日本経済再生へわれらは何を目指すのか

日本経済再生へわれらは何を目指すのか

開国論一辺倒の「自虐的経済論」から日本の可能性を掘り起こす「新たな経済論」へ

輸出中心で進んできた日本経済は、今グローバル競争の中で修正を迫られている。従来のような外国を単純にモデルとして良しとするものではなく、成長という数値化された目標の単純な追求だけをもって足れりとするものでもなく、むしろこの「日本」という独自の可能性を問い、掘り下げ、磨く発想を今こそ追求しなければならない。


 

◇「開国論に非ずんば経済論に非ず」?

 今わが国のマスコミは突然火がついたかのごとき「経済開国」論で盛り上がっている。環太平洋経済連携協定(TPP)に日本も機を失することなく加わるべし、とする議論だ。菅首相がこれを「平成の開国」と呼んだことは周知のところだが、農業関係者を始め一部に強固な反対があるにもかかわらず、マスコミはまさに右の産経から左の朝日まで、まるで謀ったかのようにこの「開国」推進キャンペーンで歩調を合わせているのが現実といえる。

 「この機会を逃せば永遠に後悔する。そんなときが、人にも国家にもある」

 「国を開き、アジアをはじめ世界の成長市場を取り込むのが日本の成長戦略だ。TPPは今後のヒト・モノ・カネの移動を巡る世界的なルールになる。ルール作りに参画できる今を逃してはいけない」

 「日本には見るべき物的資源がない。しかも、国内市場に活力が薄れて久しい。アジア太平洋の広大な自由貿易圏への参入を、仮にも日本が拒むとするなら、日本経済の将来はないと言ってもおかしくはない」

 マスコミでは連日こうした主張が紙面を覆う。まさに「開国論に非ずんば経済論に非ず」といった趣だが、とはいえ、果たしてかかる大合唱に問題はないのだろうか。ここで推奨される自由貿易圏の推進というものが、果たして彼らがいうごとく「良いことづくめ」の選択なのかについては、前号で筆者は素朴な疑問を呈したところだが、それに留まらず、筆者にはこの「開国」という発想そのものに問題があるように思えてならないのである。

 明治の近代化以来、この国には文明のモデルやスタンダードをひたすら外国に求めるというもって生まれた国家的性向のようなものが存在してきた。この日本がめざすべき「坂の上の雲」、あるいは「幸福の青い鳥」は常に海外にあるもの、とされてきたのだ。その結果、この日本がもつ独自の特質や可能性といったものには真剣な配慮が払われず、追求されるべきはひたすら外国のモデルであり、スタンダードであり、日本はただそれに対して「門戸を開く」ことを求められてきたといえる。そうした宿痾ともいうべきあり方が、今回の「開国論」のベースにもなっているように思われてならないのだ。

 むろん、だからといって、開国という発想全てがケシカラン、というのではない。そうではなく、むしろそのような自己へのこだわりを放棄した国のあり方では今後は失うものの方が大きく、ここはむしろそうした外への志向から内へと、自らの強み・持ち味を問い直し、見直す方向への発想の転換というものが考えられてもよいのではないか、ということなのである。大きく跳躍するときには一度身を縮めることが必要なように、外に向かうときにはむしろ内に向かって力を充実させることが求められる。それをせずに、ただ外へ外へと安易に向かおうとするならば、その結果は足下をすくわれての転倒ということもあり得るし、自らの特質・持ち味を失っての空中分解ということもまたあり得るのだ。

 後にも述べるように、外へ外へと輸出中心で進んできた日本経済は、今グローバル競争の中で微妙な戦略修正を迫られつつある。と同時に、成長という数値的目標だけを単純に追い求めてきた世界の経済のあり方にも、徐々にではあるが反省が求められつつある。とすれば、この日本経済には根本に立ち返っての方向性の見直しが必要なのではないか? 従来のような外国を単純にモデルとして良しとするものではなく、また成長という数値化された目標の単純な追求だけをもって足れりとするものでもなく、むしろこの「日本」という独自の可能性を問い、掘り下げ、磨く発想が見直されてもよいと思われるのだ。(日本政策研究センター代表  伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成23年2月号より抜粋〉

【本稿の主な内容】

・輸出・開国で崩れた「幸せの方程式」

・「美しい国」づくりで「創造型需要」を掘り起こせ

・第一次産業で地方再生・環境国家の創造へ

・「自虐的経済論」から脱却しよう

(続きは、『明日への選択』平成23年2月号で読めます)