「個」の観念から自由になる時が来た

 先日、東京新聞のコラムで、内山節という哲学者の一文を読んだ。筆者はこの哲学者については全く知るところはないが、この一文にはまさにわが意を得る思いだった。

 氏は現在、東京と群馬県の上野村を往復する生活を送っているという。その中で、とりわけこの山村の中で感じた暮らしの感覚をもとに、まず次のような問いを発するのだ。

 「今日の山村は厳しい。過疎化も高齢化もすすんでいるし、経済的基盤は年々弱体化してきている。ところが不思議なことに、村の暮らしの方が都市よりも無事な感覚をいだかせるのはなぜなのだろうか……」

 氏はそれに対し、「『私』を包んでいるものの厚さ」という解答を提示する。曰く、村では自然が「私」を包んでいる。村人が「私」を包んでくれている。村の文化や歴史も「私」を包む――と。つまり、この山村には「私」を包んでくれる様々なものがあり、それが与えてくれる安心感が、氏に「無事な時空」を感じさせるというのだ。

 これは実に含蓄深い指摘で、ここに現代社会のわれわれが気付かなければならない勘所があるのではないかと筆者は思わされた。現在、われわれの周りには人間の心に関わる様々な問題が存在するが、その根源にはそうした自分を「包んでくれるもの」を喪失した人間の不安と孤独があるのではないか、と思うからだ。

 というのも、今や多くの人々は自然や地域から離脱し、味気ない都会の孤独な住人であることを余儀なくされている。また、かつては濃密な家族の絆というものがありえたが、今はその家族はバラバラな個人に分解され、そこにはかつてのような一体感はない。そしてこれまで終身雇用制の下、従業員の一生をも保障していた職場は今はなく、人々は明日の安心すら定かならぬ不安の中に追いやられている。かかる現実に対し、氏は「裸の個人」という言葉を提示しつつ、次のように説くのだ。

 「近代社会の思想は、人間を単なる個体としてとらえた。『裸の個人』を絶対視したのである。
 私はそれは根本的な誤りであったと思う。そうではなく、いろいろなものに包まれているとき、個人にも安心感があり、無事を感じさせる一生がありえたのではなかったか。自然が人間を包み、人間の営みが自然を包む関係が成立しているとき、自然も人間も無事でありえたように、人間同士もまた、お互いを包み合うように生きていかなければならなかったのではないだろうか」

 「個人の尊厳」――などという空疎な観念が刷り込まれるに至ったのは、いつ頃のことからだったか。しかし、果たしてこうした観念の刷り込みにより、どのような「幸せ」が実現したというのだろうか。またその反面、われわれは何を失うことになったのか――。そろそろわれわれは、こうした観念の収支決算を行わなければならない段階を迎えつつあるように思われてならない。

 教育の現場では、今も「個人の権利」が高唱され、のみならず「個性を尊重される権利」だの、「自分で決める権利」だの、「安心して生きる権利」だのといった言葉が飛び交っている。「個人」が全てであり、二度とこの「個人」が否定されるようなことがあってはならない、と彼らはいうのだ。しかし、それに反比例するかのように、子供たちの心は年々空虚になり、拠るべきものを失い、生きる目標さえ失いつつある。かかる観念の刷り込みによって、子供たちはこれでもかとばかりに、「自然」だの、「家族」だの、「文化や歴史」だのという自分を「包んでくれるもの」を剥ぎ取られているからだ。

 こんなことを考えながら、同時に筆者は民主党が好んで使う「自立した個人」という言葉を想起せずにはおれなかった。ここには憲法と戦後教育が全てともいうべき彼らの体質を見るわけだが、果たしてこの「自立した個人」とは何なのか。それを聞いてみたいと思ったからだ。

 仕事を邪魔されないようにと三億もの政治献金を続けた西松建設の幹部、あるいはそこに執拗に献金を要求し続けた秘書、その追及に国策捜査だと開き直る小沢代表、そしてその彼に辞任要求もできない党幹部たち。これが「自立した個人」だというのなら、それは悪い冗談だという他ない。そろそろこうした無意味な言葉から自由に、物事を考え始める時がきたのではないだろうか。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成21年4月号〉