朝日が言う「グローバル時代の歴史」の正体

 今年元旦の朝日社説のテーマは「グローバル時代の歴史」であった。自国中心の歴史から自らを解放し、グローバルな視野の中で過去を振り返らねばならない、という。相も変わらぬ有難いご高説という他ないが、要は「自国」という狭い視点にこだわるナショナリズムを超えよ、という「上から目線」のお説教であろう。

 一方、これに刺激されてかどうかは知らないが、1月4日の毎日社説は「自分史に閉じこもるな」だった。「今や歴史を排他的なナショナリズムから遮断すべき時期である。他者への想像力を伴ってこそ、その主張は受け入れられる。日本の政治指導者は、偏狭な自分史に閉じこもってはならない」という。朝日と毎日を「兄弟紙」と呼ぶ人がいるが、これなどを見ると、まさにむべなるかな、とも思う。

 ところで、ここでこんな紹介をしたのは他でもない。「自国中心の歴史から自らを解放せよ」と彼らはいうが、実は誰よりもそれができていないのが当の彼らではないか、と筆者には感じられてならなかったからだ。彼らは「偏狭なナショナリズムを超えよ」という。しかし、実はそのように執拗に自国の「ナショナリズム」を問題視し、それを否定的に捉えようとする彼らの姿勢そのものが、いわば「裏返されたナショナリズム」――自国中心の視点――に他ならないのではないか、と思うからだ。

 例えば、慰安婦問題である。これはこれまで日本の歴史にのみ固有の問題として論じられてきた。まさに日本人の「自分史」に関わる暗部として、否定すべき過去の象徴として論じられてきたのである。しかし、そこにまさに欠落していたのが「自分史」の枠を超えた視点だったのではないか。もしこの問題を世界のどの国にも共通な「戦場の性」の問題として捉えれば、それは例えば秦郁彦氏が指摘したように、何も日本軍にだけ固有の問題とはならなかったであろう。つまり、慰安婦問題が「グローバル・ヒストリー」としてではなく、「ナショナル・ヒストリー」としてしか論じられてこなかったところに、この問題のむしろ「ナショナルな限界」があるということなのだ。

 彼らは国民に対し、「ナショナル・ヒストリーを超えよ」だの「自分史を超えよ」だのと説く。しかし、そういう自分自身が、実はまぎれもない「ナショナルな視点」そのものであることに気づいていないのだ。自国の「負の側面」にこだわりたいのであれば、同時に「他国の負の側面」にも同様の眼を向け、それを相対化して捉えるのが、グローバルな視点というものだろう。しかし、それが何よりもできていないのが彼らなのだ。

 朝日社説の中に以下のような一節がある。

 「どんな国にも、その成り立ちについて暴力的な出来事があるが、なるべく忘れ、問題にしない。史実を明らかにすれば自分たちの社会の結束を揺るがすから――」

 どんな国も、自国の歴史においては触れられたくない恥部をもつ。しかし、これを国家としての「自尊」の思いから、「悪いところばかりではなかった」と認めようとしないのは、「ナショナル・ヒストリー」というものの「身も蓋もない現実」だというのだ。その現実を超えよ、とこの朝日社説は国民にご高説を垂れる。

 しかし、筆者はそのようなお説教をしたいなら、まずは中国指導者に対していうべきではないか、とあえていいたい。グローバルな視点が重要だというのなら、何ごとも「日本への物言い」という前提を取り外して論ずべきであり、まさに以上のような指摘は中国共産党による「建国の歴史」に対していうのが相応しいと思うからだ。

  「グローバル・ヒストリー」は、そうした視点でのみ意味をもつはずだ。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈ChannelAJERプレミアムメールマガジン平成27年1月15日付〉