日本経済再生へ―脱近代の「新たなフロンティア」を

 「中国に近代を奪われた日本の未来」という一文を、国際公共政策研究センター理事長の田中直毅氏が『中央公論』四月号に書いている。田中氏が書いていることの全てに同感するわけではないが、そこには筆者の問題意識と重なる点が実に多く、大いに参考になった。以下、それに触発されての筆者の感想をここに記してみたい。

 田中氏によれば、中国はいま「近代化」(中国流にいえば現代化)に向け「驀進中」だといえる。かつて日本は「アジアで唯一の近代化に成功した国」といわれたが、いまやそのお株を完全に中国に奪われ、長らく守ってきたGDP世界第二位の座を中国に譲るのも時間の問題とされている。日本は未だにバブル崩壊の後の長期低迷から抜け出せず、一方中国は「世界の工場」として今や世界経済の牽引役とすらいわれる。こうした日中の現実を見据えつつ、田中氏は次のようにいう。

 「日本は近代化のチャンピオンだと思っていたにもかかわらず、ごく短期間にその地位は中国によって奪われたといえよう。それ以降、日本にとって、中国が優位性を確立しようとする近代の分野ではなく、むしろ差異化を通じて自らのよって立つ基盤をつくり上げるというテーマ性を抱えるに至ったといえよう」

 むろん、近代がダメなら脱近代で、という安易な話ではないが、日本はこうした新たな分野を開拓していかなければ、これから世界で存在感を発揮していくことはできないということだ。これからは環境関連の技術がカギといった指摘がなされるが、実はその技術すら、遠からず中国やインドにキャッチされ、移転されていくだろうし、とりわけ国内の生産拠点は更なる空洞化の運命を避けがたい。とすれば、これからは単なる品質の差異を超えた、ものづくりのコンセプトそのものをさえ転換するような差異化が求められる他ない、ということなのである。田中氏は更にいう。

 「中国が科学技術の分野における近代化をテーマに掲げたときから、日本はこれとの差異化をいかに実現するのかを突きつけられていたのである。現在では、これはもう待ったなしになった。恐らく新たなパラダイムを構築するまで、日本の製造業が優れた収益環境を実現することは簡単ではない」

 よくいわれるような単に一段階上の高級品、高品質品に特化していけばよい、という話ではないというのである。これではもう利益は出ない。新たなパラダイムの構築が必要だというのだ。

 もちろん、筆者はこうした分野に対してモノをいえるだけの知識をもっていない。ただ、ここで考えさせられるのは、「新たなパラダイム」という指摘である。筆者はここ二年ほど、地方経済の再生や農林水産業の活性化といったテーマに関心をもち続けてきたが、まさにこのような分野にこそ、実はこうした抜本的な発想の転換が求められるのではないか、と考えるからである。

 あえて単純化していえば、この分野は日本が近代化を志向し始めた時から衰退を宿命づけられてきた。人材は都市へと吸収され、開発は地方の持ち味である山河の美しさや自然を壊した。それだけではない。近代の効率性の追求は更にグローバリゼーションの段階へと進み、もはや地方の工場すら中国への移転を余儀なくされ、あるいはより価格の低い外国産品が地方経済をも押し流した。近代によって衰退せしめられたこの分野は、更に存亡の淵にまで追いつめられたのである。

 そうした中で、これらの分野の再生とか、活性化をいうことは何を意味するか。単純に結論をいえば、近代の発想の中には解決策はないのではないか、ということである。むしろ、この近代にいち早く見切りをつけ、脱近代の「新たなパラダイム」の中でこれからの方向を考えていくべきではないか、ということなのである。実はこう考えると、地方も農林水産業も新たな可能性の中で輝いて見えてくる。なぜなら、それはむしろこれからわれわれが求めるべき生活の「新たなフロンティア」にさえなり得る潜在力をもつからだ。

 近代が物質の時代だとするなら、これからの時代は脱物質の時代になっていくであろう。そう考えると、この分野にはこれからわれわれが眼を向けていくべき新たな価値が無限に控えているように見えるのだ。近代が捨てた自然を取り戻し、われわれの生の基盤を見つめ直す。そうすると、新たな可能性が見えてくるのではないか。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成22年4月号〉