価格ではなく「価値」を尊ぶ社会に

 「グローバル資本主義は世界経済活性化の切り札であると同時に、世界経済の不安定化、所得や富の格差拡大、地球環境破壊など、人間社会にさまざまな『負の効果』をもたらす主犯人でもある。そして、グローバル資本が『自由』を獲得すればするほど、この傾向は助長される」

 一見すると左翼系学者の論文と見紛うばかりの文章だが、むろんそうではない。つい数年前までは新自由主義経済論に基づく急進的な構造改革の急先鋒でもあった高名な学者の著作の一節である。中谷巌――小渕内閣の「経済戦略会議」では議長代理まで務め、その後ソニーの取締役会議長にもなった経済学者だ。

 その中谷氏が最近、自ら「懺悔の書」と称するグローバル資本主義批判、更には構造改革批判の衝撃的な本を書いた。題して『資本主義はなぜ自壊したか』――。恐らく誰もがエッと驚いたと思われるが、冒頭の「まえがき」には「まだ十分な懺悔はできていないかもしれないが、世界の情勢が情勢だけに、黙っていることができなくなった」とある。

 当然のことながら、マスコミはこの話題性に着目。早くも色々なところでこの本が取り上げられている。それどころか、早くもこの大反響を危惧し、改革逆行に資する危険を指摘する論評すら出ている。「中谷さんも言うのだから自由化が悪い、規制が必要」「いよいよ官僚統制だ」という声が出てきて、逆に官僚に利用されたり、閉鎖的資本主義の方に走ることになったら心配だ――とする堺屋太一氏のようなコメントだ。

 むろん、議論は自由だというのが筆者の信念で、妙な心配は無用だと考える。改革だって、いい場合と悪い場合があり、改革だから善、改革否定だから悪――などという単純な話ではあり得ない。そんな認識から、筆者も好奇心満々で早速この本を読ませていただいたが、意外というべきか、実はそれほど論争的な内容の本には思えなかった。自らのここ数年の思考を冷静に書いたむしろ哲学的色彩の強い本で、こんなことをいったら失礼だが、「やっと経済学者の中からも、このようなまともな考察が出てくるようになったか」というのが率直な読後感であった。

 筆者がこの中谷氏の著書で一番共感を覚えたのは、氏が経済の「外部性」ということについて論じている部分であった。「外部性」とは市場での経済活動が社会にもたらす影響のうち、金銭に換算できないものをいうが、氏は今日支配的な米国系経済学はこれを思考対象からあえて除外するがゆえに、必然的に大きな「限界」をもつことになるという。

 具体的にいうと、例えば資本主義が発達して消費生活が活発化するような場合だ。その結果、伝統的な生活習慣が失われるといった弊害が他面では出てくる。しかし、経済学はそうした損失面には全く関心をもたない。「文化には『価格』はつかないから、文化的な価値を市場活動が壊していっても、それは経済的損失としてはカウントされない。文化損失のコストは計算できないから、どんどん伝統文化は破壊されてしまっても、経済学においては問題にされない」と氏は指摘するのである。

 筆者はこれまで、この欄でもしばしば「経済」よりも「社会」が重要、という主張をしてきた。筆者にとってはこの「社会」が、ここで中谷氏がいう経済の「外部性」に相当するものであったからだ。一般的に論じられる経済論ではこの「社会」の視点が往々にして無視される。しかし、その種の単純な思考にこの国の将来を自由にさせるわけには絶対にいかない、と筆者は考えてきたのだ。

 中谷氏はこの経済の「外部性」を論ずる材料として、氏がブータンを訪れた時の体験を紹介する。ここでは国民総生産(GDP)の追求ではなく、「国民総幸福量」(GNH)の追求が国家の目標になっているという。「国民の幸福は経済発展では図れない」との確信から、彼らはあえてこうした理念を掲げ、国づくりの目標にしている、と氏はいうのだ。

 ブータンの人々にとっての幸福とは、チベット仏教に基づく伝統的な生活を守りつつ、豊かな自然と調和して生きていくことだ。いや、ブータンと日本は違う、と恐らく多くの人はいうだろう。しかし、こうした伝統的生活とか自然の価値を、そろそろわれわれも考え始めてもよいのではないか。氏の著書に触発されつつ、そんなことを改めて考えた。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成21年2月号〉