地方からの産業振興に生涯をかけた男

地方からの産業振興に生涯をかけた男

前田正名と明治の殖産興業から「地方再生」を考える

地方在来産業を基盤とする「下からの」産業化をめざした前田。政府の役職から追放されても「村力・郡力無くして国力無し」の信念をまげなかった。


 

◇地方経済対策はどこへ行った?

 日本経済は相変わらず低迷を続けているが、なかでも地方経済の現状はますます深刻なようだ。その結果、大都市部へ流出する人口の流れも止まらず、それが更に地方経済衰退・規模縮小に拍車をかけている。のみならず、それにとどめを刺すような政府による公共事業削減の相次ぐ政策。将来的に予想される本格的な人口減(地方にはとりわけ深刻な問題となる)を更に考慮に入れれば、今は抜本的な地方経済対策に猶予された最後の機会、といっても過言ではないのではなかろうか。

 とはいえ、これに対する政治家の問題認識はきわめて薄い。先の民主党党首選でもこの地方経済の問題はほとんど争点にならず、とりわけ菅直人首相の口からは意味のある言葉は全くといってよいほど聞かれなかった。「新経済成長戦略」などと仰々しく打ち上げはしてみても、所詮は環境技術だの、医療・介護だの、アジア新興国の需要だの……と地方経済への視点が全く見られない官僚立案の机上論を出ないのである。

 さて、こうした中、ここで紹介してみたいのは前田正名という先人である。前田正名といっても、恐らく大多数の読者にとってはなじみがなかろうが、彼はかつて明治時代の中期、殖産興業が国家の基本路線とされていた時代、最初は明治政府の農商務省の官僚として、後は在野の産業振興運動の指導者として、わが国の産業振興に中心的に関わり、それを担った人物なのである。彼は専ら実務を本務とし、政治家ではなかったがゆえに、歴史の表舞台に登場することはなかった。しかし、その足跡を日本資本主義の確立過程に辿る時、彼の存在はきわめて特異で偉大な光彩を放つといえる。彼の生涯に関わる唯一ともいえる伝記(『前田正名』吉川弘文館)の著者・祖田修氏はそうした彼の独自の存在の意義を、同書の「はしがき」に次のように書いている。

 「前田は……日本資本主義形成過程にあって……中産階級を中心とする地方諸産業の切実な問題を把え、その要請を担って登場し、栄光と暗影の交錯する生涯をくりひろげた。/前田の主張の現実的妥当性については、なお議論の残るところであろうが、彼が政府主流の政策の偏りを内在的に批判し、地方産業――前田の言葉をもってすれば『固有工業』『町村の経済』――に一貫して着目し、その振興を提起し、実践してやまなかったところに、彼独自の存在理由を見ることができるといえよう」

 ここにもあるように、前田の立場はかの「松方財政」の名で知られる松方正義ら当時の政府主流のそれとは対極に立つものだった。特権政商資本を担い手とする移植大工業中心の産業育成策が松方らの立場だったとすれば、前田が主張したのは地方在来産業を基盤とする「下からの」産業化だったからである。彼はそうした対立関係の中で、あくまでも自説を堅持しつつ、その結果政府の役職から追放され、在野の人となってからもなお、「村力おこらざれば郡力たらず、郡力たらざれば県力たらず、県力たらざれば国力到底たらず」とのモットーを掲げ、全国を自費をもって行脚し、地方在来産業の振興を追求していったのである。農民や地方産業の担い手を犠牲にした産業化は決して好ましいものではなく、「農工併進」で漸進的な資本主義国家の建設こそがめざすべき道、というのが彼の信念であったのだ。

 祖田氏も指摘するように、その政策としての妥当性については今も議論がある。しかし、関心を今日の地方経済の深刻な現状に引きつけて考えれば、筆者にはこの前田のめざした路線に強い共鳴の念がわき起こるのを覚えるのである。実際の時代の流れは、大工業中心の産業振興に向かうことになった。しかし、今日という視点からいえば、時代は再び地方産業や農林業への視角を求めているように思われてならないのだ。その意味で、ここは彼の生涯を簡単に概観しつつ、彼が求めたものの意味を考え直すことにしてみたい。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成22年10月号より抜粋〉

【本稿の主な内容】

 ・農工商の調和的発展

 ・布衣の宰相

 ・貿易を日本人の手に

 ・村力・郡力無くして国力無し

(続きは、『明日への選択』平成22年10月号で読めます)