集団的自衛権・国民は流言に騙されてはいけない

 今回は集団的自衛権の問題について書かせていただく。閣議決定から早くも二ヶ月が経ったが、相変わらず国民の理解は進んでいない。戦争になるだの、徴兵制が導入されるだの、と流言蜚語というべきものまでスッカリ浸透し、内閣支持率にもかなりの影響を与えている。いったいこんなことで良いのか、ということだ。

 ところで、こうなってしまったことについては、そもそも今回の決定を支持する陣営からの広報が弱い、とする指摘がある。慰安婦問題のようなテーマについては、すぐさま反応が出るものの、確かにこの問題では肯定的に論じたもの自体、少ない気がする。

 そんな中、今回は二点ほど述べさせていただく。

 第一は、今回の決定の「積極的平和主義」の側面に、もっと焦点を当てたものが出てきてもよいのではないか、ということだ。反対派にとっては、憲法といえば平和主義、ということになるが、実は憲法にある平和主義とは、彼らがいうようにただ平和を叫んでいればよい、政府は危険なことをするな、といった消極的なものではなく、もっと国際主義的で積極的・前向きなものでもあるのではないか、ということである。

 憲法前文には、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」とあるし、また「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」ともある。これは積極的な国際協調を説いたものであるし、更に加えて、第9条には「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」とあり、ただ平和であれば何でもいいという、無原則平和主義ではないことも明らかにしている。

 それだけではない。更にいえば、第12条には「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」とあるし、また第13条には「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については……立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とあり、権利の確保のためには「国民の不断の努力」や「国政上の最大の尊重」が必要だともしている。つまり、権利実現のためには平和が大前提だとすれば、その実現のための努力・手立てが必要だ、としているのだ。

  むろん、こうした考え方は国連憲章や日米安保条約に確認されているものでもある。実際に見てもらえば明らかなように、平和は平和でも、ただ叫んでいれば得られるというような発想ではないといってよい。つまり、今回の決定はこうした積極的な平和主義の考え方を徹底させようとしたもので、それを平和主義に反するというとしたら、それはきわめて偏った、日本にしか通用しない平和主義だというべきなのだ。

 第二は、今回の決定をこれまでの憲法解釈を逸脱するものだというが、どこが逸脱かという問題である。結論をまずいえば、今回の決定は集団的自衛権を「他国に出かけていって他国を守るもの」と捉えていたものを、そうした他国防衛は認めないとした上で、他国に対する攻撃が、とりわけ自国の存立・国民の権利に関わりを持つと判断される場合、それを「自国に対する攻撃」でもあると捉え、それを阻止することは認める、とするものだ。いってみれば、集団的自衛は集団的自衛でも、自国防衛のためのそれである。

 いったいこのどこが従来の憲法解釈からの逸脱なのだろうか。あくまでも自国防衛のためであるなら、それは日米安保条約第5条が規定する論理でもある。また、こうした解釈はかつて岸信介首相もしている。とすれば、反対派はもっと事実関係を踏まえた上で議論すべきだ、ということだ。平和は平和でも、積極的な平和への道もあるのだ。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈ChannelAJERプレミアムメールマガジン平成26年8月29日付〉