皇室と沖縄

皇室と沖縄

◆「アメリカに行く前に沖縄に行けないか」

 天皇皇后両陛下には、十一月十七日~二十日、沖縄県を御訪問になった。産経新聞はこう伝えている(11・18)。

「両陛下の沖縄ご訪問は即位後4度目で、平成16年以来8年ぶり。『第32回全国豊かな海づくり大会』の臨席などを目的とした来県だが、両陛下の強い希望で、今回も初日に戦没者を慰霊されることになった。
 両陛下は沖縄平和祈念堂を訪問後、墓苑にご到着。雨の中、約18万人の遺骨が納められた納骨堂の前に白菊の花束を供え、深く礼をされた。戦没者の追悼・慰霊に取り組む沖縄県遺族連合会の照屋苗子会長(76)は、陛下から『遺族の人たちも高齢化してくるでしょうから、どうかよろしくお願いします』と声をかけられ、涙を流した」

 ところで、この御訪問に前後して複数の全国紙が、九月に公開された屋良朝苗・元沖縄県知事の日誌をもとに、昭和天皇が昭和五十年の訪米前に沖縄訪問の意向を示していたことが明らかになったと報じた。読売はこう書いている(11・19)。

「昭和天皇はこの年、9月末からの初訪米が決まっていた。日誌には、(宮内庁)長官の『天皇陛下から私はどうするのだ アメリカに行く前に(沖縄に)行けないかとの御下問があって困った』という発言に続き、知事が自分の心情を『陛下の御気持ちもうかがって胸がいたむ』とつづっていた。
 昭和天皇はこの訪米時の記者会見以降、沖縄訪問の希望をしばしば口にするようになったが、終生かなわなかった」

 他紙も趣旨は同じなのでここでは省くが、全くなってない。なぜならそれらは屋良の日記を紹介するだけで、沖縄についてお詠みになった昭和天皇の御製も、米国より先に沖縄を訪問したいとの御意向の背景も紹介していないからだ。この記事の前提になければならないのは、昭和天皇の沖縄に対する深い思し召しである。それがなければ何の話か分からないではないか。

 しかも、他紙に較べれば読売はまだマシな方で、毎日と東京に至っては昭和天皇の崩御を「逝去」と記す始末である。もとより新聞の多くは、年頭に発表される御製を一部しか紹介しないが、皇室に対する敬意を欠いた姿勢がそのまま露呈した恰好だ。

 

◆「思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを」

 

 昭和天皇の沖縄に対する深い思し召しは折々に示されてきたが、ここでは時計の針を一旦終戦直後まで戻す。

 昭和二十一年、昭和天皇は敗戦にうちひしがれる国民を励まそうと全国御巡幸を始められた。御巡幸は二十九年まで足掛け八年、総行程三万三千㌔㍍にも及んだが、この陛下の励ましにより、国民は生きる力を与えられ、日本は奇蹟の復興を果たす。しかし、沖縄だけは米国の施政権下にあったため、御巡幸が叶わなかった。昭和四十七年に沖縄返還が実現した後も、過激派の活動など警備上の不安等で御訪問が見送られてきた。

 それらの問題解消に目途がつき御訪問の運びとなったのはようやく昭和六十二年のことだった。同年四月、十月に沖縄で開催される秋季国体の開会式に御臨席のため、御訪沖が発表された。記者会見で、昭和天皇は「地方巡幸したときも(沖縄に)行くことができればよいと常に考えていました」と仰せられた。ちなみに、のちに秋田魁新報の記者が伝えたこんな話もある。

 「天皇陛下が新聞記者に『沖縄県』とおっしゃった。まだ復帰前のことなので、沖縄は『県』ではない。陛下のお心の中で沖縄は一貫して日本の県の一つだったのだ、と感銘を受けた」

 ところが、直前の九月、突然の御不例で御訪問が取り止めとなってしまったのである。

 結局、国体の開会式では皇太子殿下(今上陛下)が「おことば」を代読された。

「さきの大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害を蒙り、一般住民を含む数多の尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされたことを思う時深い悲しみと痛みを覚えます。
 ここに、改めて、戦陣に散り、戦禍にたおれた数多くの人々やその遺族に対し、哀悼の意を表するとともに、戦後の復興に尽力した人々の労苦を心からねぎらいたいと思います」

 そして昭和六十三年の年頭、次の御製が発表された。

 思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを

 昭和天皇がどれほど沖縄を深く思われ、御訪問を待ち望んでおられたか、お気持ちが胸に迫ってくる。沖縄戦では米軍により数多の県民が犠牲となった。「アメリカに行く前に沖縄に行けないか」と仰せになったのも当然だったのではなかろうか。

〈『明日への選択』平成24年12月号〉