三人の作家が見た日本人

 大震災から三カ月近くになるが、震災を通して日本人とは何かということを考えさせられることが多い。むろん、素人の筆者が何か結論めいたことを書けるわけではないが、ただ時代が変わっても日本人はやはり日本人なのだとの思いは強い。

 というのも、今回の震災での体験やエピソードには、過去の日本人が示した思いやりや冷静さを連想させるケースが多々あるからである。データではなく、過去の災害の現場に立ち会った作家が直接体験し、描いた文章から紹介したい。

 

 詩人で駐日フランス大使だったポール・クローデルは、大正十二年の関東大震災に遭遇する。クローデルはその時の日本人の冷静さや我慢強さに驚いている。避難する大群衆を見て「唐突な動きとか人を傷つける感情の爆発によって隣人たちを煩わせたり迷惑をかけたりしてはならないのである。同じ一隻の小舟に乗り合わせた人々はみなじっと静かにしていなければならない」と、その冷静さに触れている(『朝日の中の黒い鳥』)。

 クローデルは「廃墟の下に埋もれた犠牲者たちの声も『助けてくれ!こっちだ』というような差し迫った叫び声ではなかった。『どうぞ、どうぞ(お願いします)』という慎ましい懇願の声だったのである」とも書いている(同)。この「どうぞ、どうぞ」は、震災直後にニュースで見た、救助ヘリから降りた老人が「すみません。本当にありがとうございます」と自衛隊員に深々と頭を下げたシーンと重なる。

 

 中国のテレビニュースが、三月十一日の東京で自宅に帰れなくなった「帰宅難民」が駅の階段で中央に通路を開けて夜を明かしたり、整然と並んでバスを持つ様子を驚きをもって報じていた。そのなかで日本人は豊かで余裕があるからという意味の解説がなされていたが、そうではないだろう。

 作家・高見順の日記には、昭和二十年三月の東京大空襲の三日後、上野駅でみた避難民の光景が描かれている。駅前広場には、東北本線、常磐線と書いた札が立てられ、そこに罹災民が幾重にも列をなして並んでいた。その「万をもって数えられる密集」を見て、こう書いている。

 「私は、ふと支那のことを思い出した。支那のこういう場合の民衆の騒々しさを——。こんな多数でなくても、支那では人が集まるとワイワイと大声でわめき立てて、大変な喧騒さだ。日本人のおとなしさ、けなげさ、我慢強さ、謙虚、沈着……。」

 夕闇のなかで、その様子を見ていて「私の眼に、いつか涙が湧いていた。いとしさ、愛情でいっぱいだった。私はこうした人々と共に生き、共に死にたいと思った」とも書いている。(『高見順日記』第三巻)

 この罹災民は豊かな日本人ではない。帰るべき家を失い地方に避難しようという、「焼けた蒲団を背負い、左右に子供の手をとった」人たちである。むろん、今の東京が被災したら、高見順が見た罹災民のようにはいかないだろうが……。

 

 今度の大震災のなかでも自衛隊や警察、消防、地元の消防団等々、自らの職務を最後まで果たそうとした人たちがいた。また水道・電気・ガス、道路などインフラの復旧でも、多くの人たちが献身的に作業にあたった。とりわけ、五百キロにわたって千二百箇所もの被害を受けた東北新幹線を不眠不休で復旧させた人たちがいた。

 鉄道と言えば、高見の日記には大空襲の翌日には鉄道も動いていたと書かれている。作家の吉村昭は、その一カ月後の空襲の体験をこう記している。

 昭和二十年四月十四日の早朝、前夜の空襲で谷中の墓地に避難していた吉村は、日暮里駅近くの跨線橋から山手線の電車が動いているのを目にした。まだ「町には一面に轟々と音を立てて火災が空高く吹き上げている」なかで、電車を動かそうとしている鉄道マンがいたのである。「その電車を眼にして鉄道員の規則を忠実に守る姿を見る思いだった」と書いている(『東京の戦争』)。

 思いやりや冷静さを持ち、また自らの職務をどこまでも果たそうとする日本人が、終戦時にもいたし、それは今もそう大きくは変わらない。震災から三カ月近くなって日本人論も出始めているが、そうしたことを確認することから始めてはどうだろうか。(日本政策研究センター所長 岡田邦宏)

〈『明日への選択』平成23年6月号〉