「日本国民」とは何か

 数日の間、「憲法教育」に関する原稿を書いた関係で中学社会科(公民的分野)と高校の現代社会、政治・経済の教科書を読む機会があり、改めて「公民教育」の問題を考えさせられた。

 教科書の世界では、憲法に関する項目だけでなく政治に関する記述全体が「人権」から説き起こされ、人権で終わるという「人権絶対」の書きぶりが、ごく少数の教科書を除いて徹底している。同時に、その一方で忘れてはならない「国家」の存在が教科書からはすっぽり抜け落ちている。

 むろん、人権は尊重されねばならないが、しかし、人権が尊重されるためには秩序が必要であり、その秩序を保障するには国家が存立し、維持し続けられねばならない。また、各個人が個別に自分の人権だけを主張し、誰も国家について考え責任ある行動をとらなければ、その国家はいずれ分解してしまう。これは自明のことである。

 それゆえ、国民には権利を享受するだけでなく、同時に国家の存立を守り、他からの侵害を排除する義務があると言わねばならない。むろん、国家を構成する一員としての自覚がその前提である。権利とともにこうした義務や自覚を教えずして、「国家・社会の形成者として必要な公民的資質の基礎を養う」(学習指導要領)ことなど不可能ではないか。教科書を読めば読むほど、そんな思いが強まった。

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 そうした国民としての積極的な自覚や義務は、憲法で言えば「国防の義務」ということになるし、「国家への忠誠」ということになる。そんなことを言えば、今の日本では国家主義だ、右翼反動だと言われかねないが、しかし、それこそ世界のスタンダードなのである。

 世界の国々では外国人の帰化(国籍取得)にあたって、「国家に対する忠誠」を求めることがごく自然に行われている。アメリカの「忠誠の誓い」はよく知られているが、その中心となる宣誓は「真実の信念および忠誠を合衆国に対して保持すること」「合衆国の憲法および法律をすべての外敵と内敵に対し、擁護・支持すること」「法律によって求められた場合、合衆国のために武器をとること」などである。

 イギリスも同様で、「全能なる神にかけて、イギリス市民となったあかつきには、エリザベス女王陛下、法に則った陛下の世子および継承者に対して誠実であり、真の忠誠義務を負うことを誓います」という「宣誓」と、「連合王国に忠義を捧げ、……誠実に国法を遵守し、イギリス市民としての義務と責任を果たします」との「誓約」が義務づけられている。国家への忠誠、国防の義務は、その国の国民となるための前提条件だと言える。

 「国防の義務」にしても、アメリカ、イタリア、ドイツ、フランス、スペイン、ポーランド、スイス、中国、韓国等々、世界の多くの国が憲法で規定している。憲法に明文の規定がない国もあるが、それはわざわざ憲法に書くまでもないというケースだと言える。

 国民とはそうした自覚を持ち義務を負うのが、世界の常識だと言えるのだが、日本にはそうした憲法規定がないだけではなく、教科書で教えられることもない。

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 比較のために日本への帰化の宣誓をあげれば、「日本国憲法および法令を守り、定められた義務を履行し、善良なる国民となることを誓います」と言うだけ。法令を守るのは当然であり、義務といっても憲法で定められているのは納税、子弟の教育、勤労といった三つの義務だけ。いわば外国人でも十分に守れる宣誓であり、日本国民の要件とはとても言えない。

 憲法では「国民主権」が大原則だとされているにもかかわらず、「日本国民とは何か」が真剣に問われることがない。こんなことでは、われわれは近いうちに、日本列島にただ住んでいるというだけの「在日日本人」と化し、日本という国は溶けてなくなってしまうのではないか。これは「公民」教育の問題であると同時に、憲法論議としてもきわめて重要な課題だと言える。(日本政策研究センター所長 岡田邦宏)

〈『明日への選択』平成26年12月号〉