食育・食の崩壊と家庭⑧ クリスマスとお正月にみる無惨な食事

◆コンビニおにぎりでお正月?

 食と家族の関係を研究している岩村暢子さんが、三十代、四十代の主婦がいる家庭百十世帯を対象に、クリスマスと正月をどのように迎えているかという調査結果を発表した。それによると、彼女らは過剰なまでにクリスマスに熱中する一方、お正月は全く厄介な行事として蔑ろにしているという(文藝春秋一月号)。

 まず、どれほどクリスマスに力を入れているかというと、彼女らは十一月に入るや否やクリスマスツリーやキャンドルは勿論、レストランやホテルにある電飾まで家の内外に飾り付ける。しかも十二月に入ると、家族のスリッパやパジャマの類まで赤・緑・白のクリスマスカラーに変え、クリスマスソングをかけて次第にムードを高めてゆくという。

 「ツリーを含めて一世帯あたり平均五~六個のクリスマス飾りがあった。けして広くない家に十八種類の置物や壁飾りを飾っていた家もある」

 一方、正月の方は、注連飾り、鏡餅など含め飾り物は平均三個でクリスマスの約半分。「お正月らしいものなど何も飾らない」という家庭は一割もあり、お節料理も次のような無惨なものになっている。

 「元旦の朝は、九三パーセントの家庭でお雑煮を食べている。しかし、おせち料理はその姿を大幅に変えた。まず、塗りの三段重におせちを詰めていた家庭はごく少数派。ほとんどの家では、大皿盛りにして出している。それも『かまぼこ、黒豆、きんとん、伊達巻き、煮しめ、昆布巻き』くらいであり、買ってきて切るだけ、盛り付けるだけで済むものに限定されている。
 おせち料理には、『黒豆は家族がまめに暮らせるように、数の子は子孫が繁栄するように、よろこぶ事があるよう昆布巻きを』などの謂れがあると知っている主婦は少ない。三〇代に限定していえば、皆無に近い。「なに変な駄洒落を言ってるんですか」とけげんな顔をされるだけである。謂れを知らないため、似たような料理であれば構わないと考えて、『腰が曲がるまで長生きできるように』という海老が、同じ甲殻類だからと蟹に置き換えられる。それでは脚が曲がってしまう」

 ちなみに、お節料理はなく雑煮だけ出すという家庭、あるいは雑煮を出すのはまだマシで、パックのままの納豆とごはんだけを出す家庭もある。それどころか、「子供はお雑煮が好きではないので、コンビニおにぎりを用意した」(四四歳)という家庭まであるというではないか。

 
◆お正月の本義

 そもそもお節料理とは、「年神に餅と共に供え、神と人が共に同じ物を食べるハレの日の食事」という意味がある。また雑煮は、年神に供えた食物を下げてごった煮にしたもので、神と人とが「共に分け合って食べることで霊力を得ることができる」と昔の人は考えていた。そうした日本古来の慣習の意義がまったく忘れ去られているのである。そこで、お正月の本義を今一度確認しておこう。

 「日本のお正月は、新年を祝うとともに新しい年神を迎え祭る行事でもあります。年神は『年徳神』『正月様』などとも呼ばれます。……年神は、その家の祖先神としても崇められてきました。大晦日の夜に訪れ、人々に新しい年を取らせ子孫を見守ると考えられてきたのです。年を取る、ということは単に年齢を重ねるだけではなく、新しい魂を神から与えられ、生命を蘇らせる意味をもっているのです」(以上、引用は白泉社刊『しばわんこの和のこころ』)。

 
◆「してあげる人」はいない――愛情のなくなった家庭

 お正月は単に新年を迎えるというだけでなく、このような深い意味をもつ。が、それを知らない今の主婦らは、平然と言う。

 「クリスマスは自分ペースだけど、お正月は大掃除とかしなければならない。私はいつ休めるのかと思う」(四五歳)。「私だけ準備で忙しい思いをするくらいなら、お正月はしたくない。ホテルへ行ったり実家にお世話になって自分もみんなと楽しみたい」(三二歳)。

 では、クリスマスに熱中するのはキリスト教を信仰しているからかというと、無論そうではなく、「ワインを抜いて家族で見つめあって乾杯すると、ムード満点でワクワクする」(四五歳)……などという仕様もない理由からだ。しかし、こんなただの自己満足によって、家庭が本来持つ機能は弱体化する一方である。岩村さんはこう分析している。

 「現代家族では、家庭の行事でもみんな同じように『楽しみたい人』ばかりで、誰かのために陰で『してあげる人』はいなくなっているので、行事は全て外注化される。手作りの料理より、レストランやテイクアウトショップで済ませるほうが『みんな平等』家族の幸せなのだ」と。

〈『明日への選択』平成16年1月号〉