「義」の精神に学びたい

 筆者は新潟県の直江津という所に生まれた。昔は直江津市といったが、今は上越市の一部となっている。

 この筆者の故郷である直江津が今年のNHK大河ドラマの舞台になるという。「天地人」――火坂雅志氏の原作になる戦国の武将、直江兼続の物語だ。直江家は藤原鎌足の孫・京家麻呂の末裔といわれる名家で、今の直江津である「直江の庄」を領地として賜ったことから、「直江」と称することになったといわれる。兼続は元は坂戸城主・長尾政景の重臣・樋口兼豊の長男で、樋口与六兼続と称していたが、名家である直江家が跡継ぎをなくしたことを機縁にこの家を継ぎ、直江兼続となった。

 ドラマはこの直江兼続の生涯がテーマになるわけだが、多分前半は上杉謙信の下、居城春日山での活躍がテーマになろう。兼続は12歳になった時、後に謙信の跡を継ぐ謙信の養子・景勝(17歳)とともにその小姓として春日山に上がることになり、生涯の精神の師・謙信との運命的な出会いを果たす。謙信は「義の武将」と人々に称されたが、その春日山で彼の「義」の精神を学び、最も忠実にそれを継ぐことを決意したのがこの景勝と兼続だったのだ。

 ちなみに筆者は子供の頃から、この謙信の「義」の精神について繰り返し教えられた。高等学校の講堂の正面には謙信が書いたという「第一義」の大額が飾られていたし、中学校時代の社会科の授業のひそかな楽しみは、先生が授業を脱線して語ってくれるこの「義」のための戦い・川中島の合戦の話だった(この先生の名前が何と「直江」だった)。謙信が単騎、武田軍の本陣に斬り込み、「信玄、覚悟!」と太刀を浴びせる話などにはまさに心が躍ったものだ。

 また、折に触れ、謙信が敵である甲斐の武田信玄に塩を送った話なども、大人たちから聞かされた。「自分は弓矢で戦うことはしても、塩で戦おうとは思わない。それで困るのは百姓町民ではないか」と謙信はいったといい、「敵もその情けで泣くような、そんな人間にならなければならぬ」などと教えられたのだ。

 戦国時代はまさに下克上の時代で、裏切りや寝返り、謀略、野合、背信が日常茶飯事だった。それは善悪を超えた世界で、それをしなければ自らの生存そのものが脅かされる苛酷な時代だったともいえる。しかし、その中で謙信はあえて「義」を貫いた。彼は侵略のためには決して戦わなかったし、信長や信玄のように天下を取ることも求めなかった。ただ、侵略された者が救援を求めてきた時には必ずそれに応えた。侵すためにではなく、「義」を通すために、また平和を守るために戦ったのだ。

 火坂氏の『天地人』には、謙信と兼続が杯を交わしながらこの「義」について語り合う印象深いシーンが出てくる。「義」とは何か――と問う若き兼続に対し、謙信はいう。

 「天下の兵乱をおさめるだけが義であれば、力によって弱き者をねじ伏せ、殺戮を積み重ねていく信長の行為もまた、義ということになる。王城鎮護の比叡山を焼き討ちし、伊勢長島で二万人の一向宗徒を焼き殺した信長の行い、あれが、天のゆるした義のふるまいといえるか」

 「信長の行為は義にあらず。かの者はただ、みずからの利を追いもとめているにすぎぬ。……わしは信長に、いや天下の万民に、利を得るよりも崇高なものがあることを知らしめたい。人が人としてあることの美しさ、それがわしの考える義だ」

 むろん、これは火坂氏の創作である。ただ筆者には、実際にもこうしたシーンはあったのではないかと思えてならない。兼続は謙信からこの「義」の精神を学び、更に「愛」を自らの兜の前立てに飾り、戦ったという。しからば、この「愛」とは何か? 推察するに、この戦国の世を一刻も早く終わらせ、国に平和をもたらし、民の苦しみを取り除き、領民たちの生活を守ること、兼続にとってはそれが「愛」であり、また「義」でもあったのではないか。

 時あたかも、いま世界ではまさに戦国の世ともいえるマネー資本主義の狂騒の時代が終わり、世界同時不況という大波がこの日本を襲っている。経済人の中には信長ファンが多かったと聞くが、まさにこの信長絶頂の時代が本能寺の変を機に、一変したような時代が今日ではないか。そんな時の兼続・景勝の「義の物語」――。まさにタイムリーな歴史ドラマとして楽しめそうだ。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成21年1月号〉