議会開設百二十年の重みと誇り

 弊誌は本号をもって通巻300号となる。創刊は昭和61年2月であるから、この間25年。創刊時、たったの16頁・300部だった雑誌をここまでお育ていただいた購読者各位、また様々な形でご支援をいただいた各位に対し、ただただ感謝申し上げる次第である。これからはスタッフ一同、更に努力精進して、弊誌独自の視角と建設的提案のある雑誌をめざしたい。

 さて、そこで今月の主張である。今回は年頭の題材としてふさわしいかどうかはともかく、昨年11月29日に天皇・皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、国会で挙行された「議会開設百二十年記念式典」につき、いささか感想を述べたい。

 といっても、あの不敬発言の中井洽議員のことではない。その一方、両陛下のご臨席を仰いだ重大な式典であるにもかかわらず、議員の半数近くが欠席したという、考えられないような出来事についてである。「国会審議が実質的に終わっていた」「統一地方選が近い」といったことが理由だったようだが、一体欠席した議員たちはそんなささいな理由と式典の重さの区別もつかなかったのだろうか。中井議員の発言は問題外だが、この議員たちの態度も決して見過ごしにできるような問題ではない。そもそも議会の一員として、自らの式典に両陛下をお招きしておきながら、それに欠席するとは何を考えているのであろうか。

 こんなことを思うと同時に、議員たちが120年前、この日本に議会が開設されたことの意義にほとんど無関心であるという事実に、深い失望を覚えた。この議会開設の意義については筆者は色々なことをこれまで書いてきたが、この日本に明治23年11月、早くも議会政治が開始されたということは、特筆さるべき意義をもつことなのである。それを当の議員自身が自覚していないとしたら、これほど残念なこともない。

 まず議会開設に至った経緯である。五箇条の御誓文にある「広く会議を興し、万機公論に決すべし」はいうまでもないが、初めて議会を開くことを天皇が国民に告げられた明治14年10月12日の詔勅には、以下のような一節がある。

 「朕……夙に立憲の政體を建て、後世子孫継ぐべきの業を為さんことを期す。嚮に明治八年に元老院を設け、十一年に府縣會を開かしむ。此れ皆、漸次基を創め、序に循て歩を進むるの道に由るに非ざるは無し。爾有衆、亦朕が心を諒とせん。

 ……将に明治二十三年を期し、議員を召し、國會を開き、以て朕が初志を成さんとす」

 つまり、議会開設は何よりも天皇の大御心に発するということなのである。確かに、教科書などが書くように、そこには議会開設を求める在野の激しい運動もあったことは事実だ。しかし、明治天皇は当初より議会政治の欠くべからざることを自ら認識され、進んで本格的な議会開設へ向け、臣下に聖旨を示し続けられたということなのである。それはまさに佐々木惣一博士が以下のように書かれるがごとくだ(『日本憲法要論』)。

 「知るべし、我國が立憲制度を有するに至りたるは、全く先覺國民熱心の願望あり。而して我が天皇の仁慈なる、夙に之を聽容したまいたるに由ることを。(中略)……聖天子上に在り、早く国民の願望を明察したまい、擧國驩呼の裡憲法の成るを見たり。是れ實に立憲制度の歴史に於て彼我差異ある重大の一事とす」

 むろん、これは憲法制定の意義についての一節だが、「立憲制度」を「議会制度」と読み替えることに何の不都合もない。博士はこう述べられた後、この一文を次のように結ばれるのだ。

 「嗚呼、誰が皇恩の鴻大なるに感激せざらん。帝国憲法の由来を尋ぬるの時、自ら憲法尊重の念湧き來るを覺ゆるなり」

 もちろん、議会制度を定めた憲法は簡単に制定されたわけではない。事前調査にプロシアを訪れた伊藤博文にヴィルヘルム一世やグナイストが議会開設に強い懐疑を示したという事実もあった。しかし、伊藤を始め当時の政治家たちはそれに動かされることはなかった。議会開設は既に天皇がお示しになられた意思であり、またこの東洋の国でもそれは立派に実現できる、という日本人としての気概が彼らを動かしていたからである。

 議会が開設されてからも、この議会の運用は簡単ではなかった。しかし、先人たちはこの議会政治を戦時さえ断絶させることはなかった。この誇るべき意義を忘れてほしくない。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成23年1月号〉