東北被災地視察レポート① いまだ聞こえぬ「復興の槌音」

東北被災地視察レポート①

いまだ聞こえぬ「復興の槌音」

東京では復興構想が語られ始めたが、現地にはまだ見通しすらつかないという現実があった

陸前高田市(平成23年5月10日)

 

 東日本大震災から二カ月を経た五月十日〜十三日、本誌編集部は、神道政治連盟の視察団に加わり、岩手、宮城、福島三県の被災地を視察した。

 テレビや新聞を通じてみる限りでも、未曾有の大災害であるということは誰もが感じるところだが、実際に被災地に入ってみると、聞くのと見るのでは大違いで、信じられないような光景の連続であった。以下、われわれが見た被災地の現状をリポートする。

 

◇岩手県視察

釜石市〜山田町〜大槌町
 五月十日夜、東京から岩手県花巻市に入ったわれわれは、翌十一日午前七時五十分、宿泊先のホテルを出発。車で岩手県沿岸部へ向かった。

 一時間四十分ほど走ったところで、JR釜石駅が見えた。そこを過ぎた辺りから道路沿いの空き地に瓦礫の山が見え始める。学校の校庭には自衛隊のテント。大阪府警や北海道警のパトカーともすれちがった。

 市街地に入ると、そこらじゅうに瓦礫の山が。ひっくりかえった大型トラックもある。建物は比較的残っているように見えるが、内部は滅茶苦茶だ。路地に入ると 自衛隊員が黙々と作業していた。

 釜石の市街地から、大槌町を通過して山田町へ。途中の吉里吉里地区では、津波になぎ倒された防潮堤や骨組みだけが残る建物の痕跡も。

 午前十時、山田町の中心部に入る。山田湾沿岸から約五百メートル一帯は火災で丸焼けに。焦げた臭いがまだ少し残っている。

 山田湾を一望できる高台にある山田八幡宮にお参り。近くまで火が押し寄せたが鳥居の前で風向きが変わり免れたという。境内には津波記念碑がある。昭和八年の三陸沖地震の後、建立されたもので「縣指定の住宅適地より低い所へ家を建てるな」など五つの戒めが刻まれている。

 午前十一時、再び大槌町に入る。中心部は山田町とは比較にならないほどの瓦礫。震災発生からこの方、被災地支援を続けている盛岡八幡宮の藤原宮司によると、大槌町は他の被災地と較べ瓦礫の処理が進んでいないという。大槌町は津波で町役場が壊滅し、町長はじめ幹部職員三十人以上が亡くなっている。リーダーの不在が影響しているのだろうか。

 テレビでよく見る遊覧船「はまゆり」も見た。大津波に運ばれて民宿の上に打ち上げられていたあの船だ。前日の五月十日、震災から二カ月を経てようやく吊り降ろされたことから、テレビクルーがまだ付近にいた。

 少し高台にある小鎚神社を訪ねた。山田八幡宮と同様、こちらも鳥居の前で火が止まったが、すぐ手前まで壊滅しており、自衛隊が重機で瓦礫の撤去を行っている。神社は多少被害が出たがおおむね無事で、震災直後から避難所として供され、今も被災者二十一人が生活している。ある被災者は「方向性が出ていないのでまだ動けない状態だが、他の避難所と違って、気心の知れた人達ばかりだから、こうして暮らせるのは有り難い」と話していた。

 

住田町

 大槌町から再び釜石市を通って住田町へ。「林業日本一の町」として有名な住田町は山間地にあり、地震・津波の被害は受けていない。多田欣一町長は震災直後、木材仮設住宅の建設を決断し、被災者に提供するなど、同町は「後方支援基地」の役割を果たしている。

 午後一時すぎ、住田町役場に到着し、町長にインタビュー。その後、町幹部の案内で、二カ所で木材仮設住宅を視察。四畳半二間。バス、キッチン、トイレ付き。木の温もりと清潔感の漂う立派な住まいで、プレハブ仮設住宅との違いに目を見張る。

 途中、御遺体が安置されている住田町生涯スポーツセンターに。廊下には行方不明者の写真と名簿。家族がまだ見つからないのだろうか、目を皿のようにして名前を探す人の姿があった。町職員によると、ピーク時は約三百体、この時点では六十体が安置され、棺には遺留品と御遺体の写真が。御遺体は原形をとどめず、顔も性別も分からないと聞いていたが、話の通りで胸が塞がった。外へ出ると、地震から二カ月目の二時四十六分の直前。全員で黙祷を捧げた。

陸前高田市
 住田町から陸前高田市へ。広田湾へ注ぐ気仙川沿いに車を走らせる。

 午後三時半ごろ、新緑の美しい山間地の川岸が突然瓦礫に埋もれた光景に変わる。津波が川を遡り、川の周辺はみんなやられたという。「沿岸から遠く離れたこんな山の中がどうして?」と戸惑う。陸前高田市出身で現地事情に精通する神道政治連盟の高橋氏に訊くと、

 「沿岸から約八キロのところまでやられています」。

 ほどなく市街地へ出た。この日視察した被災地の中でも最もひどい。陸前高田市は四千世帯が被災。死者千五百人以上、行方不明者六百八十人以上が出ている。沿岸から約一キロ付近にある市役所は四階まで浸水。市立体育館、県立高田高校、県立高田病院などの市の中心施設も津波で壊滅した。JR陸前高田駅のプラットホームがあったという場所に立ってみた。三六〇度壊滅状態の信じられない光景である。

 同市気仙町の今泉天満宮。社殿も社務所も津波でまるごと流され、瓦礫の他は何もない。京都から来たというボランティアの人々がブルドーザーや手作業で瓦礫を片付けている。その傍らに、注連縄を張った大きな杉の木が一本立っている。聞けば、千年杉で、大津波にも耐えたのだという。杉の横には四角い結界のようなものが。高橋氏が言う。

 「注連縄を張ってここに社殿があったことを示しているのです。千年杉も以前は注連縄はなかったのですが、震災後に張られました」

 形はなくなっても、ここで天神さまをお祭りしていたことを示そうというのだ。神社が地域の人々の心の拠り所になっていることが窺える。

 午後六時すぎ、同じ気仙町の月山神社研修道場に到着。高台にあり、境内からは左手に広田湾、右手には新緑の山々や棚田が広がる。震災前は絶景だったろう。だが、高台の下に目をやると全半壊の住宅群が。その落差に愕然とする。月山神社研修道場は、震災直後からつい最近まで避難所として供され、五十人前後が生活していた。

 まだ電気が復旧していないので日が落ちると辺りは真っ暗闇。避難所内には小さな灯火のみ。ここで戸羽太市長と四時間近くにわたって面談。市長自身、津波で夫人と自宅を喪ったが、「市長としてやらねばならないことがたくさんありますので、今は気が紛れます」と、市の実情や今後の復旧・復興について熱心に語り続け、様々な質問にも率直に答えてくれた。

 月山神社権禰宜で、地元の消防団に所属する荒木道明さんにも話を聞いた。陸前高田市の消防団員は約四百人。そのうち四十八人が津波で犠牲に。残った消防団員も被災者だが、震災直後から遺体の運搬や行方不明者の捜索に当たったという。

 「最初の一週間ぐらいは、四人一組で、自衛隊が付けた目印に従って、軽トラックで御遺体を運びました。もちろん知っている人も沢山います。私は小学校の野球部でコーチをしているので、学生服を着た若い子の御遺体にあたると、『あの子じゃないか』とひやひやして……。最初は随分滅入りました」

 消防団は昼間はそうした活動に尽力する一方、通常時から毎晩二回行われている夜警を震災後も変わらず続けている。

 この日はこの避難所で宿泊。自らが被災者でありながらも、職責・役割を懸命に果たそうとする人々の姿を思い返しつつ、眠りについた。

 

◇宮城県

気仙沼市
 五月十二日。午前七時半、月山神社を出発し、気仙沼市へ。

 午前八時、市役所の前にある気仙沼商工会議所で、臼井賢志会頭らと面談。途中、ごく短時間だが菅原茂気仙沼市長も挨拶に訪れた。気仙沼市は全国でも屈指の港町。マグロ、カツオ、フカヒレなどの産地として有名で、産地別水揚量では全国三位。だが、臼井会頭から気仙沼市の漁業依存率は八二%で市民のほとんどが漁業、養殖業、加工業、造船業など水産関連の仕事で生活していると聞きあらためて、東北にとって漁業は「地域の基幹産業」であることを痛感する。

 一時間余の面談後、同市鹿折地区へ。陸前高田もひどかったが、気仙沼はまた別次元のひどさだ。

 沿岸の石油備蓄タンク二十四基が津波で被災し、タンクから流出した重油に引火。市街地が三日間燃え続ける大火災となった。ビルも家屋も車も何もかも焼失し、焦げた臭いが漂う。市街地のど真ん中には巨大な船が乗り上げている。遠洋マグロ漁船だという。「どうしてこんな大きな船がここまで…」と目を丸くする。藤原宮司が言う。

 「これでもかなり片付いたんです。今は道ができて何とか通れますが、最初は道がなかった。それを自衛隊がこじ開け、瓦礫を片付けて、道をつくってくれた」

 その時も近くで自衛官が瓦礫処理にあたっていた。聞けば、大分から来ている部隊で、震災発生直後から二カ月、ここで活動を続けているという。現在は近くの中学校の校庭に駐屯。食事は最近やや良くなってきたという。少し前までは乾パンとレトルト食品のみだったらしい。若い隊員がそれでは持たないだろうとも思ったが、それでも黙々と瓦礫処理や遺体の収容に当たってきたのだ。別れ際思わず、「ありがとうございます」という言葉が口を衝いた。隊員は黙ってうなづき、敬礼した。

南三陸町
 気仙沼市から南三陸町へ。途中、歌津地区を通った。

 「この辺りはまったく片付いていないな」

 藤原宮司が言う。そのせいか、通行止めになっている所もあり、途中車を迂回した。さらに走ると、コンビニの移動販売車が営業している。通常の店舗は壊滅したらしい。

 午前十一時前、南三陸町志津川地区の市街地へ出た。沿岸から約一キロ、高さ二十メートルはあると思われる高台の公園から市街地を眺望。見渡す限りの壊滅状態。

 信じられなかったのは、その高台自体にまで津波が押し寄せ、後方の保育園までが浸水したという。先生は園児たちを引き連れて裏山に回り、そこからさらに高台にある小学校まで避難し、辛うじて難を逃れたという。今回の津波の教訓から高台への移転が盛んに言われているが、こんな高台にまで津波が来たことを踏まえれば、場所はかなり限られるのではないか。問題はそう単純ではないと痛感する。

 再び市街地に降り、防災対策庁舎の前へ。報道で有名になったが、ここは南三陸町職員の遠藤未希さんが「6メートル強の津波警報が出ています。早く避難してくださいっ!」とアナウンスし続け犠牲になった所だ。だが、現地で話を聞くと、遠藤さんの隣にも、その隣にも、またその隣にも女性職員がいて、防災業務に尽力していたのだという。報道には出てこないが、最期まで持ち場を離れず自分の職責を全うした人々が他にも沢山いたということを思い知らされる。

女川町
 十二日午後。南三陸町から石巻市を通過して女川町へ。女川町では市街地から女川湾に向かって車を走らせた。道路両脇の建物は壊滅状態。沿岸に近づくにつれますます酷くなる。四階建てビルの屋上に自動車が乗り上げている。女川町も水産の町。産地別水揚量では全国第九位だ。

 湾に面する高台にある女川町立病院で車を降りた。魚の腐臭と瓦礫の入り交じったような異臭が漂う。この高台は四階建てビルと同程度の高さがあるが、津波はそれを越えて病院の一階を浸水させたという。そして引き波が駐車場の自動車をみんなさらっていったという。ビルの屋上に車が引っ掛かっているのはそういう理由だということは分かったが、説明を受けてもなお、信じられないという思いが拭えない。

 病院の給食を担当する佐藤るり栄養士に話を聞いた。

 「私も自宅が浸水して全く住めなくなりましたので、今は病院の寮に入っています。最近まで電気も水道も来ていなかったので、日が昇ったらごはんを作って出す。日が沈んだら寝るという生活でした。調理器具は津波で使えなくなりましたので、花壇のブロックを組んで竈みたいにしました。燃料は瓦礫を、食料は保管されていた米と飲み水の浸水しなかった部分を使いました」

石巻市
 女川町から再び石巻市へ。石巻市も全国屈指の漁港。産地別水産量は気仙沼についで全国四位。しかし、津波で水産インフラが壊滅し、われわれも数十社が連なる水産加工団地の惨状を目にした。高台にある鹿島御児神社で、石巻青年会議所(JC)の窪木好文理事長に話を聞いた。

 「JC関係者では、電気屋などは別の店舗を借りて商売を再開していますが、加工屋、網屋など水産関連の仕事をしている人たちは見通しさえ立たない。再開できるかどうか悩みながらも、生活がありますので、トラックで出稼ぎに行っています」

 神社からは石巻市が一望できる。沿岸から約一キロ地帯の市中心地域は、市民病院、日本製紙などの大きな施設を含め、軒並み壊滅した。 仮設住宅は一万必要だが五月末までに千八百戸できる予定にとどまり、石巻は全体として復旧が進んでいないという。そうした中で青年会議所は、石巻災害復興支援協議会と協力しながら、ボランティアの案内・連絡・調整を行っているという。

 「日本財団、APバンク、ピースボートなどの団体から一般の方まで全国から多数の方々が支援に来てくださっています。炊き出し、泥出し、瓦礫の片付けなどが主ですが、大工、整体師といった方々には、その分野で尽力いただいています」

 石巻から仙台市へ。午後四時半、同市宮城野区で田村稔仙台市議会議員、地元で農業を営む芳賀ただし氏、遠藤林保氏、遠藤喜伸氏と一時間にわたり、被災農地の現状と今後の東北農業の在り方について意見交換した。

 

◇福島県

宮城から福島へ
 五月十三日午前八時、仙台市内の宿泊先を出発。車道の左手に海岸を望みながら福島県へ。

 仙台平野は米どころ。例年であれば田に水がはられ田植えが始まるころだが、田んぼには瓦礫が散乱している。だが、右手の遠景には濃淡のはっきりした美しい新緑の山々が連なる。その落差が痛々しい。

 一時間半後、福島第一原発から北へ約四十キロに位置する相馬市に入る。意外にも、普通に人が歩き、車が走っている。特別に変わった様子もなさそうな印象を受ける。市内で福島県護国神社の冨田好弘宮司、綿津見神社の多田仁彦禰宜と合流。冨田宮司は福島市から、多田禰宜はあの飯舘村から駆け付けて下さった。

 相馬市から南相馬市へ。国道六号線を南下して原発三十キロ圏内に入る。しばらくすると、車の通行量がだんだん減ってくる。国道沿いの店舗も全部ではないがシャッターが下りているところが増えてくる。

相馬太田神社
 午前十時半、原発から二十一キロ付近の相馬太田神社(南相馬市原町区)に着いた。多田禰宜が手にする線量計の値は、毎時〇・九マイクロシーベルト、社務所内は〇・四三三マイクロシーベルトを示している。

 相馬太田神社は、国の重要無形民俗文化財「相馬野馬追」の出陣式が行われる神社の一つ。ほかに相馬小高神社(南相馬市小高区)、相馬中村神社でも行われる。野馬追は、平将門が行った騎馬武者による軍事訓練が起源とされ、のちに相馬氏が取り仕切るようになった伝統行事。毎年七月に三日間行われる。

 ところが、原発事故を受け、相馬小高神社は「警戒区域」の対象に。相馬太田神社も「緊急時避難準備区域」に指定され、いつ出て行かなければならないとも知れない状況。こうしたことから、野馬追の開催が危ぶまれている。相馬太田神社の佐藤左内宮司に話を聞いた。

 「最終的にどうするのかまだ決まっていませんが、例年どおり三社集まっての野馬追は難しい状況です。私どもの氏子の多くも疎開し、神社の周りにいた馬も避難しています。千年以上続いてきた神事なので何とか続けたいとは思うのですが……」

 南相馬市から来た道を戻って相馬市の松川浦へ。三十キロ圏外へ出るとやはり車が多くなる。途中、国道沿いの土産物屋で事情を聞く。地震発生後約三週間は営業を停止していたが、四月上旬に再開。客足は例年の五割以下になるだろうと予測していたものの、店員は「蓋を開けてみると、七、八割程度と意外に健闘しています」と話していた。

松川浦
 十三日正午。松川浦の海岸が見えてきた。松川浦は砂浜と松林がどこまでも続く典型的な「白砂青松」の海岸で、古くは万葉集にも詠まれ、江戸時代は相馬家の保養地だった。「天然の養殖場」としても有名で、ノリやアサリが沢山とれ、特にアオノリの生産高は全国二位。ホッキ貝、カキの養殖も盛んだという。例年は潮干狩りに訪れる観光客でにぎわうというが、今は人影もない。

 震災発生時、津波は浦口にかかる松川浦大橋のすぐ下まで達し、松川浦を越えて沿岸地域を呑み込んだ。松林の一部は津波でまるごと流され、歯抜け状態になっている。沿岸のホテルや民宿も壊滅状態で、漁船、漁具、カキ殻が散乱している。岩手、宮城に較べればまだましなように見えるとはいえ、相当な被害が出ていることは確かだ。

相馬中村神社
 松川浦から相馬中村神社へ。先に書いたが、「相馬野馬追」の出陣式が行われる神社の一つ。田代麻紗美禰宜に野馬追について訊ねた。

 「こちらでも被災馬を十頭ほど預かっているのですが、三社が揃わないと盛り上がらないので、今から相馬(相馬中村神社)はどれくらいできるか、原町(相馬太田神社)はどれくらいできるかということを検討しつつ、六月初め頃までにまとめたいと思っています」

 境内には、段ボール箱が多数並べられ、ボランティアと見られる人々が仕分けを行っている。全国からの物資のほか、相馬家の当主が集める物資、田代禰宜のご主人が集める物資をここで集積するなどして、被災者支援活動を行っているという。

 「相馬市は内陸部ではそれほど被害が出ていませんが、南相馬市はスーパーが空いていなかったり物がすぐなくなる状況ですので、まだまだ支援が必要です。それから、神社に御祈願に来られる方は、やはり原発について大変心配されています。大半は『正常に戻らなくてもいいから、とにかく原発だけは止めてくれ』と仰られます」

飯舘村
 相馬中村神社から飯舘村へ。飯舘村は阿武隈山系北部の高原に開けた村で、とても美しい豊かな自然に恵まれている。車窓からの風景は絶景また絶景の連続だ。

 福島第一原発からは北西に約四十キロ。三十キロ圏内ではないが、積算放射線量値が高いことから、四月半ば、一カ月以内をメドに避難を求められる「計画的避難区域」に指定された。

 午後一時半、綿津見神社に到着。放射線量は、社務所脇の土壌が一四・二八マイクロ・シーベルト。社務所の外が二・一九五マイクロ・シーベルト、中が一・四マイクロ・シーベルト。多田宏宮司によると、この時点すでに、村の人口約六千五百人のうち九割が村外へ避難。村内の畜産農家二百戸余りのうち半数が廃業の意向を示している。「宮司さんはどうされますか」と訊ねると、

 「絶対に避難しなければならないと言われれば考えますが、それまではね」

 宮司は淡々と答えたが、留まって祭りを続ける、との覚悟を垣間見た。

〈『明日への選択』平成23年6月号〉