「美しい国・日本」創造プランを提唱する

「美しい国・日本」創造プランを提唱する

日本版「グリーン・ニューディール」の方向性を論ず


 

 「グリーン・ニューディール」という言葉には、筆者も人並みに大きな期待感をもっている。しかし、それは単なる低炭素社会を志向するだけの言葉ではない筈だ。筆者はむしろこの言葉に、現代の工業文明、あるいはグローバル経済が破壊してきたこの国の環境・自然を根本的に修復し、新たな「環境文明」に立脚した都市も地方もともに輝く国に、この国をつくり直していくという、もっと積極的な意味を込めたいと考えるのだ。

 現代の工業文明は、自らが損耗するこの地球環境というものを、深刻な「コスト」として考える思考を視野の外に置いてきた。また、ここ十数年のグローバル経済は、大量生産・大量流通・大量消費というシステムの中で、「それぞれの地方」の「それぞれの環境」に根ざす経済、というローカル的なものの意味をあえて否定し、むしろそうしたものを逆に押し潰すがごとき暴力的な市場経済を推進してきた。それが環境という「外部経済」を無視した今日の経済の現実であり、またその「それぞれ」の土地・環境に根ざした経済循環よりも、あえて巨大な経済循環を「世界大の規模」に求めるという経済の形でもあったといえる。

 とはいえ、それがもたらしたものは何よりもこの地球環境の破壊であり、それぞれの地域を成り立たせる地方経済の空洞化・弱体化であり、また農林水産業の疲弊・衰退であり、それによる環境との共生を旨とする生活・文化の解体、という現実だった。確かにそれは、一面ではわれわれの生活を便利にし、表面的には昔とは比べようもない豊かな生活をもたらしたことは事実だった。しかし、その便利さ、豊かさとは、「それぞれ」の土地・環境という、人間が人間として生きていく上で不可欠な生活の基盤、あるいは生存の基盤を逆に致命的に損ない、それを持続不能、もしくは不安定きわまりないものにするといった種類のものに他ならなかったのだ。

 そして現在、われわれは百年に一度という経済危機の中で、そうした諸々の問題がもたらす更なる危機に改めて直面せしめられている。海外の需要に余りにも依存しすぎたがゆえの「内需」の停滞、更にダメージが深まりつつある地方経済、崩壊寸前の農林水産業、資源・食糧の更なる自給率低下、進行する山村・国土の崩壊……等々、今一度この経済のあり方そのものに立ち帰った現状の見直しを迫られているということなのである。

 二酸化炭素排出削減による低炭素社会づくりそれ自体は結構なことだとしても、むしろ問題はこのように余りにも環境という「外部の自然条件」を無視し、また「それぞれ」の土地・環境に根ざす営みという、われわれの生活、あるいは生存の基盤を損なってきた現代経済のあり方そのものにあるのではないか。とすれば、そうした問題の根源に立ち帰った「新たな経済社会づくり」の構想が求められるといえよう。「グリーン・ニューディール」とは、本来そうした大きな展望をもった対策であるべきだと思うのだ。

 さて、このような認識から、筆者はそうした既成の議論にはとらわれない独自の「グリーン・ニューディール」の構想が、今この国には早急に求められていると考えている。環境対策を単に二酸化炭素排出削減の問題として単純化するだけではなく、むしろそれをわれわれの国土、生活、資源、食糧、産業経済のあり方総体にかかわる問題として捉え、その上でいかにそれを「グリーン化」していくか、という問題として捉える構想である。「グリーン化」ということになれば、むしろこれまでお荷物視されてきた農林水産業が中心の課題となろうし、更にはこれまでの国土づくり、都市政策、地方経済のあり方の根本的な見直しということにもつながっていく。筆者はそうした見地からの問題提起として、以下、一つの構想を示してみたい。名付けて、「美しい国・日本」創造プラン――である。

 まず、なぜ「美しい国・日本」なのか、ということである。……(日本政策研究センター代表  伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成21年4月号より抜粋〉

【本稿の主な内容】

・環境政策に積極的意味を込めよ

・経済の「グリーン化」を

・自然エネルギーへ積極転換を

・農林水産業・活性化の課題

・国土と都市を「グリーン化」すべし

(続きは、『明日への選択』平成21年4月号で読めます)