「共生と循環」の世界へ

「共生と循環」の世界へ

 『明日への選択』2月号の「今月の主張」欄で、経済学者・中谷巌氏の著書『資本主義はなぜ自壊したか』を引きつつ、経済の「外部性」について触れた(価格ではなく「価値」を尊ぶ社会に)。この「外部性」とは、市場で経済活動が社会にもたらす影響のうち、金銭に換算できないもの――例えば、伝統・慣習とか自然――を指す。例えば、消費生活が活発になれば、その結果として伝統的な生活習慣が壊されるといった場合の伝統的な生活習慣がこの「外部性」にあたる。

 ところが、今日の経済学ではこうした伝統的な生活習慣には「価格」がつかないがゆえに、そうした生活習慣が破壊されたとしても経済的損失としてはカウントされない。そこに経済学の問題と限界があるといえるが、むしろ、その「外部性」が持つ価値こそ重要であろう、経済的「価格」もさることながら、伝統や自然といった「価値」を尊ぶべきだ、というのが2月号「今月の主張」の趣旨でもあった。

 『明日への選択』では、一貫して「経済」よりも「社会」が重要だと主張してきたが、まさにこの「外部性」はその「社会」に相当するものと言える。実は、こうした視点は、新たな国家構想を考える際、いかなる社会目標を設定するのかという点で、極めて重要なものとなる。

 十数年前のことだが、改革論が盛んに論議され頃、保守哲学にたった改革論とは何か、保守の国家構想はいかなる理念に立脚すべきなのかを論じたことがあったが、その際、「市場システムの外部性」の重要性に触れた論文を『明日への選択』に掲載した。古い論文だが、経済と「自然と共生する生態系」という外部性との関係について論理的に検証した内容で、今も再読に値すると考え、再掲載することとした。


◆市場システムの「外部性」

 最後に指摘したいのは、「成長」から「共生」へ、という社会目標の転換である。

 今日の改革論の骨格をなすものは、いわゆる経済的自由主義であるが、この経済的自由主義の根幹にあるもう一つの柱が、「成長」に対する信仰ともいうべき情熱だといえる。しかし、こうした「成長」の時代は既に終わったというのが、ここでわれわれが指摘したい三番目のポイントである。この「成長の時代」は、たしかにわれわれの生活に、日々限りない豊かさと利便性と快適性をもたらした。われわれは今日、まさにこの物的豊かさに酔い、それをもたらす市場経済の論理に身をゆだね、歯止めのない経済競争に明け暮れている。しかしながら、それはその一方において、われわれの生態環境を破壊し、われわれの多様で人間的な、日常の生活世界を破壊するというマイナス面をもまた、同時にもたらしていることを否定することはできないのである。つまり、経済的自由主義に基づく「成長」至上の時代は終わり、われわれは今、新たなパラダイムに基づく社会経済活動への転換の時代を迎えているということなのである。

 にもかかわらず、今日われわれが眼にする改革論は、いかなる転換の方向性をも提起し得ていない。ただひたすら「市場の論理」を賛美し、レッセ・フェールのスローガンを唱え、今日もまた経済的自由主義の教義を繰り返すのみなのである。果たしてこれで、二十一世紀世界へ向けたビジョンあふれる改革論などといえるのであろうか。

 ここで提起されている問題は、要するに「成長」に対する環境の制約、つまり経済学者のいう市場システムの「外部性」の問題である。表面的には順風満帆な市場経済も、その根底ではその全体の存立自体を危殆に瀕せしめかねない深刻な難題に直面しているという認識である。『二十一世紀の資本主義』の著者、ロバート・ハイルブローナーは、次のような卓抜なたとえを引きつつ、この問題を指摘する。

 「(市場の『外部性』とは)一例をあげれば、製鉄所に汚染防止装置がつけられる以前のピッツバーグの住民の洗濯代と医療費がこれである。これらのコストは『外部』費用で、労働や原材料といった製鉄所が支払う『内部』費用とは異なる。汚染コストは、製造プロセスそのものにとっては外部の人間である個人に押しつけられる。したがって、製鉄所の生産者には、増える洗濯代や医療費を支払わされない限り、汚染を少なくしようというインセンティヴが生まれない」

 むろん、ここに引かれている例はきわめて瑣末で、限定された例といってよい。しかし、これが市場システムがもたらす「外部性」の問題の核心であることも事実なのである。生産には価格に表れるプラスの価値とともに、それには表れないマイナスの価値が付随する。このマイナスの価値にどう対応するかが今問われているということなのだ。今日問題とされる地球環境問題は、そのほとんどがこの市場システムの「外部性」の問題に該当しているといってよいだろう。彼は引き続き次のように述べている。

 「生産のすべての外部費用と外部便益を計算することは不可能だろう。同時に、非常に重要なものでありながら、計算しきれないために生産の費用便益評価に重大な歪みが生じていることもはっきりしている。森林の過度の伐採、海洋資源の乱獲、ガソリンの過剰消費などはすべて外部性の例である。
 さまざまな財の生産費用をすべて価格に含めることはできない。精神を麻痺させる単純作業をする労働者が無知と愚昧に陥ると嘆いたアダム・スミスは、外部性による社会的費用を考えていたわけではないが、やはり外部性を懸念していたのである。『仏教経済学』では労働は生産工程へのインプットではなくアウトプットと見なされると述べた故E・シュマッハーの言葉は、この費用を最もうまく言い表していたのかもしれない」

 つまり、この「外部性」の問題をどう捉えるかが、彼もいうごとく、今日の市場経済の「最も本質的で奥の深い」問題だということなのである。

 

◆経済システムを生態系に「埋め戻す」

 この間題の解決方法をめぐって、現在様々な議論が関係者によって展開されていることは、周知の所である。大胆に分類してみれば、概略以下のような立場からの議論があるといってよい。

 第一は、今日の経済・社会の活動水準を強引に低下させることによって環境を保全しようとする立場である。贅沢を戒め、とりわけ禁欲や我慢といった個人的美徳を強調しようとする精神主義的な立場だ。一方、これに対する第二の立場は、革新的な技術の開発に期待し、その力によってこの問題を「ブレーク・スルー」(突破)することに期待を寄せる立場である。いわゆる「技術・成長主義者」といわれる人々の立場である。そして、第三の立場が、経済・社会の構造を環境に適したものに変革しつつ、「持続可能な成長」を求めていこうとする立場である。環境に影響を与える産業構造、エネルギー供給・需要構造、交通体系、貿易構造、ライフスタイル等々を、環境の保全にとって望ましい方向へ漸進的に誘導していくことにより、現実主義的な解決策を見出していこうとする立場である。

 とはいえ、そのいずれの方向性を選択するにしても、それは今日の市場経済システムそのものの深刻な見直し抜きにあり得ない問題であることは、ここで改めて確認されておいてもよい事柄だといえるだろう。

 「経済を支える自然システムが劣化するにつれて、環境的に有意義な行為が経済的に有意義な行為と重なり始めるだろう。しかし、それは、取り返しのつかない変化に見舞われてからのことになるかもしれない」とレスター・ブラウンは述べる。ここにもあるごとく、よしんばこのような「新しい経済システム」が作り上げられたとしても、そこにはやはり想像を絶するわれわれの努力と、困難を乗り越える時間が必要だということなのである。果たして、そうした根本的な作業をこの人類はやり遂げることができるのだろうか。

 とはいえ、やはり手遅れになる前に、われわれはこの作業をなし遂げなければならないと考える。そのために残された時間は少ないことを承知の上で、ここでは敢えて根本的な問題を提起してみたいと思う。それは結論からいえば、今日の経済システムを、今一度われわれの地球上におけるこの生態系システムに「埋め戻す」という作業である。それが、地球環境との「共生」という冒頭の問題でもある。

 「人間の経済というものは、原則として、人間同士の社会関係、すなわち地域のコミュニティーの中に埋っているものである。ところが、近代化とともに経済が市場経済として社会から“離床”して、逆に経済システムの中に人間社会が埋没するという新奇で異常な事態が生じている」とK・ポランニーは指摘する。しかし、このことは地球環境と経済の間の関係についてもいえることなのである。それゆえ、地球環境という根本的な基盤から蕫離床﨟したこの経済システムを、今一度地球環境の中に「埋め戻す」という作業が今求められているともいえるのだ。

 そのためには、具体的にいかなることがなされるべきなのだろうか。

 第一は、地球の有限性の認識である。K・ボールディングの「宇宙船地球号」の指摘を引くまでもなく、これまで無限のフロンティアがあると考えてやってきたわれわれの経済の営みを、すべて「閉じた有限の世界」を前提とした「内部的営み」に作り変えるということである。これは当然のことながら、経済・政治などの社会の仕組みだけではなく、われわれの価値観や倫理観の変革までをも含み込むことを要求するだろう。

 第二は、「人間中心」の世界観からの脱却である。A・レオポルドが指摘するごとく、われわれの倫理の対象を人間対人間から生き物、さらには無生物である天然資源にまで拡大するということである。

 彼によれば、次のような認識がカギだという。――①人間はこの自然システム(いまいうところのエコシステム)の中の単に一員であるに過ぎないこと。②そのエコシステムを調和を保って存続せしむべきこと……。

 

◆さらば経済的自由主義

 ところで、こうした考え方を「共生と循環」というコンセプトの中で捉えようとするのが、わが国で最近目立ち始めてきた動向である。人類社会の基本にあった「原初的な生活スタイル」をこの現代社会の中であえて見直し、その「現代的再生」を図っていこうとする立場である。

 例えば、焼き畑農業を営むアフリカ原住民のある部族は、一年間に自分の家族に必要な量以上は決して農業生産を拡大せず、自らの生活の基盤たる森林の再生産を維持することを最優先のルールとして生活しているという。こうした自己抑制をもった「自然との共生」の生活ルールを、今こそこの現代社会に回復すべきだと彼らは主張するのである。つまり、自然環境の循環系を決して乱すことのない経済、人間もまたこの循環系の中に自らを位置づけ、自然と人間が共に生きることのできる経済―、そうした新しいタイプの経済をここで求めようとするのが、この「共生と循環」というコンセプトを主張する立場なのだ。

 B・コモナーは、「新しい技術は、ちょうど二本脚の椅子のようなものだった。物理と化学の基礎をもっていたが、第二の脚である環境生物学をもっていないという欠点があったのである。このことは、環境の危機の原因を求める際良い指標となる。第二次大戦後に技術革新が爆発的な勢いで進んだのと同時に、同じ規模で環境汚染が押し寄せたのは単なる偶然の一致だろうか」と指摘する。ここにもあるように、われわれは今こそ、われわれの生態環境――共生と循環の世界――に対する深いトータルな認識をもった「新たな経済社会」を築いていかなければならないのである。

 今日の経済的自由主義に立脚する改革論には、こうした時代的要求に応えることができるだけの理念はないといわなければならない。むしろ、そこにあるのは、市場経済の「自動調節機能」に対する危険なまでの楽観というか幻想である。「経済学の危険な幻想によって、われわれの判断力は曇り、文明は危機に陥った。貪欲な産業活動と科学技術の暴走が地球規模の環境破壊を引き起こしている」と『経済学の神話性』の著者、E・J・ミシャンは述べるが、まさにこのような経済学的幻想そのままに、彼らはこの日本と世界をこれからも考えようとしているということなのである。

 その意味で、われわれは今こそ、こうした改革論に破産を宣告しなければならない。かかる改革論が、むしろ改革どころか、これまでの誤った路線の追認に過ぎないことは、ここまでわれわれが繰り返し指摘し、証明してきたことでもあるが、今こそそうした正当な認識が広くわれわれの間に共有されなければならないということなのである。

 ともあれ、今われわれに求められているのは、こうした月並みな改革論には留まらない独自の哲学をもった「新たな改革論」であろう。われわれはかかる「新たな改革論」をめざしつつ、ここにその基本となる考え方を提起してみようとしたわけである。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成6年5月号〉

※本論文の全文は、『保守再建への政治論』に掲載されています。