日本の運命に責任を持つのは誰か?

 いま懸案となっている外国人参政権問題について、『明日への選択』に何度か反対論を書かせていただいている。その都度、角度を変え、事実を掘り起こすなどして問題提起をさせていただいているのだが、書くたびに考えるのは、この問題の一番の根っこには何があるのかということである。賛成論者は、内なる国際化だとか外国人との共生だとか、地域住民としての権利だとかというのだが、むろん、そんな話は上っ面の話で反論も可能だ。記者が考えるのは、やはり日本という国家と国民との関係である。まだまだ生煮えではあるが、その一端をとりあえず書かせていただきたい。

 外国人参政権問題において、対象となっている韓国人と中国人について言えば、彼らの国の憲法にはこんな条文がある。

 大韓民国憲法は「すベて国民は、法律が定めるところにより、国防の義務を負う」(第三十九条)と定めている。中華人民共和国憲法はもっと詳細に「中華人民共和国の公民は、祖国の安全、栄誉および利益を擁護する義務を負い、祖国の安全、栄誉および利益を損なう行為をしてはならない」(第五十四条)とか、「祖国を防衛し、侵略に抵抗することは、中華人民共和国の各公民の神聖な責務である」(第五十五条)とまで規定している。

 こうした憲法規定を背景に考えれば、彼らへの参政権付与は、「国防の義務を負う」韓国人や、「祖国の安全」ばかりか「栄誉および利益を擁護する義務」を負う中国人が日本で選挙権を行使すること――こう言い換えることが出来る。

 しかし、これは中韓二国の憲法が特別なのではない。世界のほとんどの国の憲法は自国民に対して防衛の義務を明記している。むしろ、日本のように、国民の国防義務について何らの規定がない方が少数派と言える。

 参政権というと、今日の日本人にとっては単に選挙の一票を持つという程度の認識が強く、国防の義務は関係ないだろうと言われるかも知れないが、そのルーツにおいては国家の防衛と一体のものとして理解されてきたとすら言える。かつて読んだ『国家とは何か』という本のなかで、古代ギリシャ哲学の大家であった田中美知太郎先生が、古代アテネでは「市民権」を得るには国境における兵役など様々な厳しい条件を満たさなければならなかったことを紹介された後、こう書いておられる。

 「(古代のアテネでは)市民の資格の大切な一事は、国を守るということであったわけで、武器をとって祖国の防衛に当たるということが、国政に参与する権利を得るための条件だったと言うこともできる。ギリシャ人にとっては、外敵がきたら逃げ出すなどと言っている人間が選挙権を持っているなどということは、とうてい理解できなかったろう」

 ここでいう「市民」とはポリス(都市国家アテネ)の市民という意味で、国民国家の場合は国民に置き換えてもよかろう。「武器をとって祖国の防衛に当たるということが、国政に参与する権利を得るための条件」などと言うと、何を大時代的なと言われかねないが、前述したように、ほとんどの現代国家が国民、つまりは参政権を持つ者に対して国防の義務を課していることを考えれば、今日なお参政権と防衛義務とは決して無関係でないことを示しているとも言えるだろう。

 国家が一種の政治的な運命共同体であり、国民はその構成員として共同の運命に責任を持つ。それゆえ、共同体防衛の義務を負い、同時に共同体の意思を決定する選挙に参画する権利を持つ――こう考えることも出来るだろう。

 そうした観点から外国人、つまり日本国民ではない者とは何かと考えれば、究極のところ、日本の運命について責任をもたず、防衛義務も負わない人たちと言い得る。たしかに、外国人は、日本が居づらくなれば、少なくとも国籍を持つ国には無条件で帰ることが出来る。むろん、日本人に帰るところは日本しかない。

 こう整理してみれば、外国人参政権とは、外国の防衛義務は負っている一方、日本の運命に責任を持たない外国人を、日本の国家の意志決定に参加させることということになる。

 こんな単純な話さえ見えなくなっているのが、今の日本だということにも気が付く。外国人参政権問題が浮上してきたこと自体がその証拠とさえ言える。それゆえ、こんなことを許せば、今でも運命共同体意識の希薄な日本人はますます国家の意味すら分からなくなってしまう。逆に、一大国民的論議となり、参政権法案がストップできるなら、国民意識回復のターニングポイントと成り得るかもしれないとも考える。(日本政策研究センター所長 岡田邦宏)

〈『明日への選択』平成22年2月号〉