「憲法九条にノーベル平和賞」の支離滅裂

 憲法九条にノーベル平和賞をという先日のバカ騒ぎには心底呆れ果てた。そもそも憲法九条そのものが理解できているのか、自分がやっていることの意味がわかっているのか、これほどレベルの低い騒動もないと思えたからだ。

 まずノーベル平和賞という以上、九条が独自の内容と価値をもつ規定であることが前提となる。しかし、果たしてそうなのか。

 これには九条を一項と二項に分けて論ずることが重要だと思われるが、まず一項である。本誌でも繰り返し指摘してきたように、ここでベースとなっているのは不戦条約と国連憲章第二条四項の規定だといえようが、他にオリジナルなものは何もないということである。もしこの内容が特殊だというのなら、むしろ強調されるべきはこの二つの方であろう。

 加えて、この一項と同様の規定は他国にもゴマンとある。イタリア、フランス、ドイツ、ハンガリー、韓国……等々だ。それどころか、西修氏の指摘によれば、単に「平和条項」ということでいえば、世界にある一八八の憲法のうち一五八カ国がこの種の規定を置いているという。なのに、この憲法九条のどこが特殊なのか。

 むろんこういうと、いや二項が特殊なのだ、と返してこよう。そこで問題は二項ということになるが、ここで問いたいのは、そもそも申請者たちはこの二項と自衛隊の存在をどのように解しているのか、ということだ。自衛隊の存在を違憲と考えるのなら、この二項は公然たる違憲を許す「実効性なき規定」ということになる。というより、表向きは「非武装」をいいながら、その裏では自衛隊という武装組織を許す「詐欺的な規定」ということにもなるのではないか。例えば、当社は無農薬しか使いませんと表ではいいつつ、実際には農薬品使用の食材を使っているのと同じようなことだ。

 いや、自衛隊の存在と二項は矛盾しないと考えている、と反論するかも知れない。しかし、そうなると二項の独自性はもはやないに等しい。戦力不保持などといいつつ、結果は武装組織の存在を公然と許す「普通の条項」に他ならないからだ。これでは特殊をいう資格などどこにもなかろう。

 いや、自衛隊増強や海外派兵を許さない「歯止め」として機能してきた点が、受賞に値するのだと更にいい立てるかも知れない。しかし、それをいうのなら、そもそもその主張そのものが、これまでの同賞の立場と矛盾すると逆にいいたい。というのも、かつてノーベル賞委員会は国連PKO活動にノーベル平和賞を与えたが、そのPKO活動に日本も参加しようとした時、この九条をそうしたものへの「歯止め」だと主張し、反対運動を展開したのが、この人たちでもあったからだ。それは過去のことというかも知れないが、これではノーベル賞委員会にかつてとは正反対の矛盾した行為を要求するようなものではないか。

 ところで、ここではノーベル平和賞の受賞対象を「憲法九条」としてきたが、正確には「第九条を保持している日本国民」とするのが正しいようだ。そこで、もう一つ問いたいのは、そもそも「日本国民」とは誰のことか、「保持している」とはどういうことか、ということだ。少なくとも国民の半数近くはこの九条に懐疑的だと思われるが、そんな国民も含め、どうして「九条を保持している国民」などといえるのだろうか。

 最後にもう一つ。仮に受賞となれば、オスロに受賞しにいくのは安倍首相ということになろう。しかしそうなれば、恐らく首相は受賞スピーチで、逆にここぞとばかり「積極的平和主義」をアピールするに違いない。申請者たちはそれも憲法九条、と考えるのか。

 要は全くの支離滅裂。それこそが今回のバカ騒ぎであろう。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成26年11月号〉