後藤新平「帝都復興構想」に何を学ぶのか

後藤新平「帝都復興構想」に何を学ぶのか

「新しい東北のかたち」を考える視座

関東大震災時の後藤新平による「帝都復興」構想が様々なところで話題にされている。この間の後藤の戦いを概観するとともに、東北復興に向けた「希望ある構想」の策定に向け、われわれはまず何を考えるべきか。


 

 福島第一原発では依然として事故収束への光は見えないが、岩手・宮城などの被災地では復旧・復興に向けた動きが始まっているようだ。政府では四月十四日、復興構想会議なる諮問会議が立ち上げられ、復興に向けたグランド・デザインの策定作業が開始された。一方、国会の方では第一次補正予算の目途は立ったものの、本格予算たる第二次の方の見通しは全く立っていない。政局がらみの思惑もあり、未だに財源の合意すらできていないのが現実だ。いずれにしても、この五月が様々な動きにとってのカギとなろう。

 ところでこの間、かつての関東大震災の際の後藤新平による「帝都復興」構想が様々なところで話題にされている。「帝都壊滅」といった衝撃的事態を前に、それを近代的な理想的帝都建設への起死回生の機会に転じようとした後藤の先見性とステーツマンシップに、今こそ着目すべしというのである。今回の震災の被害はそれを上回るともされるが、この被災を単に旧態に復すだけの「復旧」に終わらせるだけでは、果たしてこの甚大な犠牲と被害はどう報われるのか、というわけだ。ここは後藤の構想と勇断に学び、「新たな東北」を作るくらいの野心的な復興構想をもって望むべきだというのである。

 むろん、そうはいっても、事は白紙に絵を描くようには進まないのも事実である。実際の復興過程はまさに山あり谷ありの展開が予測されるが、ただそれを考えるに当たっても後藤の復興構想が辿った道は示唆に富む。ここではその後藤の戦いぶりを概観してみるとともに、それを踏まえてわれわれがまず考えるべきことを論じてみたい。

 

◇復興の基本方針

 関東大震災が起こったのは大正十二年九月一日であったが、この時、山本権兵衛内閣はまさに組閣作業のさなかにあった。いわば「政府不在」ともいうべき異常事態の中で、後藤は山本内閣の震災対応の中枢ともいうべき内務大臣に任ぜられることとなり、灰燼に帰した帝都の復興に陣頭に立っての指揮を任されることになったのである。

 九月二日、内閣親任式から帰った後藤は、直ちに復興の基本方針ともなる以下の四項目を書き記した。

一、遷都すべからず(遷都の声が既に上がっていた)。
二、復興費に三十億円を要すべし(当時の国家予算の二倍以上に当たっていた)。
三、欧米最新の都市計画を採用して、我国に相応しい新都を造営せざるべからず。
四、新都市計画実施の為めには、地主に対し断乎たる態度を取らざるべからず。

 それとともに、後藤はかねて親交のあった米国の都市政策学者ビアードに打電し、「東京の大部分消失、完全無欠の復興計画を樹立せんと企図する」と伝え、一刻も早い助言のための来日を要請した。ビアードからは入れ違いに電報が入り、「新街路を建設せよ。街路決定前の建築を禁止せよ。中央駅を連結・統合せよ」と指示してきた。

 九月六日、後藤は早くも「帝都復興の議」を閣議に提出した。「東京は帝国の首都にして、国家政治の中心、国民文化の淵源たり。したがって、この復興はいたずらに一都市の形体回復の問題に非らずして、実に帝国の発展、国民生活改善の根基を形成するにあり」としたのである。それとともに、この震災は「理想的帝都建設の為の絶好の機会なり」とし、「躊躇逡巡、この機会を逸せんか、国家永遠の悔を胎するに至るべし」との認識も明らかにした。以下はその復興に関わる組織、財源、内容についての大方針である。

①独立した機関を設ける。計画諮問のために帝都復興調査会を設ける。
②経費は原則として国費とし、その財源は長期の内外債による。
③罹災地域の土地は公債を発行して買収し、土地の整理を実行した上、適当・公平に売却する。

 ちなみに、①に示した独立した機関が今話題の「帝都復興院」であった。各省縦割りの利害、旧弊に縛られず根本的な復興をやり遂げるには、それを超えた強力な独立機関が不可欠とされたのである。また、③が世を驚かせ、また多くの誤解も生んだ「焼土全部買上案」と呼ばれるものであった。後藤にとっての理想的帝都建設とは、要はそれまでの江戸の歴史を引きずる非近代的都市・東京を「燃えない近代都市」に作り替えることであったが、それはすなわち、焼土を全て買い上げた上で、そこに全面的な区画整理を施し、広大な街路や公園や不燃の建造物を建設することであった。広い道路は火災類焼の危険を断つし、随所に配された公園は災害時における避難場所を提供する。その上で、不燃のコンクリートや石、レンガによる頑強な建造物を建てようとしたのだ。

 むろん、「全土買上」といっても、区画整理の後はその土地は地主に売却、もしくは貸し付けされるというのが計画の基本だった。ただ、そうした限られた土地の中で新たに基幹道路を作り、公園を作るとなれば、その分の土地を生み出さねばならない。そこで後藤が考えたのは、各地主に一定割合で土地を供出させる方法であった。むろん、彼らの土地はその分減るが、しかし安全な都市基盤ができれば、それに見合って地価は上昇し、それが地代となって返ってくる。つまり、その分は受忍すべしということであり、それが冒頭に示した「地主には断乎たる態度を取る」という後藤の決意の中味をなすものでもあった。来日したビアードはニューヨークのセントラルパーク建設の際の周辺地域や地下鉄建設の際の沿線の地代騰貴の例を挙げ、「賢明なる都市計画は、その影響する土地の価格を騰貴せしめる。その地価は該当する土地計画事業費に対する保障を形成する」とし、その構想を全面的にバックアップした。

 

◇凄まじい抵抗

 帝都復興院の設立は九月二十七日に決せられた。後藤は総裁を兼務することとなり、それまで後藤の命により内務省で先行して計画立案を進めていた都市計画局のスタッフ全員をこの帝都復興院に移し、十二月の復興計画確定まで連日休日返上で作業していくこととなる。帝都復興院の幹部職員はほとんどが「後藤人脈」で占められたが、それは後藤が台湾や満洲、あるいは東京市長の時代に周囲に集め、育ててきた人材群であった。こうした専門的人材を結集できることが後藤のまさに政治力であり、持ち味だったのである。

 十月十八日、復興院原案はまとめられ、同二十七日、閣議決定された。後藤が最初にぶち上げた復興費は冒頭に示したような三十億だの四十億だのというものだったが、それはその後、次第に二十億、十億と減じていき、最終的には大蔵省とのぎりぎりの詰めを経、結局は七億三千万円という数字に落ち着いた。ただ、大幅に減額されたとはいっても、当初案はあくまでも理想案であり、また各省庁や自治体の復興経費も含まれていたことから、これは後藤にとっても想定内の現実的な落とし所であった。というのも、当時の日本は今日とは異なり財源にできる蓄えがなく、これは後藤の構想をよく理解した蔵相井上準之助のぎりぎりの決断によるものでもあったからだ。

 井上によれば、彼の考えは以下のようなものだった。震災の影響によってまず大正十三年の税収は一億三千万円減る。その減収は深刻ではあるが、それに応じて歳出の方も思い切って減じ、何としても剰余金をひねり出す。それを何とかその後も毎年捻出し続け、それを毎年の公債の利払いに充当していく。そう考えれば、その利払いの額から逆算すると発行可能な復興の公債費の額も出てくる。そうして割り出された全体の予算額がこれだというのだ。

 しかし、問題は十一月末になって開催された「帝都復興審議会」であった(これは後藤が当初「帝都復興調査会」としていたもの)。これが後藤の構想に対する厚い壁となって立ちはだかったのである。中心となったのは伊東巳代治であったが、それは後藤の余りの理想論に強い危惧感をもつ現実派・守旧派総体ともいえる人々の代弁としての意味ももっていた。論点は多岐に亘ったが、所有権取り上げは乱暴、復興費は日本の財政基盤を危うくする、幹線道路が広すぎる、古い道路を拡張すれば足りる、区画整理は無用である、やるとすれば東京、横浜という自治体に任すべきである……等々がその主張であった。要は空虚な理想論よりはまず「目前の復旧」を、という議論であったが、ちなみに伊東は銀座の大地主でもあり、反対は実はその利害からのもの、とも噂された。とはいえ、その結果、計画は大幅な修正を余儀なくされ、予算は更に五億七四八一万円に削り込まれた。

 しかしながら、抵抗はそれで終わったわけではなかった。十二月十日に招集された臨時議会では、多数派の政友会により計画が更に削り込まれたのである。政友会は土木予算という自らの利権の牙城に踏み込んでくる後藤に怒りを抱いていた。その意趣返しがこの抵抗であった。予算は更に二割がカットされ、区画整理は主に東京市の担当となり、政府施行はごく一部に限定された。のみならず、帝都復興院の事務費は全額がカットされ、内務省が復興を担当することにもされた。すなわち、帝都復興院は必要なしとされたのだ。

 後藤にとっては構想を全否定されたにも等しい結果であった。これに対する反撃の道はかかる議会を解散し、計画を世論に問うことであった。後藤には「普通選挙の導入」という伝家の宝刀があった。これを共に掲げて選挙に打って出れば、それに反対する政友会に世論の批判は集中し、彼らが敗北に追い込まれるのは必然であった。しかし、後藤はその道をあえて選ばなかった。むしろ忍従して修正案を受け入れる道を選んだのだ。「窮迫せる市民の現状に鑑み、忍び難きを忍びて、しばらく議会の修正に同意を表し、他日を期して完きを期せむとす」としたのである。

 むろん、後藤は屈服したわけではない。臨時議会はともかくこれで乗り切るということなのである。ここで解散となれば、復興は更に遅れよう。ということは、一刻も早い復興を待ち望む被災者の願いを踏み躙ることになる。とすれば、年を越した新年早々の通常議会の場を待つ他ない。「一月になったら覚悟がある」というのが後藤の真意であった。

 しかし、一発の銃弾がその可能性を打ち砕いた。世にいう「虎ノ門事件」——難波大助による摂政宮狙撃未遂事件が生起したのである。山本内閣は事件の責任を取って総辞職することとなり、後藤もまた内務大臣の職を降りることになった。後藤の態勢挽回の夢は断たれたのだ。

 

◇しぶとく生き残った後藤の構想

 しからば、後藤の構想は全くの無に帰してしまったのだろうか。

 後藤の構想は規模と地域を相次いで縮小され、まさに満身創痍の状態となった。しかし、実はその核心部分はしぶとく生き残り、東京を近代都市へと脱皮させる画期となったことも忘れられてはならない。翌年二月、後藤の構想の核であった帝都復興院は廃止され、内務省の外局である復興局に縮小された。しかし、復興院に代わって復興の主体となった東京市とこの復興局を実質的に仕切ることができるのは、実は後藤が育てた腹心たちを措いてなかったのである。その結果、帝都復興はこの東京市と復興局の協調の下に推進されることとなり、まさにその結果として統一的プランに基づく都市改造の実施が可能となったのである。

 三月二十七日、東京市による区画整理が告示された。その告示に当たり、市長の永田秀次郎は次のように呼びかけた。それはあたかも後藤の声がこだまするかのようだった。

 「我々は少なくともこの際において道路橋梁を拡築し、防火地帯を作り、街路区画を整理せなければならぬ。/もし万一にも我々が今日目前の些細な面倒を厭って、町並や道路をこのままに打ち棄てて置くならば、我々十万の同胞はまったく犬死したこととなります。(中略)区画整理の実行は今や既定の事実であります。……まったく我々市民の自覚により我々市民の諒解によってこれを実行したい。/我々東京市民は今や世界の檜舞台に立って復興の劇を演じておるのである。我々の一挙一動は実に我が日本国民の名誉を代表するものである」

 かくて帝都復興事業が実施された結果、幹線道路・生活道路が四通八達することになった。小公園が各所に配置され、上下水道も整備され、健康的な市街地が形になった。つまり、それまでなかった昭和通り、靖国通り、晴海通り、八重洲通り、東京駅前の行幸道路、明治通りなどがこの時に実現し、墨田公園、浜町公園、清澄公園、旧芝離宮恩賜公園などが新設されていったのである。また、今は「表参道ヒルズ」となっている燃えない鉄筋コンクリートの集合住宅「同潤会アパート」が建てられたのもこの事業によってであった。後藤は政治的には敗退を余儀なくされたけれども、彼の復興のアイディア、努力はかくてその一部とはいえども生き残り、東京を近代都市に変えることになったのである。

 それだけではない。伊東巳代治の反対により、後藤の当初案から全面削除された「東京築港」と「京浜運河」は早くも翌年、復興の緊急課題に浮上することになった。結果からいえば、それでも「京浜運河」の方は完全な実現に至ることはなかったが、横浜と東京をつなぐ「海の大動脈」に着眼しなければ、肝心の復興事業そのものが成り立たないことを関係者は思い知ったのである。後藤の先見性がいかに秀でたものであったかがこの例でも明らかだろう。

 昭和天皇は、自らが摂政宮として体験した関東大震災の六十年後、以下のようなお言葉を遺している。

 「震災のいろいろな体験はありますが、一言だけ言っておきたいことは、復興に当たって後藤新平が非常に膨大な復興計画を立てたが……。もし、それが実行されていたら、おそらく東京の戦災は非常に軽かったんじゃないかと思って、今さら後藤新平のあの時の計画が実行されないことを非常に残念に思います」

 

◇東北復興への四つの視点

 さて、これが後藤の帝都復興構想なるものの概要であり、また後藤の戦いのあらましであった。われわれは今、ここから何を学び、何を参考にすべきなのであろうか。

 むろん、関東大震災と今回の東日本大震災は起こった時代状況も、規模も性格も、影響するところも異なり、それを同じように論ずることはできない。原発事故対応を引くまでもなく、社会・経済の複雑さも、内外の政治のあり方も、問題は当時とは根本的に異なり、とりわけメディアが発達した今、政治家が直面する状況の複雑さ・困難性は、とても同日に論じられるものではない。

 とはいえ、根本的な復興案に対する現実派・守旧派の反対、あるいはその際の反対の論理、既得権益の壁の厚さ……等々といったものは、あたかも今日の政治を見ているかのごとき感を抱かせるのも事実だといえる。そして、抜本的な帝都復興構想をもって、それを将来に向けての日本の希望に転じさせ、更にはそれを世界に向けての日本の決意の証しにしようとした後藤の発想は、まさに今日のわれわれに求められる発想でもあるように思われてならないのである。その意味で、今こそわれわれは東北復興に向けた「希望ある構想」の策定に心ある国民の関心を集中させるべき時だと思うのだ。

 以下はわれわれにとっての、その視点とでもいうべきものである。

 まず第一に、構想は単なる復旧に止まることなく、創造的な復興であるべきことは当然として、それは新しい東北の「経済のかたち」を示すものでなければならないということである。帝都の復興とは異なり、東北という地方の復興は、ただ「災害に負けない都市づくり」をすれば事が足りるというものではない。その災害を乗り越えて新たな経済と雇用の創出を図っていかなければ、東北が再び甦ることはあり得ないのだ。そこに住む人々が将来に希望をもつことができるような、また若者が勇んでこの土地に帰ってくることができるような経済のあり方を構想していかなければならないのである。

 それは第二に、東北という地域の個性、地域の資源を活かした経済でもなければならないということであろう。東北の東北たるゆえんを形作るところのものはその豊かな自然であり、風土に他ならない。「新緑の八甲田、五月雨の最上川、銀鱗が跳ねる三陸、黄金に輝く秋田の穀倉地帯、市の中心部までが杜の仙台、そして桃やリンゴがたわわに実る福島」と内館牧子氏は書いているが、とすれば、この東北の宝——自然、農林漁業産品、自然エネルギー、観光資源等々といったものを、「日本の宝」に転じていけるような新たな経済が模索されなければならないのだ。

 と同時に、第三は東北の伝統文化や地域における人々の強い絆に充分な配慮を払う復興でなければならないということである。東北といえば民話や祭りや人々の忍耐強い気質が思い浮かぶが、東北復興がこれらを成り立たせてきた人間的・共同体的な基盤を弱体化させるようなものであっては、本末転倒となる他ない。むしろこれらをもっともっと魅力あらしめるような「新しい東北のかたち」が求められるべきであろう。

 そして最後に、そのためにとりわけ若者と知の力をこの東北に結集できないかということである。新しい東北をつくるのは若者と新しい知の力である。とすれば、それをどうすれば結集できるかを考えるべきなのだ。震災後は多数の若者ボランティアが被災地に結集したという。こういう若者の力を「復興の力」にもできないかということなのである。と同時に、新しい経済はイノベーションの力なくしてあり得ない。その意味では東北に新たな「知の拠点」を作り出すという発想も不可欠であろう。これまでは辺境のイメージが強かった東北を、新たな「創造と可能性の地」へと変えていくのだ。

 今こそ「平成の後藤新平」の出番だといって過言ではない。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成23年5月号〉