「社会」なき経済観からの脱却を

「社会」なき経済観からの脱却を

「健全な社会」という条件を欠いた経済発展は、所詮ははかない「あだ花」に過ぎない。その社会資本に最もめぐまれているのは日本だとフランシス・フクヤマは言う。ならば、いま求められているのは、「改革」ではなく、「よき日本」の再建ではないのか。


 

◇経済特区の「闇」

 今年(平成八年)三月六日の『ニューズウィーク』誌に、興味深い中国リポートが掲載された。題して「改革開放路線のもう一つの顔」――。ここ十数年、改革開放路線の「最前線都市」としてすさまじい発展を遂げてきた「経済特区・深セン」の生々しい現状を報告したものだ。(※深センのセンは、土へんに川)

 深センといえば、誰もがこの十数年の間に二百万の人口を抱えるに至った奇跡のような大発展を思い浮べる。税の減免、外国人投資家のための各種優遇策――、この経済特区の魅力に、安価な労働力を求める香港を始めとする多くの外国資本が殺到。それに並行して、見渡す限りの水田地帯は、またたく間にまばゆいばかりの大都会に変身した。それは「裕福になることは素晴らしい」との鄧小平の経済主義路線を具現化する成功物語でもあった。

 しかしながら、このリポートが描くのは、それとは正反対の「もう一つの顔」である。記者は、立ち並ぶ高層ビルや金ピカのニュー・リッチマン、あるいは五つ星のホテルについて書くのではなく、あえて次のような印象から書き始めるからだ。

 「ときに資本主義社会は地獄となる。香港から国境を越えて深センに足を踏み入れると、たとえ共産主義者でなくてもそんな思いにとらわれる。/外国製の酒やタバコの巨大な看板。汚れ切った羅湖の異臭。工事現場に響く杭打ち機の絶え間ない振動。駅の外には子供の乞食が群れをなし、赤ん坊を腕に抱えて旅行客にまとわりつく。/街角にたむろするミニスカート姿の女性が、香港から来たビジネスマンに色目を使う。郊外へ伸びる道路のわきには、人間であふれ返った粗末な労働者用宿舎が並ぶ」

 むろん、それは深センにことさら悪意を抱いての告発リポートではない。記者によれば、そこには深センという特殊な都市の「本質的な病理」が透けて見えるというのだ。それは「金儲け」という目的だけを執拗に追い求め続けた「魂なき都市」がもつ必然的な病理でもあるという。

 「すさまじい喧騒や労働者の搾取、災害へのそなえがほとんどない工場…。多くの矛盾をかかえたまま、深センは『魂なき成長』を続けてきた。/『深センには寺院や教会が一つもない。ここは食べることと女を買うこと、それにビジネス以外はやることが何もない都市だ』と、鄧時代の中国に関する多数の著者があるオービル・シェルは言う」

 つまり、そこにあるのは、かつて文革時代、伝統的な道徳基盤を完全に崩壊させてしまった中国が、その無精神の廃墟の上に、ひたすら作り上げようとしてきた「壮大な拝金主義文化」そのものでもあるということなのだ。

 「深セン市当局で住宅問題を担当する董日臣は、高層ビルの谷間から太陽が顔をのぞかせている深センのパノラマ写真を見せて、『美しいと思いませんか』と言った。ノーという答えが返ってくることは、まったく考えていないようだ」

 記者はこのように書きつつ、深刻な公害、危険な職場環境、子供たちの精神の荒廃、激増する経済犯罪や汚職、そして治安の悪化や売春といった問題を次々と取り上げる。成功にはある程度の「代償」が必要だというが、果たしてこの町のモラルのなさ、無秩序、不平等といった矛盾は、この種の「代償」という言葉で済ますことのできるような単純な代物なのだろうか――記者はこう問いかけるのだ。

 「この町には誠実さも友情もない。みんな金のことしか考えていない」「深センは天国だと思っていたのに、実際に来てみたら大違いだ」――記者はこうした四川省出身の青年の言葉を紹介しつつ、再度オービル・シェルの次のような言葉を引いてみせる。

 「深センがこれほどゆがんで見えるのは、商売の話を除いて人と人との対話がほとんどないからだ……」

 ビジネスと商売の話しかない町・深セン。果たしてこのモラルと精神性の欠落した町を、改革開放路線の成功物語などとみなすことができるのだろうか。

 現代中国の希望とはかなさの象徴――記者はこの町の印象をこう結論づけるのだ。

 

◇「社会」なくして「経済」なし

 さて、前置きが長くなってしまった。ここで考えてみたいのは「経済と社会」という問題である。

 フランシス・フクヤマの話題の近著『信無くば立たず』によれば、活力ある市場経済の存在は、ひとえに健全でダイナミックな「市民社会」の存在にかかっているという。この場合、「市民社会」とは、企業、自発的団体、教育施設、クラブ、組合、メディア、慈善団体、教会……等々、多様な諸機関の複雑な混合体から成り立つものだとされるが、かかる健全な「市民社会」の存在が基礎にあって初めて、活力ある経済の存在もまた保証される、と彼はいうわけだ。

 それでは、このテーゼを、この深センというケースに当てはめた場合、どういうことになるのだろうか。

 ここで指摘しなければならないのは、まさにこの健全な市民社会の「欠如」という問題である。記者もいうごとく、この町には「誠実さも友情もな」く、「金儲け」のことしか人々は話さない。人々の間には、商売の話を除いて真の「対話」というようなものはほとんどなく、町には「寺院や教会」などというものさえ一つもない。そこにあるのは、要するに経済であり、苛烈な競争であり、一部の成金とそこからはじき飛ばされた労働者や落伍者たちの無秩序な群れだといえる。つまり、「健全な市民社会」と呼べるようなものは、お世辞にも存在しているとはいい難いのだ。

 一体、こんな都市のどこが成功モデルなのか――というのが冒頭の『ニューズウィーク』記者の問題意識でもあったわけだが、そこで改めて問い直してみたいのは、このような深センを、むしろ社会主義中国における市場経済への「最高の発展モデル」などと単純に煽り立ててきた所謂エコノミストたちの経済観である。果たして彼らは、この経済と社会の深刻なアンバランスをどう説明するというのだろうか。

 たしかに、表面的な数字だけからいえば、深セン経済の達成してきたものは素晴らしい。とはいえその反面、それでは記者の指摘してきたような様々な矛盾の方はどうなるのだろうか。こんな深刻な社会的矛盾を抱えて、果たして深センはこれからも、これまでのような発展を続けていくことなど、できるというのだろうか。

 整備されたインフラ、大幅に緩和された規制、大胆な税の減免措置、安価な労働力……、たしかにここには経済発展ための最良の条件が全てあるとはいえる。しかし、かかる条件だけで、本当に活力ある健全な経済は成り立つのだろうか。社会が歪んでいれば経済も歪む。つまり、こうした「健全な社会」という条件を欠いた経済の発展は、所詮ははかない「あだ花」に過ぎないのではなかろうか。

 かくて、フクヤマの提出している問題の重要さもまた明確になるといえるだろう。彼は世界各国の経済を考察するに当たり、社会学者ジェームズ・コールマンの「社会資本」の概念の重要さを指摘する。それは彼の定義によれば、「集団や組織の中で共通の目的のために一緒に働く能力」--ということになるわけだが、この「社会資本」に恵まれた社会こそが、初めて本当に活力ある経済を築き上げることができると彼は指摘するのだ。

 これを深センの話に当てはめれば、かの地におけるこの種の「社会資本」の存在如何という話だといえるだろう。そこではかかる社会的基盤--例えていえば人と人との絆--が余りにも貧困であった。人は人を「金儲け」の手段としてしか見ず、「共通の目的のために一緒に働く」仲間などとはとても見なかったといえる。そこに四川省の青年やオービル・シェルの嘆きもまたあったということなのだ。

 

◇健全な「社会」こそ経済発展の条件

 そこで話は、この「社会資本」の評価ということになる。

 改めていうまでもなく、これまでエコノミストたちはこの種の「社会」に対する視点を一貫して軽視してきた。経済は「利己的個人による物質的幸福の最大化」という経済特有の論理によって動くのであり、そこに社会だの人間関係だのという経済外的な視点を持ち込むのは、根本的に見当違いな学問的方法だとしてきたのだ。

 しかしながら、深センの実例はこうしたエコノミストたちの前提が全く成り立たないことを実証したといってよいのではなかろうか。健全な社会がなければ、所詮は経済発展などといっても空しいといえる。われわれは経済を見る時は社会を見、そこに働く人間的要素をやはり正当に評価する必要があるということなのだ。

 ちなみに、これは人間というものを、そもそもどういうものとして捉えるのか、という人間観の話でもあるといえるだろう。人間というものが、所詮経済的利益の最大化しか求めないものだとしたら、話はエコノミストたちのいう通り簡単であろう。社会がどうであろうが、要は利潤が上がればそれでよいからである。しかし、人間の求めるものがそれだけではないとしたら、話はかなり複雑になるということなのだ。フクヤマはこの点について、次のように述べている。

 「人々が効用以外の目標を追求するケースは非常に多い。……彼らは他人を救うために燃えている家の中に駆け込んだり、戦いで死んだり、あるいはどこか山の中で自然を心の友とするために、儲かる職業を捨てるといったことをする。また、人々はただ単に自分の経済的な利益のためだけに行動するのではない。彼らは正しいこととそうでないこととの区別についても考えを持っているのであり、それにのっとって重要な選択を行うのである。もし戦争がもっぱら経済的資源のためになされるのだとすれば、これほど多くの戦争はとうてい起こらないだろう。だが不幸なことに、戦争には認知、正義、威信、名誉といった非功利主義的な目標が絡むのが常なのである」

 つまり、経済はこういう複雑な性向をもった人間の営む行為、という観点から捉えられなければならないということなのだ。人間を単なる「経済的利益追求の自動機械」と捉えれば、問題はその活動を保証する「自由な市場」をどう確保するか、といった単純な課題に帰着しよう。しかし、人間はそういうものではなく、生き甲斐や名誉や何ものかへの帰属感といったものを求める存在だということなのだ。そして、それが満足された時、人間はよく働くし、結果的に経済的利益も増進されるということなのだ。

 「労働者は決して企業の組織編成表の中で思うままに動かせる将棋の駒のような存在ではない。彼らは連帯感、忠誠心、反感といった要素を発展させることによって、経済活動の性質に影響を及ぼす。言い換えれば、社会的な、したがって道徳的な行動は、様々なレベルで利己的な効用最大化行動と共存しているのである。最大の経済的効率は必ずしも合理的で利己的な諸個人によってではなく、むしろすでにある道徳的なコミュニティーのおかげで効果的に共同できる諸個人によって達成される」

 こうした人間観の中から、フクヤマの「社会資本」の観念は出てきたといえるだろう。フクヤマによれば、これまでの経済学は約八〇%方は正しかったという。なぜなら、経済の中心的眼目はやはり経済的利益の追求にあり、そうした経済現象を説明するためには、「合理的で利己的な人間」の行動に関するそうした新古典派的な基本モデルが、約八〇%は妥当すると考えられるからである。

 とはいえ、フクヤマは残りの二〇%が実は肝心だという。この二〇%について、エコノミストたちは貧弱な説明しかできない。というのも、彼らはそうした効用最大化行動のもう一方にある、人間の社会的・道徳的な行動の重要性を全く理解できていないからである。人間は経済的利益のためだけに働くのではない。社会の一員として、そうした自己の社会への所属意識の満足のためにむしろ働くともいえるのだ。つまり、そうした人間の重要な側面に対する認識が欠けていれば、それは完璧な社会理論とはならないということなのである。

 フクヤマは、まさにこうした認識から「社会資本」の重要性を指摘しているということができるだろう。良きコミュニティーがそこにあれば、人々は喜びと生き甲斐をもって積極的に働くことができるし、また新たな経済的挑戦に当たっても、互いが互いを信頼し、力を併せ合うことができるということになるからである。

 もう一度、この点に関する彼の指摘を引いておこう。

 「社会資本は、その社会が創造できる産業経済の性質に関して重大な結果をもたらす。もし一つの企業の中で一緒に働かなければならない人たちが、一人残らず共通の倫理規範に従って仕事をしているために互いに信頼し合えるとすれば、ビジネスは安上がりになる。また、高度の信頼があれば社会関係の多様化が可能になるので、このような社会は組織の革新を行う能力も高い」

 

◇日本の「社会資本」の再建を

 さて、そろそろ紙数も尽きてきたので、ここらで結論に入りたい。

 フクヤマによれば、この「社会資本」という視点から見た場合、最も恵まれているのは日本だという。社会を支えている共通のルールに対する暗黙の承認、ある程度共通の価値観に相互にコミットしているという感覚、広い意味での同胞意識……等々、こうしたものが日本ではきわめて有効に、成員の相互の信頼を成り立たせる役割を果たしているといえるからである。

 とはいえ、それにもかかわらず、わが国のエコノミストたちの見方は全く逆だといわなければならない。彼らは、むしろこうしたわが国の社会的性格を「遅れたもの」、あるいは欧米のモデルから外れた「異質なもの」と見なし、その「破壊」や「改革」を率先して主張しているといえるからである。果たしてこのピント外れを、われわれとしてはどう考えたらよいのだろうか。

 ちなみに、フクヤマはこうした日本の「社会資本」における優位性を指摘しつつ、一方かかる「社会資本」のストックを近年急激に失おうとしつつあるアメリカの現状を、多大な憂慮の念をもって指摘しようともしている。

 暴力犯罪と訴訟の増加、家族構造の崩壊、多方面にわたる中間的な社会構造――近所づき合い、教会、組合、クラブ、慈善団体等々――の衰退、そして周囲の人々と共有する価値及びコミュニティーの減少……。彼はこうした現状を指摘しつつ、更に次のようなアメリカ固有ともいえる現実をも問題にしようとするのだ。

 「以前から、アメリカは他の先進工業諸国に比べてかなり多額の費用を治安維持のために支出しており、全人口の一%を上回る人間を刑務所に収容している。市民間の訴訟のために弁護士に支払われている費用も、全体としてヨーロッパや日本に比べて相当多い。これらの費用はいわば社会の信頼が壊れたために支払わざるを得ない直接税であり、両者の合計が国内総生産(GDP)に占める比率は無視できない程度にまで達している」

 つまり、このような「社会資本」の喪失は、純粋に経済的に見ても、甚大な影響を今日のアメリカ経済に及ぼしつつあると彼は指摘するのだ。全ては「健全な社会」があってのものであり、社会が壊れれば、所詮はかかる「外部不経済」との直面は不可避の道ということでもあるということなのだろう。

 にもかかわらず、わが国のエコノミストたちの口から洩れてくるのは、相変わらずわが国の「旧構造」を破壊せよ、改革せよ、とのリビジョニスト的スローガンのみである。規制緩和、リストラクチャリング、情報化、経済構造の改革……、果たしてこのような時流追随の革命家気取りのみで、わが国はこの経済的繁栄を二十一世紀まで持続していくことなどできるのだろうか。

 むろん、改革を叫ぶことが全て悪いというのではない。ただ、旧社会の破壊や改革だけが常に正しいわけではないということを、ここでは指摘したいのだ。改革と同時に、よき「社会資本」の維持もまた目指されなければならないであろう。また、そうしたものがもし、大幅に傷ついているような現実があるとしたら、その修復と再建が、何よりもまず図られなければならないということなのである。

 新聞や雑誌を開けば、今日もまたエコノミストたちの有り難いご託宣が踊っている。しかし、わが国の現実を冷静に観察すれば、むしろかかるエコノミストたちの浅薄な経済観からの脱却こそが、早急になされなければならない課題なのではなかろうか。少なくとも筆者にはそう思われてならないというのが、この小論の結論である。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成8年6月号〉