったのだ。かくてあの安保大騒動となった。

 しかし、岸はたじろがなかった。ただひたすら前進したといえる。それどころか、彼はその先にさらに憲法改正という課題までをも見据えていたのである。そこに明確な戦略と強固な意志力が見事に結合した政治家の姿を見るというのが筆者の岸観だが、しかしまさにそれゆえというべきか、岸は野党左翼勢力のみならず、与党自民党の中からも危険な政治家と忌避され、ついに総辞職の道を選ばざるを得なかったのである。かかる直線的な政治家と、彼が見据えたものを、日本の政治はまだ受け入れる用意がなかったのだ。

 ここで最後に、それでは岸のかかる明確な戦略と揺るぎない意志力はどこから生まれたのかという問いを立ててみたい。むろん、そこには冒頭にふれた国家的使命感をもって答える道もあるだろう。しかし、ここで敢えていいたいのは、岸には世界の現実がよく見えていたということなのだ。これが実は、岸の第三の特質として指摘したいことでもある。

 それは「冷戦」という世界の現実であった。岸は獄中、既にこの冷戦の発生と成り行きに尋常ならぬ関心を示している。そして、その意味するものを一人考え抜く中で、米国への反感という個人的感情を超え、これからの日本はこの国と一体となって進む他ないのだ、との冷静な認識を早くも固めているのである。

 昭和二十八年、彼は戦後初めて西ドイツを訪問し、冷戦の現実を実際にそこに見る。東西対立の厳しさのみならず、何よりもソ連社会主義というものが、進歩的文化人がいうごとき生やさしい体制ではないことを自らの目で確認し、確信をもつに至ったのである。それが政界復帰後の岸の政治活動を支える確固たる認識ともなった。単なるナショナリスト政治家ではなく、世界の情勢を冷静に見据え、その上で日本の国益を考えていく現実政治家となったのである。それが自らが進める安保改定への揺るがぬ確信ともなった。

 あの安保論争のさなか、左翼勢力が唱えたのは平和共存であり、中立であり、あるいはスプートニク成功を踏まえた「東側の優越」という幻想であった。しかし、岸はそのいずれをも受け入れなかった。そんな認識が通用するのは日本だけであり、日本は米国と一体となって自らの安全を確保する他ないことを彼は明確に認識していたのだ。むろん、安保反対そのものが、中ソによる示嗾によるものであり、それが国民の本当の声ではあり得ないことも認識していた。彼が一貫して揺るがなかったのはかかる認識ゆえであった。

 もちろん、岸はそれのみならず、その先に国家の本当の自立ということも考えていた。そのためには究極的には自主防衛が必要であり、核武装すら考える必要があることを、当時側近には明言していたという。そして、そのためにはまず何といっても憲法改正が必要であった。

 あれから四十年余、岸が見ていたものが今のわれわれにはよく見える。彼がめざした安保改定も、憲法改正も、日本が自らの意志をもった国家たらんとするならば、当然乗り越えていくべき必須の課題であることはもはや明らかだからだ。しかし、それが保守派全体の常識になるためには、四十年余が必要だったのだ。岸の先駆性がわかるというものだ。

 「憲法改正の気運をくじいた一番の元凶は、池田勇人君ならびに私の弟の栄作が総理大臣の時に、憲法は定着しつつあるとか、私の時代にはやらんと言ったことだね。だから憲法改正論は私で切れてしまった」

 晩年、岸はこういって岸後の自民党政治のあり方を嘆いている。しかし、嘆くには及ばない。政界には今や新しい波が起きており、岸は今や見直されるべき第一の政治家なのである。そして、何よりも岸の孫である安倍晋三氏がその路線を継ごうとしているといえるのである。

 「岸ドクトリン」の花咲く時代はすぐそこではないか。(日本政策研究センター所長 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成15年8月号〉