「主権回復六十年」の意味を考える

 この四月二十八日はサンフランシスコ講話条約発効から六十年の日であった。その意義と今日なお残されている課題を、本来なら前号に取り上げるべきテーマではあるが、ここで考えてみたい。

 一般に指摘されるように、講和条約発効のまず第一の意義は、これにより日本が主権を回復したことにある。七年に及ぶ占領統治が終わり、日本は主権国家として晴れて国際社会への復帰が認められた。第一条は連合国は(日本の)「完全な主権を承認する」と規定するが、それが果たして「完全」であったかはともかく、戦争状態には終止符が打たれたのである。

 ここで確認しておくべきは、この戦争状態の「終わらせ方」である。当初連合国が考えていた条約の内容は、独立後も日本軍国主義の復活防止を最大眼目とし、なお二十五年間にわたり、日本を「監視・監督」していくとする内容のものだった。つまり、講和目的をあくまでも日本の「非軍国主義化と民主化」におき、旧日本復活を封ずるべく、それを監視し続けんとする内容のものだったのだ。

 しかし、これが冷戦の進行とともに修正され、結果的にダレス米国代表のいう「和解と信頼の講和」というものになっていったのが、この講和条約だったといえる。同条約前文は「同盟国及び日本国は、両者の関係が……主権を有する対等のものとして友好的な連携の下に協力する国家の間の関係でなければならないことを決意し」と述べるが、まさにそれは日本に国際社会における「主権」と「威厳と平等の機会」(ダレスの言葉)を与えんとするものであったのだ。

 それゆえ重要なのは、この条約にはイタリアなどとの講和条約に見られる「軍国主義」だの「侵略戦争」だのという戦争認識を示す規定が一切ないことである。そうしたものを全て排除し、その上で何らの「禁止」だの「制限」だのというものすら設けなかったのがこの条約であったのだ。

 「日本は戦争裁判法廷の裁判を受諾し」とするこの条約第十一条をもって、日本は東京裁判の「判決内容」を受容せしめられた、とする見解が政治家やマスコミの中で今日なお語られる。しかし、それはかかる条約の本質を見ることができない度し難い無知と迷妄という他ない。あえて繰り返すが、日本は「和解と信頼の講和」を得たのであり、また「威厳と平等の機会」を得たのであって、そこになお東京裁判の論理などが入り込む余地は一切なかったのだ。

 とはいえ、しからば日本は全ての面で「完全な主権」を回復し得たのかといわれれば、また話は別である。まず指摘しなければならないのは、千島列島と南樺太のゆえなき「放棄」、あるいは琉球・小笠原の米国による「信託統治」を規定する領土条項等々、敗戦国の屈辱を知らされたのも事実だからだ。吉田首相はこの千島列島には所謂北方四島は含まれない、と講和会議で関係者に訴えたが、今日もこの島々ではソ連による「不法占拠」が続けられ、更に沖縄はその後二十年間にわたり米国施政権下の現実を余儀なくされ、今日もなお「基地の島・沖縄」の現実に直面せしめられている。このことを忘れ、単に主権回復メデタシで済ますわけにはいかない。

 と同時に、この講和独立とともに、この日本自身が本当に「独立日本の政治」を回復できたかも問われねばならない。主権回復が文字通りのものであったのなら、まさに占領政策の遺物たる憲法は破棄され、新たな憲法が作り直されるべきはずであった。むろん、それと同様の他の「占領遺制」もそうだ。しかし、その当然の課題が今なお果たされていないのだ。

 「主権回復」から六十年。しかしそれは実際には「途上」というのが現実だろう。この現実を踏まえた論議が必要ではないか。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成24年5月号〉